第百二十五話 三十六計逃げるにしかず
夜の帳が下りて、住宅街には人通りどころか家の明かりさえ消えかかる頃。そんな時間に夜道を歩く人影が二つあった。一つは大きく、一つは小さく。まるで親子のように夜道を歩く二つの人影が街灯の明かりに照らされて、その姿を鮮明に見せる。
大きい方は男性であり、その巨漢からも見て分かるぐらい筋肉質の身体を持っていた。そんな男が小さな方。そちらは少女といえるだろう、年齢的には昇達より二、三ほど下ぐらいの年齢だろう。そんな少女の手を取って、少女の歩幅に合わせて男性は歩いていた。
それでも少女の歩みは遅かった。なにしろ少女は盲目らしく、常に瞳を閉じており、左手に持っている杖で前方を確かめながら、男性に手を引かれて歩いている。だから自然と二人の歩みは遅く、それでもゆっくりと確実に二人は夜道を歩いていた。
そんな時だった。突如として少女が立ち止まると、左側に建っている建物に顔を向ける。盲目のために瞳は閉じたままだが、まるで見えているかのように、少女は建物に顔を向けるのだった。
「どうかしたのか?」
突然立ち止まった少女に対して男はいつもの事みたいに話し掛ける。どうやら、こうした事は良く有る事みたいだ。そして少女は建物に顔を向けながら男に告げるのだった。
「この中に……精霊が四人居る」
はっきりと精霊の事を口にする少女。どうやら、この二人も争奪戦に参加している契約者と精霊なのだろう。けれども、精霊が精霊を察知するには、かなり近づかないといけない。それなのに少女は建物の外、かなりの距離が空いているのに精霊の存在を察しただけではなく、人数までも正確に男に告げるのだった。
男も少女の言葉を聞いて精霊が居る建物に目を向けると、はっきりと思った事を口にする。
「随分とこの町にそぐわない程の豪邸だな。周りの住宅に比べてると、はっきりと存在が浮いているのが分かるほど豪勢な建物だ。いったい、どんな人物がこんな場所に豪邸を建てたのやら。随分と酔狂だな」
そんな事を言う男。だが確かに男が言ったとおりである。周りの建物に比べると、この屋敷だけが、まるで別の町を思わせるほど豪勢な建物となっている。敷地面積もさもながら、建物の作りも門も立派な作りとなっている。
この町、そしてこの場所は一般的な庶民の住宅が並ぶ住宅街だが、その中にポツンとまるで町の住宅街を見下ろすような豪邸が建っているのだ。男がそんな言葉を発しても、まるで不思議ではなかった。
だが男の言葉はよっぽど少女の興味を引いたのだろう。少女は瞳は閉じながらも、興味津々な顔付きで男に向かって話しかけるのだった。
「この豪邸って、そんなに凄いの?」
別に夜だから豪邸の凄さが分からない訳ではない。少女の目が物を写さないからこそ、少女は男に向かって尋ねるのだった。そんな少女の言葉を聞いて男は少女の言葉に答えながらも質問する。
「確かに凄い豪邸と言えるだろうな。それで……見たいのか?」
そんな問い掛けに少女ははっきりと頷いて元気な声で返事を返すのだった。
「うんっ!」
そんな少女の返事を聞いて男は豪邸に目を向けると真剣な面持ちになる。
「そうか……なら、丁度精霊が居る事だし、こちらから仕掛けても構わないだろう」
そんな男に少女は喜びの声を上げるが、男はそんな少女に落ち着くように言うと。それよりも優先させるべき事を口にするのだった。
「だが、今は今夜の宿を探すのが先だ。ここは、また後日にしよう」
そんな男の言葉に少女は少しだけがっかりしたような顔を見せるが、すぐに笑顔に戻って男の手を強く握り締めるのだった。そして少女は嬉しそうに男に向かって告げるのだった。
「これでまた一つ、思い出が増えるよ」
「ああ、そうだな」
少女の言葉に男は短く答えるだけだった。けれども、男がいつもこんな感じなのは少女は知っているのだろう。男の返事に構う事無く、話を続ける。
「豪邸か、そういえば建物を見るのは初めてだね。今までは景色を見てきたけど、建物を見るために戦うのは初めてだよね。でも……立派な豪邸なら見てみたいな。お屋敷か~、今から楽しみだよ。さすがに中を見る事は出来ないと思うけど、外から見れるだけでも充分だよ」
楽しそうに話す少女だが、そんな少女とは正反対に男は現実を突き付けるのだった。
「だが……我らには時間が無い。その時間をこの豪邸に費やして良いのか?」
そんな質問をしてくる男に対して少女は男を見上げながら、しっかりと確実に男の顔を見ながら答えるのだった。
「うん、構わないよ。だって……見たいって思っちゃったもん。だから絶対に見たいっ!」
最後に強調した言葉を聞いて男も納得したように頷くと少女に向かって承諾の言葉を送る。
「分かった。なら……我からは何も言うまい」
ぶっきら棒に答える男に対して少女は満面の笑みを男に向けながら、しっかりと男の名前を呼びながらお礼を言うのだった。
「うん、ありがとう、アルビータ。そして……今度もお願いね」
アルビータと呼ばれた男は少女の言葉に「あぁ」と短く返答するだけだった。それからアルビータは再びゆっくりと歩き出すと、少女も杖で前を確かめながら歩き始めるのだった。そして二人は暗闇へと姿を消していくのだった。
シエラの一件が終わり、数日が経過した、ある日。それはいつものように、でも少しだけ違った形で始まっていた。
「シエラっ! よくも邪魔してくれたわねっ!」
「ふっ、あの程度で私を出し抜けると思ったら大間違い」
そんな言葉と共にお互いの武器をぶつけあうシエラと琴未。これまた、いつものように与凪が常に学校に展開させている精界内で戦っていた。
今回の戦闘に入った原因は珍しく、琴未から行動を起こした事にある。授業が終わってから放課後になると昇達は自然といつもの生徒指導室に集まるようになっていた。まあ、学校内で争奪戦について公に話せる場所と言えばこことラクトリーがミリアの修行を行うために学校内のどこかに作った訓練場ぐらいなものだろう。だから昇はフレト達と連絡を取り合うにも、与凪から情報を貰うにも、この部屋が都合が良く。放課後には自然とこの部屋に集まるようになったようだ。
今日もそこで昇はフレトと話をしていたのだが、話題が争奪戦の話から他愛も無い世間話に移ると琴未はこっそりと動いた。閃華が全員の興味をそそるような話を始めると同時に琴未はこっそりと昇の後ろに周り込んで、一気に口を塞いで、そのまま昇を静かに、そして迅速に後ろに押し倒したのだ。
さすがに全員が閃華の話に興味が行っていたので、琴未の行動に気付く者は居なかった。そう、シエラ以外は。琴未は昇を後ろから抱える感じで、そのまま静かに部屋を出ようとする。その速さに昇も呆気に取られるばかりで、何が起こっているのか理解できなかった。
そんな時だった。突如として席を立ったシエラが、いきなりウイングクレイモアを出すと琴未の前に回り込み、そのまま琴未を昇もろとも窓から叩き出したのだ。当然、その後を追うようにシエラは妖魔の力を解放。背中の翼を羽ばたかせると一気に窓から外に出た。
一方の琴未は昇を盾にする事で何とかシエラの一撃は防いだが、窓から落下している事は確かだ。そこで琴未はしかたなくエレメンタルの能力を解放。雷閃刀を手にすると着地体勢に入るが、シエラはスピードが自慢の翼の精霊である。だから瞬発的な初動スピードも速く、一気に琴未に追い討ちを掛けてきたのだ。そのため、琴未は昇を解放するとシエラの攻撃に備える。
そんな事もあり、二人の戦いは幕が開いたのである。そして……昇はというと……いつものように、何とか自力で着地すると、すぐにその場から逃げ出して来て、今では生徒指導室に設置してあるテーブルに突っ伏している。
どうやら琴未の盾にされて、シエラから貰った一撃が相当のダメージだったようだ。それもしかたない、なにしろ昇も戦闘用のエレメンタルジャケットを身にまとう前だったのだから、昇でなくてもシエラの一撃が相当なダメージとなったのだろう。
そんな経緯もあり、今の展開となっている。そしてフレト達はというと……これまた、いつものように自動修復された窓から二人の戦いをのんびりと観戦しているのだった。言うまでも無いが……テーブルの上で死にかけている昇を放っておきながら。
そんな昇に気付かないままに、二人の戦いはますますヒートアップして行くのだった。
─昇琴流 天昇雷撃斬─
琴未は雷の属性を自分の身体に集中させると、まるで琴未の身体は雷に包まれたようになる。そんな状態のまま琴未は地面を蹴ると、まるで地面から雷が天に向かって放たれたような猛スピードで一気に上空に居るシエラに向かって突き進む。
さすがにスピード自慢のシエラといえども雷と一緒のスピードで突っ込んで来る琴未に対しては避けるだけが精一杯だ。それだけ琴未の上昇スピードは翼の精霊よりも勝っているのだが、一直線にだけしか進めないのが、この技の欠点とも言えるだろう。それでも、琴未が雷をまとっているのだ。雷の総量だけでも、かなりの量で稲妻というより電撃砲とも言えるほど太い雷だからシエラも避けるのが精一杯なのだ。
もし、直撃を喰らっていれば雷だけではなく、琴未の雷閃刀によって切り裂かれていただろう。雷撃と斬撃、この二つを兼ね備えたのが、この技なのだ。だが、シエラに避けられた事によって琴未は上昇を止めると同時に上空で無防備になってしまう。
そんな琴未に向かってシエラは背中の翼を羽ばたかせると、琴未に向かって突っ込んで行く。だが、その程度の事は琴未も予想済みだ。だからこそ、琴未は次の展開に持って行く。
「雷華っ!」
琴未がそう叫ぶのと同時に琴未がまとっていた雷が一気に放出されて、空中に雷の華が咲く。それでも、雷と雷の間にはかなりの隙間がある。シエラはその隙間を潜り抜けて、一気に琴未に向かって突撃を掛ける。
さすがは本当の姿をあらわにしたシエラと言えるだろう。今までとは段違いのスピードで一気に雷の華を潜り抜ける。今までは移動も攻撃もウイングクレイモアに頼っていただけに、どうしても移動スピードに関しては少しだけ同類の精霊には劣っていたのだが、こうして本来の姿となったシエラにとっては、この程度の事は簡単に出来るようになったようだ。それだけ、背中に生えている真っ白な翼がシエラにそれだけのスピードを出させているのだろう。
そんなシエラが雷の華を潜り抜けると未だに落下中で無防備な琴未に向かってウイングクレイモアを振るう。琴未としては先程の雷華でシエラの動きを完全に止めるつもりだったが、こうして雷華を潜り抜けてくるとシエラが有している妖魔の力が厄介だと改めて感じながらも、空中で雷閃刀を後ろに引き、刺突の構えを見せる。
そして琴未は一気に雷閃刀を突き出す。シエラにはではなくウイングクレイモアに対してだ。
─昇琴流 雷華一輪刺突─
さすがは剣術を叩き込まれた琴未というべきだろう。雷閃刀の切っ先は見事に尖ったウイングクレイモアの刃に当てたのだから。そんな雷閃刀の切っ先から再び雷の華が咲く。さすがに零距離での雷華だ。いくらシエラでも避けようが無かった。
だが雷華一輪刺突は元々、遠距離広範囲用の技であり、相手に当てる事を重視しており、威力としては弱かった。しかも肝心の刺突を空中で出したためか、まったく刺突の威力が出ておらず、雷華による細い雷のいくつかがシエラに直撃するだけだった。だからシエラとしては大したダメージは負ってはいないものの、一時的に動きを止めざるえなかった。
その間にも琴未は雷閃刀をウイングクレイモアに当てた衝撃を利用して一気に落下速度を増して、地面に向かって行く。そして無事に着地するのだったが、琴未はその場から動く事が出来なかった。まるで上から重い物を押し付けられているような、あるいは重力が増したような、そんな感触を琴未は覚えていた。
その間にも急降下してきたシエラが再び琴未に向かってウイングクレイモアを振るう。琴未は何とか雷閃刀を地面に突き刺して、その影に隠れると、何とかシエラのウイングクレイモアを受け止めた。それでも未だに琴未の動きが封じられているのは確かだ。そんな琴未に対してシエラが静かに呟く。
「エアーバインド、ダウンバースト」
その言葉を聞いて琴未もやっと理解した。琴未の動きを封じている上からの重い物。それは凝縮された下降気流である事を。
シエラが有しているもう一つの力。妖魔としての能力、それが大気のルーラーである。シエラは大気を自在に操る事が出来る。だから先程も琴未の攻撃を喰らった直後だが、雷に衝撃ですぐには動けないとシエラは判断したのだろう。だからこそ、琴未が着地する場所に狙いを定めて空気の流れを凝縮すると一気に吹き降ろしたのだ。
そのため琴未は上から流れ続ける下降気流に押し潰される形で動きを封じられたのだ。
これで一気に形勢がシエラに傾いたように見えるだろうが、琴未もこの程度で負けを認めるほどお人よしではなかった。
シエラが何をしているのか理解すると琴未は再び雷を集める……雷閃刀にではなく自分の身体にだ。今の雷閃刀はウイングクレイモアを受け止めているだけで精一杯であり、そのうえ動きを封じられている状態だから、ここから雷閃刀を使っての反撃は無理だと判断したのだろう。だからこそ琴未は自分の身体に雷を集めると、それを上空に向かって一気に解き放つのだった。
「調子に乗らないでよねっ!」
そんな気合の言葉と共に雷が天に向かって放たれる。その雷はまるでシエラが有している大気のルーラーで作り出した下降気流を真っ二つに斬り裂くように、一気に天に向かって駆け上って行くのだった。
さすがにそんな雷を間近で放たれてはシエラも琴未から離れざるえなかった。あのまま雷閃刀を力で押し返しても良かったのだが、琴未があれだけの雷を放出したとなると間近に居ると雷のダメージを受けてしまう。
さすがに精霊とはいえ微かな電撃を喰らえば痺れを感じるのだ。その電撃が強ければ強いほど痺れは強くなり、動きを制限され、最終的にはシエラの方が動きを封じられる事になる。シエラはそれを防ぐためにも琴未から離れたのだ。
琴未もやっとシエラのエアーバインドから解放されて、ゆっくりと立ち上がると再び雷閃刀を構える。シエラも琴未に合わせてウイングクレイモアを構える。一旦、お互いに離れた事で戦いの流れが中断されて仕切り直しになったようだ。
お互いに相手の出方を窺いながら出方を探っている。そのため戦闘は一時的に拮抗状態に入ったが、今度はシエラから仕掛けてきた。
シエラはウイングクレイモアを前に押し出し、縦一線に構えるとウイングクレイモアの翼を思いっきり広げる。
「フルフェザーショット」
翼から無数の羽が弾丸となって琴未に向かって放たれる。そんなシエラの攻撃に対して琴未も迎撃に転じる。
─昇琴流 雷ノ村雨─
シエラが放ってきた無数の羽弾丸に対して琴未は雷閃刀を下段に構えると、そこから一気に連続で刺突を繰り出す。しかもただの刺突ではない、雷の属性を宿した刺突だ。そのため一回の刺突から何本かの雷が放たれる。そんな刺突を常人の目では捉えきれないぐらい速く、連続で行ったのだ、シエラが羽の弾幕を張ったように、琴未も自分の前に雷の弾幕を作り出す。
そしてお互いの弾幕がぶつかり合い、小規模な爆発が次々と連鎖して行き、最終的には大規模な爆発を引き起こす。そうなればお互いに動きが止まる事になるだろう。だが……あくまでも、そうなる前まではである。
「フェザーバインド」
シエラはタイミングを計ると弾幕の最後にフェザーバインドを繰り出していた。そしてお互いの弾幕が大規模な爆発を引き起こして、シエラも琴未も爆発の衝撃により動きが一時的に止まる。そんな時にシエラが最後に放ったフェザーバインドが琴未を縛り上げるのだった。
大きくなった数枚の羽は琴未の身体に巻き付くと、そのまま琴未を縛り上げて動きを封じる。だがシエラも大規模な爆発の衝撃によりすぐには動けない。琴未もその事が分っているから慌てはしないものの、今現在、自分を縛り上げているフェザーバインドが厄介だと思っていた。
確かに、すぐにシエラからの攻撃は来ないだろう。だが、この状態では琴未から攻撃を仕掛けるのは無理だ。だからこそ、琴未は雷閃刀でフェザーバインドを切り裂こうとするが、いつの間にか雷閃刀まで動かない事をたった今悟った。
どうやらシエラはフェザーバインドだけではなく、最後にエアーバインドで雷閃刀の動きを封じたようだ。これで琴未は完璧に動きを封じられて動けない状態だ。それでも時の流れは止める事は出来ない。
爆発の衝撃は既に無くなり、煙の向こうからシエラが姿を現してきた。フェザーバインドだけでなく、エアーバインドまで琴未を縛り上げているのである。そんな状態だからこそシエラには琴未の位置を的確に知る事が出来た。だから未だに爆煙が上がる中を琴未に向かって的確に突っ込んで来たのだ。
だが、琴未は突っ込んで来たシエラに笑みを向けながら言葉と共に行動を起こす。
「これで私を倒せると思ったら大間違いよっ! 落雷陣っ!」
いきなりシエラと琴未に向かって稲妻が落ちる。そんな稲妻をシエラは背中の翼を羽ばたかせて急ブレーキ、そして急速後退する事で稲妻を避けた。だがもう一本の稲妻は琴未に直撃していた。
そんな事態にシエラは苦い顔をする。確かに稲妻は琴未に落ちた。だが琴未は雷の属性を有している。つまり琴未には雷撃、稲妻が落ちてもダメージは負わないのだ。それどころか、琴未に稲妻が落ちた事によって琴未を縛っていた二つのバインドが消滅、これで琴未も自由に動けるようになった。
どうやら琴未は先程のバインド。エアーバインド、ダウンバーストを打破するために上空に放った雷はバインドを消滅させるためだけではなく、落雷陣を展開させる事も計算に含んでいたようだ。そのため、今では精界ギリギリに展開された落雷陣から琴未はいつでも稲妻を落とす事が出来る。
確かに稲妻を幾ら落とされようともシエラは避けきる自信はあるが、琴未を攻撃する際には邪魔になる事は確かである。だからこそシエラは苦い顔をしたのだ。バインドを解かれただけではなく、これでシエラの攻撃も制限された事になる。しかも落雷陣は精界ギリギリに展開されている。落雷陣を破壊する事は可能だが、その衝撃で精界も破壊してしまうおそれがある。だから落雷陣を容易に破壊するわけにはいかなかった。
なにしろ、この精界は与凪が作り出した特殊な精界だ。だから本来なら内側からの攻撃ならいくらでも耐えられる精界だが、この精界は内側からの攻撃にも容易に破壊できるほど強度が弱い。だから下手すると落雷陣を破壊した衝撃で、そのまま精界の外に飛び出してしまうおそれがあるからこそ、シエラは落雷陣の存在を厄介だと感じていた。
なにしろ、一度外に飛び出してしまえば、下手に飛ぶわけにも行かないし、戻るためには精界を破壊するか、もう一度生徒指導室の出入り口から入らないといけない。精界の外で下手に属性の力を使うわけにはいかない。もし関係ない人にでも見られたら、厄介では済まないほどの騒ぎになってもおかしくない。だからこそ、争奪戦は精界内という特殊な空間で行われているのだ。それなのに、放課後という一番、関係無い人に見られそうな時間帯に精界の外に出るわけにはいかなかった。
それに生徒指導室まで戻る時間を考えると、その間に琴未が何をやってくるか分かったものではない。だからこそ、シエラは上空に展開された落雷陣を警戒しながらも琴未に対して、どう攻撃するか思考を巡らすのだった。
一方の琴未もこれで優位に立ったとは思ってはいなかった。ここ十数分の戦闘で三回もバインドを喰らっているのだ。下手に動けばシエラに再びバインドで動きを封じられるおそれがあったからこそ、琴未は落雷陣で優位に立ったとは思わなかった。むしろ、これでシエラの動きが少しは制限されるだろう程度にしか思っていなかった。
それだけシエラが繰り出してくるバインドは予想が付かないし、一度喰らってしまえば脱出するまで時間が掛かりすぎる。その分だけシエラは一気に攻勢に出てくるだろう。さすがに今度もバインドを掛けられて上手く脱出する自信は持てない琴未だった。
そのため、お互いに手が出し難い状況になり、お互いの出方を窺う拮抗状態になってしまった。なにしろ戦術的にはシエラが有利だが、落雷陣で戦略的には琴未が一気に有利になってしまったのだ。そのため、ここはお互いに出方を変えないと次はやられるという危機感があったのだろう。だからこそ、戦闘は拮抗状態に入って行ったのだ。
「ふむ、どうやら今日はそろそろ終わりそうじゃのう」
今までのんびりと観戦していた閃華がそんな言葉を口にする。なにしろお互いに手詰まりになり、戦闘が拮抗状態に入ったのだ。このまま次の手がお互いに思いつかないと、いつもそこでお互いに終戦を口にするのだった。だからだろう閃華が終わりが近い事を口にしたのは。
その言葉を聞いて与凪が口を開いてきた。
「それにしても、シエラさんの力も凄いけど……琴未も成長しましたよね」
二人の戦いを見て、そんな感想を言って来た与凪に対して閃華は少し笑いながら答えてきた。
「くっくっくっ、それはそうじゃろうな。なにしろ、ここのところはこうしてシエラと戦っているんじゃ。琴未も自然と成長してもおかしくは無いじゃろ」
「あぁ、確かに。というか、琴未はその事に気付いて無いですよね」
「そうじゃろうな」
そんな言葉を口にしてお互いに笑う閃華と与凪。
確かに与凪が言葉にしたように琴未はここに来て急成長している。それは特別な特訓をしているわけではない。こうしてシエラと本気で戦う事で技術を磨いて、戦闘経験を積み重ねているのだ。
傍から見ていたら昇を賭けた喧嘩にしか見えないが、その喧嘩が琴未を成長させる要因となっているのだ。だが、その事に気付いていないのは当人達だけだろう。だからこそ閃華と与凪はおかしくなり笑ったのだ。
そんな笑い声を聞きながらフレトが会話に参加してきた。
「あの二人には、これ以上無く好敵手という言葉が似合いそうだな」
その言葉を聞いて更に笑う閃華と与凪。まさしくフレトが言ったとおりだからだ。確かに二人の関係を見れば好敵手、ライバルという言葉が似合いすぎる。だが当人達から見れば、その言葉を思いっきり拒否する事が目に見えるほど想像できるからこそ、更に笑い声が大きくなったのだ。
そして、その言葉を発したフレトはというと、発言した後に空になったティーカップに紅茶のおかわりを咲耶に頼んでいたのだった。
外で行われている戦闘とはまったくの正反対の空気を出している室内では、すっかりのんびりな雰囲気が広がっているようだ。
そんな時だった。部屋の扉が開くと笑顔のラクトリーとすっかり疲れ果てたミリアが部屋に入ってきた。ラクトリーは真っ先にフレトの元へ行くと笑顔のまま告げる。
「今日の訓練と仕事は終わりました、マスター」
そんな報告をしたラクトリーはいつの間にか椅子を用意しており、フレトの横に座ると咲耶が入れてくれた紅茶を口にするのだった。フレトもそんなラクトリーの言葉を聞いて「そうか」と答えるだけだった。
ラクトリーは必ずと言って良いほどフレトと一緒に帰宅している。この学校に来たのもフレトの護衛を兼ねてだが、教師として赴任したからには、それなりの仕事もある。それにミリアが居るからこそ、師匠としてミリアに訓練を課しているのだ。フレトもそんなラクトリーを待つために、この部屋に訪れる事が多い。そのため、自然とラクトリー達が戻ってくると全員がそろそろ帰宅時間だという事を察するようになっていた。
そのラクトリーが窓際にフレト達が集っているのを見て、少し呆れながらも口にする。
「またやっているのですか、ここのところ毎日のようにやっているのに飽きもせずに、まあ」
どうやらラクトリーも外でシエラと琴未が戦っている事を察したようだ。まあ、今では二人の戦いを窓際に集って観戦する事も日課になっているが、シエラの一件が終わってからというもの二人の戦いは激化して、ここのところは毎日のように二人の戦いは開催されていた。だからだろう、ラクトリーが少し呆れながら、そんな事を言ったのは。
その言葉を聞いて閃華も少し笑いながら同意する。
「くっくっくっ、まったく、その通りじゃな。最近は昇も慣れの所為か、手強くなっておるからのう。じゃから二人とも強引な手段が多くなって来たんじゃろうな」
「滝下君も災難ですね」
閃華に続いて与凪がそんな言葉を付け足して来たので、再び部屋に笑い声が響き渡る。そんな中で、ただ一人だけ笑い声を上げていないミリア。正確には疲れ果ててテーブルに突っ伏していたのだが、そんなミリアが顔を上げると周りをキョロキョロと見回してから閃華に尋ねた。
「ねえ閃華、昇は~?」
「んっ? そこにおるじゃろ」
「えっ? 居ないよ~」
「……はぁ?」
ミリアの言葉に珍しくすっとんきょうな声を上げる閃華。そんなミリアの言葉を切っ掛けに与凪やフレト達も部屋を見回すが昇の姿は無かった。姿だけではない、いつの間にか昇の鞄も無くなっていた。
「なるほどのう、そういう事か」
いつの間にか部屋から姿を消した昇に閃華は納得したような言葉を発すると、部屋に居る全員に視線が自然と閃華に集まる。そんな閃華が姿を消した昇に付いて推測を述べるのだった。
「昇め……とうとう逃げおったな」
いつもなら昇は二人の戦いに巻き込まれても、最後はしっかりと皆一緒に帰宅するのが日課なのだが、この日に限っては、そうでは無いと閃華の言葉を聞いて全員が納得した。そして与凪が少しだけ心配そうに、思いっきり楽しそうに外の二人を見ながら閃華に尋ねる。
「良いんですかね、あの二人を放っておいて逃げ出して。二人が聞いたら、何を言い出すか分かったものじゃないですよ」
「まあ、滝下昇が逃げ出したい気持ちも分からなくは無いが……ここで逃げてはマズイだろう」
与凪に続いてフレトまで、そのような感想を述べる。
もう分っていると思うが昇はこの部屋には居ない、すでに荷物も無い、つまり……すでに帰宅の徒に付いたのだ。簡単に言うと、これ以上シエラと琴未の戦いに巻き込まれたくないから、さっさと帰るために逃げ出したのだ。
そんな事実をシエラと琴未が聞いたら、二人とも怒り出すのは間違いないだろう。だからこそ与凪もフレトもそんな言葉を口にしたのだが、閃華は少し考えると意外な事を口にした。
「……ふむ、まあ、これで良いじゃろう」
「って、良いのかよっ!」
閃華の言葉に思わず突っ込むフレト。そんなフレトに向かって閃華は珍しく真顔で答えてきた。
「なに、昇にも一人になりたい時があるじゃろう。それにシエラの一件以来、二人とも猪突猛進しておるからのう。ここは一つ、二人の頭を冷やすためにも。たまには昇を一人にしてやるのも必要じゃろ」
「ま、まあ、お前達がそう言うなら、俺としては口を出す気は無いが……」
「本当に良いんですかね~」
フレトの本心を読んだかのように言葉を口にする与凪。そんな与凪はフレトとは正反対で楽しそうだ。まあ、与凪の性格からして、これも他人事で済ます事だろう。そんな与凪とは違ってフレトは少しだけ心配そうだ。さすがに男同士、分かり合う物があるのだろう。そんなフレトに向かって閃華は微笑みながら口を開く。
「なに、構わんじゃろ。昇とて人の子じゃ、いつも完璧でいられる訳では無いからのう。それに……たまには自由にしてやっても良いじゃろう。その事で、あの二人も最近の行動が昇の事を考えて無いと察するじゃろうて」
「というか、琴未の作戦を考えてたのって閃華さんですよね」
そんな与凪の突っ込みを閃華はどこ吹く風のように無視した。それから外の二人に優しい視線を送りながら、無理矢理に話を続けるのだった。
「それに居なくなって、初めて存在の大切さに気付く。我々はその事をシエラの一件で知ったばかりじゃからのう」
「私は無視ですか、まあ良いですけど。それにしても……本当に滝下君を一人にして良いんですかね」
しつこく、その言葉を口にする与凪。そんな与凪に対して閃華もしつこく同じ事を言うのだった。どうやら閃華としては早く話題を切り替えたいようだ。だが与凪の言葉が意外な事を気付かせる。
「大丈夫じゃよ、昇とて子供では無いんじゃし。たまには一人になりたい時もあるじゃろ」
「いえ、そうじゃなくてですね。滝下君の事ですから……また、どこかでトラブルに巻き込まれる可能性があるのではないのかと、私はそこを心配して言ってるんですけどね」
「…………」
与凪の言葉に思わず無言になって考える閃華。それから閃華の頬に一筋の汗が流れながらも閃華は言葉を口にするのだった。
「ま、まあ、大丈夫……じゃろ……うな」
どうやら閃華にも、そこまで断言できるだけの確信は無いようだ。むしろ、昇だからこそ女性関係でトラブルが起きるのでは無いのかと心配になっているのは確かだった。だが、そんな事は決して口にしてはいけない。なにしろ……外に居る二人の耳に入ったら、どんな事が起きるか分かったものではない。だからこそ閃華はその事は胸の奥に仕舞いこむ事にし、今は外に居る二人をどうやって説得するかを考えるという現実逃避に走る事にした。
「さて、今日はセリスのために早く帰るか」
「あっ、私も帰ります」
どうやら、これから起きる修羅場をすでに想像できたのだろう。まあ、普段から昇達に関わっていれば、これから起きる修羅場などは簡単に想像できるだろう。だからこそ、フレトと与凪はそんな言葉を口にして、本当に帰ってしまった。
そして部屋に残された閃華とミリア。ミリアは耳を塞いで何も聞こえないフリをしていた。どうやらミリアもこれから起きる修羅場を想定して準備しているようだ。そして……静かになった生徒指導室には閃華の溜息が大きく響き渡るのだった。
閃華が大きな溜息を付く数十分前、昇は一人で帰宅のために歩きながら身体を伸ばしていた。
ん~、はぁ~、そういえば……こうやって一人で歩くのって久しぶりだな~。いつもは皆が居たり、誰かが横を歩いてたからね。でも……たまには良いよね、こうやって一人になるのも。
どうやら昇は充分に自由な時間を満喫しているようだ。それでも、頭の中では自然とシエラ達の事を考えてしまう辺りが昇らしいところと言えるだろう。
う~ん、今は良いけど。家に帰って来たら、また詰め寄られるだろうな~。まあ、その前に閃華が何とかしてくれてると思うけど……ごめん、閃華。けど、いつもいつも閃華には苦労させられるからね~。たまには仕返しって事で閃華に頑張ってもらうのも良いよね、うんうん。けど、帰って来たら皆に謝らないとかな? それとも何かで誤魔化さないとかな? なんにしても、シエラ達の機嫌を取らないといけないよね。そのためにはどうしたら良いのかな?
その事で頭を悩ませながら歩き続ける昇。今は良いけど、家に帰ったら嫌でもシエラ達と顔を合わせる事になるのだ。だから昇としては、その事に真剣に悩んでも不思議では無い。
だからだろう、昇は周りに注意する事無く歩き続け、気が付いた時には何かに足をとられていた。そして昇は豪快に転んでしまった、自分が仕出かした事の重要さに気付かないままに。
はい、そんな訳で、やっと始まりました百年河清終末編ですっ!!! いや~、新年早々に新編のスタートですよ……なんというか……また終わるまで一年ぐらい掛かりそうだな……。
さてさて、ネガティブな考えはやめにして、少しポジティブな感じで本編に触れてみましょうか。さあ、いよいよ二人の戦いが激化する中、これまたとうとう逃げ出した昇。
そんな昇を待っていたのは……次回明らかになります。それに冒頭に出てきたアルビータも気になるところですね。さらに少女がはっきりと遠くに居る精霊を察知してきたのも気になるところですね。まあ、それはおいおい明らかになってくるでしょう。そして最後には……。
とまあ、こんな感じで行こうかと思っております。そんな訳で次回、いよいよ昇が〇〇しますっ!!! まあ、丸の内容については次回をお待ちくださいな。まあ、昇がそんな行動を起こすのも無理は無いですよね~。なにしろ、今回のような戦いに昇は毎日巻き込まれているのですから、それは逃げ出したくもなりますし、〇〇もしたくなりますよ。そんな訳でバトルはしばらくありません……まあ、修羅場ならあるかもしれませんが、数話ほどバトルなし、そしてシエラと琴未が珍しく〇〇しますっ!!! さあ、どうする昇。……という感じですかね。
まあ、そんな感じで進んで行くと思うので、これからの百年河清終末編もお楽しみください。という事で、そろそろ締めますね。
ではでは、ここまで読んでくださりありがとうございました。そして、これからもよろしくお願いします。更に、評価感想もお待ちしております。
以上、始まったのは良いんだけど……本当に終わるまで時間が掛かりそうだな~と今から更新ペースについて心配している葵夢幻でした。