第1話 灰月の城
死ぬ瞬間に何を思うのだろう。
後悔か。恐怖か。祈りか。
ルナエルにはわからなかった。
燃えていた。
城も。空も。世界も。すべて。
巨大な魔王城ヴァルディアは炎に包ま れ、黒煙を吐き出していた。
崩れる塔。響き続ける悲鳴。
剣戟。血。灰。
その地獄の中を、一人の少女が歩いていた。まだ幼い。
黒髪に銀が混じる、不思議な髪色。
静かな赤い瞳。泣いていない。
震えてもいない。
ただ、見ていた。
「ルナエル様、急いでください!」
メイドが少女の手を引く。
彼女の名前はリシェル。
幼い頃からルナエルに仕えていた女性だった。だが、ルナエルの視線は別の場所に向いていた。
中庭。巨大な黒剣を握る男。魔王。
ルナエルの父。
その周囲には、何百もの兵士が倒れている。それでも勇者軍は止まらない。
無数の光。無数の刃。無数の殺意。
そして、その中心にいた。
白銀の鎧を纏った一人の青年。
勇者。
二人の剣がぶつかった瞬間、空間が歪む。石畳が割れ、城壁が吹き飛ぶ。
まるで世界そのものが衝突しているようだった。
「見てはいけません!」
リシェルがルナエルを抱き寄せる。
だが少女の目は逸れない。
その瞬間だった。
勇者の剣が、魔王の胸を貫いた。
瞬間時間が止まる。
父と娘の目が合う。
魔王は血を吐きながら、笑った。
怒りでもない。絶望でもない。
ただ。
娘が生きていたことに安心したような、静かな笑み。
そして次の瞬間―
轟音。
世界が白く染まった。
気づけば、ルナエルは森を走っていた。
リシェルに手を引かれながら。
後ろからは追手の声。
鎧の音。馬の足音。
「止まらないでください!」
リシェルは肩から血を流していた。
矢が刺さっている。
それでも彼女は走る。
ルナエルを守るためだけに。
やがて森の奥に着いた。
大木の根元で、リシェルは膝をついた。もう立てない。
それでも彼女は震える手で短剣を抜く。
「生きて……ください」
兵士たちが迫る。
剣が振り下ろされる。
赤い血が飛んだ。
ルナエルは無力にも隠れて見ているだけだった。
最後まで自分を守ろうとした人が、殺される瞬間を。
なのに、涙は出なかった。
悲しくないわけじゃない。
苦しくないわけじゃない。
ただ、
どうすればいいのかわからなかった。
しかし少女は、覚えてしまった。
「弱い者は死ぬ」
その事実だけを。
森は静まり返っていた。
風が木々を揺らす音だけが響く。
さっきまで聞こえていた悲鳴も、剣戟も、もう遠い。
ルナエルは大木の陰に身を潜めたまま動けなかった。
いや、動かなかった。
動けば死ぬ。
それだけは理解していた。
土の上には、リシェルの血が広がっている。
赤黒い匂いが鼻につく。
だが、ルナエルは目を逸らさなかった。
「……ガキはどこだ」
兵士の声。
鎧が擦れる音が近づいてくる。
「魔王の娘だ。生かして帰すな」
「見つけ次第殺せ」
ルナエルは息を止めた。
心臓だけがやけにうるさい。
足音が近づく。
草を踏む音。
剣を引きずる音。
そして。
木陰へ、一人の兵士が顔を覗かせた。
目が合う。
男の顔が歪む。
「いたぞ――!」
剣が振り上げられる。
もう逃げられない。
そう思った瞬間だった。
――ザンッ!!
鮮血が舞った。
だが、斬られたのは兵士の方だった。
首が飛ぶ。
遅れて体が崩れ落ちた。
「なっ……!?」
周囲の兵士たちがざわめく。
森の奥。
月明かりの中から、一人の女が現れた。
長い黒髪。
そして、血の滴る細身の刃。
女は兵士の死体を見下ろし、面倒そうにため息を吐く。
「……小娘1人に大勢で、恥ずかしくないのか?」
兵士たちが一斉に剣を向ける。
「何者だ貴様!」
女は笑った。
獣みたいな鋭い笑みだった。
次の瞬間。姿が消えた。
兵士の腕が宙を舞う。
体が裂ける。
兵士の悲鳴が森に響いた。
速すぎる。
ルナエルの目でも追えない。
ただ一方的だった。
剣が振るわれるたびに兵士が倒れる。
最後の兵士が逃げようとした瞬間。
女の投げた短剣が背中に突き刺さった。
静寂。
女は刀身についた血を死体で拭い、ゆっくりルナエルへ視線を向ける。
赤い瞳。
泣かない美しい少女。
「……その目」
女が小さく呟く。
「アイツにそっくりだな」
その瞬間。
女の脳裏に、数年前の記憶が蘇る。
雨の降る戦場。
崩れた城壁。血の海。
そこで女は、一人の男と向き合っていた。
巨大な黒剣を肩に担いだ“魔王”。
互いに満身創痍だった。
周囲には無数の死体。
生きている者など、二人しかいない。
「はっ……相変わらず化け物だな」
女が血を吐きながら笑う。
魔王も小さく笑った。
「貴様ほどではない」
その男は強かった。
誰よりも。
だが何度も戦ってきた女は知っていた。
この男はただの怪物ではない。
戦場の果て。魔王はふいに空を見上げた。
「……もしもの話だ」
「娘がいる」
女は眉をひそめる。
「娘?」
魔王は静かに続けた。
「もし私が死に、あれが生き残ったなら――」
そこで初めて。
王ではなく、“父親”の顔をした。
「生き方を教えてやってくれ」
女は鼻で笑う。
「テメェ、自分の娘を他人任せにすんのか」
「私は王だ」
魔王は静かに言った。
「だが、父親として生きるには……少し遅すぎた」
沈黙。
雨が降り続ける。
やがて女は刀を鞘に収めた。
「断ったら?」
魔王は笑った。
「貴様には人の心がある、断れん」
「……チッ」
その時の顔を、女は覚えていた。
魔王ではなく。
ただ娘を案じる、一人の男の顔を。
女は目の前の少女を見る。
血に濡れ。
灰に汚れ。
それでも泣かない少女。
「なるほどな……」
小さく呟く。
女はゆっくりとルナエルへ歩み寄った。
ルナエルは逃げなかった。
赤い瞳で女を見上げている。
警戒も。怯えも。何もない。
女は近くの倒木へ腰を下ろす。
「お前の父を知ってる。昔、本気で殺し合った」
ルナエルの瞳がわずかに揺れる。
「勝ったのですか」
「負けた」
女は即答した。
「いつも真正面から叩き潰された。心底戦場で会いたくねぇって思ってたよ」
なのに。
女の口元は少し笑っていた。
「……でも嫌いじゃなかった」
ルナエルは黙って聞いている。
女は空を見上げた。
木々の隙間から月が見える。
女は立ち上がった。
「これからお前はどうする」
「……?」
「逃げ続けるか。ここで死ぬか。それとも――」
女の目が細くなる。
「生き残り復讐のために戦うか」
ルナエルは答えなかった。
だが。
頭の中では、ずっと同じ言葉が響いていた。
「弱い者は死ぬ」
リシェルは死んだ。
父も死んだ。
何もできない者から死んでいった。
ルナエルは静かに拳を握る。
小さな手が震える。
恐怖ではない。
悔しさだった。
「……強くなれば」
小さな声。
「誰も死ななくなりますか」
女は少し驚いた顔をした。
そして数秒黙ったあと、鼻で笑う。
「ならねぇよ」
即答だった。
「強くても死ぬ時は死ぬ。守れねぇ時は守れねぇ」
その言葉は冷たかった。
だが、不思議と嘘には聞こえなかった。
女はルナエルの前へ立つ。
「来い、ルナエル」
「これからお前を鍛えて強くしてやる」
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