91_ゆっくりと厳粛に~予兆~
それから数日、5《シュンフ》は物語をそらんじてくれた。
“アンナメリー”“七竜物語”みたいな有名どころから、“空の血”みたいな恐ろしい物語、それに“老人と海”みたいな空想物語も。
5《シュンフ》は穏やかで、そして聞き取りやすい口調で語ってくれた。
トリエはそれに真剣に耳を傾けていた。
がた、がた、と揺れる部屋の中、彼女の語る物語だけが心の奥に響き渡り、時に暖かく、時に切々なものを、トリエは胸に刻むのだ。
「……だから、きっとそれも必要なことだったのでしょう」
結びの言葉を言い終えたのち、5《シュンフ》は微笑んでくれる。
トリエも顔をほころばせ「ありがと」と返すのだが、その頃には5《シュンフ》は仮面を被りなおしている。
物語を語るとき、彼女はその火傷を負った顔を見せる。
その顔は痛々しくもあるが、剣の仮面よりもトリエは好きだった。
しかし、それが終わると、何時も彼女は口を閉ざし、また流れゆく荒野の景色を眺めるのだった。
トリエはそこで一人、胸の前で手を握りしめるが、しかしすぐに掃除に戻ることにする。
少なくともこの数日間は、ひどく落ち着いた時間を過ごしていた。
この荒れ果てた時代において、なんとも珍しい、飢えもなく、寒さもなく、退屈もなく、そして寂しさもない日々だった。
たとえそれが嵐の前の凪のような、ささやかな猶予に過ぎなくとも、得難い時であることには変わりないだろう。
そうやって、どこか自分に言い聞かせていたトリエに、不意に声がかけられた。
「……今度、本を買ってもらおうか」
5《シュンフ》がこちらを見ていた。
持っていたはたきを、トリエは思わず落としそうになりつつも、彼女に向き合う。
「あたしが覚えてる話、そろそろネタ切れしそうだから、さ」
5《シュンフ》は仮面をつけたまま、どこか歯切れ悪く言う。
「7《ジーベン》も、それなりに毎日稼いでるみたいだし、それくらい買えるでしょ。
高速旅団なんて、変人が多いんだし、王朝時代の本とかだって」
「5《シュンフ》さんはさ」
トリエは、緊張しつつも、ずっと聞きたかったことを尋ねた。
「なんで、そんなに色々な物語を知っているの? すごいよね。あっこれはその、単純な疑問なんだけど……」
なんで私に物語を語ってくれるの?
本当はそう尋ねたかった。しかしトリエはそう口にすることができず、一歩下がった聞き方になってしまった。
「……それを、聞くか? お前が?」
途端、5《シュンフ》の口調が、ひどく硬質なものへと変わった。
その変節にトリエは心臓をわしづかみにされた気分になる。
一方で、5《シュンフ》の方もわずかに声を揺らしながら、
「姉さんは、物質言語以外、読めなかったから」
「物質言語……東京の、言葉……」
「あたしが読むと喜んでくれたから、姉さん、読めないのに、こういうの聞くの好きで。
あたしが勝手に話の筋とかアレンジするのも大好きで……」
5《シュンフ》の語気は徐々に弱くなっていき、最後には聞き取れないほどか細くなっていた。
それで、会話は途切れてしまった。
「…………」
その間、竜のアランにしては珍しく、何も言うことはなかった。
◇
「ところで、外に出たいとは思いませんか?」
その日、7《ジーベン》は戻るなり、トリエにそんなことを尋ねてきた。
「この部屋にいると息が詰まってくるでしょう」
相変わらずパンに偽剣を突き刺し、料理とは言い難い奇妙な動作を行っている。
最近はコツをつかんできたので、偽剣の調整によって、味付けを変えるなどという小技を覚えているようなのだが、それはともかくとして、
「私が?」
「ええ、貴方が。5《シュンフ》はともかく、貴方は退屈しているのかと思いまして」
トリエは首を捻った。
忘れそうになるが、立場としては7《ジーベン》と5《シュンフ》はトリエを拉致しているのである。
とはいえ退屈していたというのは間違いではなかった。
5《シュンフ》と過ごす時間は穏やかで楽しいものだったが、だからこそ読み聞かせてくれる本などが欲しい。
「7《ジーベン》、それはいいのか?」
怪訝な口調で5《シュンフ》も尋ねてくる。
7《ジーベン》はパンを切りつつ「大丈夫ですよ」と答えた。
「私は監査の眼を向けていますし、何よりこの言語機関車から出ることなど、不可能でしょう」
「でも、聖女が出歩けば、それだけ事が大きくなる」
「適当にフードのついた衣装でも着せれば大丈夫でしょう。彼女は第四聖女。こういう場面での影響力はゼロに等しい」
7《ジーベン》が諭すように言うと、5《シュンフ》は口を閉ざした。
どこか浮ついた会話に聞こえた。トリエがいる前で、あまり言いたくないことがあったのかもしれなかった。
「どういう訳か知らんが、出れるそうだな」
竜のアランは眠そうに言った。
……そんなやり取りを経て、あまりにもあっさりとトリエはあの扉を開けることになる。




