90_『海に竜の名を二度唱えよ』
……昔々、海のある大きな国に、かわいそうなお姫様がいました。
国は豊かに発展し、民はみんな笑顔を浮かべています。
そしてお姫様は美しく、みなの憧れの的でした。
しかし、当のお姫様は、実のところ、あまりしあわせではありませんでした。
国の王様──お姫様にとってのお父様は病気がちで、子どももお姫様しかいません。
だから、お姫様の周りには、厭な大人が多く集まっていました。
たまに顔を合わせる“お友達”たちも、
そんな大人の影がちらつきお姫さまはどうにも彼女らが信じられません。
何より他の物語のお姫様と違い、素敵な王子様とも出会えませんでした。
そのうち、お姫様はお城の中から抜け出すようになりました。
お城で会いたくもない人に会うくらいなら、一人で海を見ていた方がずっと良いと、心の底から思ったのです。
そこで彼女は竜と出会ったのです。
もしかするとそれは、運命だったのかもしれません。
だって、昔々、と言いましたが、この頃には竜はもういなくなった後の話なのですから。
お姫様はもちろん、そのお父様もお爺さまもそのまたお爺様だって、空を悠然と飛ぶ竜の姿を見たことはありません。
とっくの昔に滅びてしまった生き物だったのですから。
しかし、なんと、海に竜がいたのです。
最後の生き残りとして、世界の片隅にひっそりとたたずんでいた竜と、お姫様は出会いました。
そして、友達になりました。
お姫様が寂しかったように、最後の竜もまた、自分と同じ存在がおらず寂しかったのです。
姿かたちは何もかも違った二人は、でも、まったく同じ想いを抱えていました。
だからお姫様は、海辺で出会った竜に会いにいきました。
毎日毎日、息苦しい城を秘密の通路を使って抜け出し、海で竜と語り合いました。
ずっと、一緒にいようね。
そう告げるとお姫様が告げると、竜は嬉しそうに笑って頷きました。
二人は固い固い絆で結ばれました。
また明日会おう。そう言いあって、その日、二人は別れました。
「けれども、そこで物語は終わりませんでした」
5《シュンフ》の語り口は、とても穏やかなものだった。
何も見ずに諳んじているにも関わらず、言いよどむところはなく、すらすらと語っている。
そうして紡がれる物語を、トリエはじっと聴いていた。
「ある日竜が目を覚ますと……数十年の時が経っていました」
最後の竜はそれくらいの一晩眠るつもりで、うっかりとても長い年月もの間、眠ってしまったのです。
あまりにも長く生きたせいで、時間の感覚がひどく曖昧になっていたのでした。
驚いた竜は、しばらくぶりに海辺から出て、国の上を飛び回ります。
するとなんだか様子が変になっていました。
大きく豊かだった国は、さらに大きくなっていました。
ですが、そこに住む人たちに笑顔はありません。
竜は人に化けて尋ねます。
一体どうしたのか、と。
すると民たちは答えました。
女王のせいだ、と。
重い税金と厳しい法律、そして度たび起こる戦争が、民たちを苦しめていました。
そして、それを強いているのは、この国の女王様でした。
それはあのお姫様でした。
お姫様は、竜が寝ている間に大人になっていたのです。
女王は、信用できなかった友達や大人たちを、みなごろしにしたのだといいます。
そうして一人で国を牛耳る血濡れの女王として、民から畏れられる存在になっていました。
もはやそこに姫の面影はありません。
竜は隠れて女王に会おうとしますが、門前払いを喰らってしまいます。
もはや彼のことすら、忘れてしまっているようでした。
失意の中、竜は女王を止めることを選びました。
それが友達としての責務だと、竜は考えたのです。
女王の暴政に耐えかねた民衆の間に、女王への反発は高まっていました。
竜は本当は人間が嫌いでしたが、かつての姫を止めるために、彼らをとりまとめ、力を貸します。
そして先頭に立って闘い、闘い、闘い、ついには女王を追い詰めることに成功しました。
玉座に座る女王の前へと、竜が率いた民たちがやってきます。
そして、すべてを終わらせようと、竜が女王に近づいたとき、彼女は一人の名を呼びます。
それは竜の名前でした。
姫は竜のことを忘れたのではありません。
竜もまた、寝ている間に大きく姿を変えていたので、気づかなかっただけでした。
最後に死を覚悟した女王は、いとおしそうに竜の名を呼びます。
その姿を見たとき、竜は人の姿を捨て、民衆を裏切ります。
女王の──かつての姫の絶対の味方として、迫ってくる民衆を押しのけ、その身に彼女を乗せ、世界の果ての海まで飛び去っていきます。
けれどももう姫は死にそうでした。
闘いのさなか、女王は深い傷を負っていたのです。
海の中で、姫が竜の名を呼びます。
かつて、この海で出会った時と、同じように。
友として、この世でたった一人、心の底から信じることのできる相手として。
その出来事を機に、竜は今度こそこの世界から姿を消しました。
きっと姫と竜は海の“果て”へと還っていったのでしょう。
「──こういう、話」
語り終えた5《シュンフ》は、ほんの少しだけ、微笑んで
「めでたし、めでたし」
物語を、そう結ぶのだった。




