09_虚構の空が明ける
――×したい。
目覚めた田中は、頭の中に響くその声に突き動かされるように剣を取った。
8《アハト》が使っていた剣だ。
『イヴィーネイル』。
何故かその偽剣の名前まで手に取るようにわかった。
――聖女を×したい。
既に8《アハト》と呼ばれた男は消え去っていた。
全存在を賭けて行ったという邪法は、こびりいた血肉すら拭い去っていた。
田中は灰色のカソックを身にまとい、確かによみがえっていた。
――ああ、ただ拙者は。
彼は間違いなくロイ田中だった。
この城に迷い込み、エリスと出会った少年だ。
エリスが何を思ってあんな真似をしているのか、理解はできてはいない。
もしかすると自分は裏切られたのかもしれない。利用されただけなのかもしれない。
そう思いはするが、しかし守りたい、という感情もまたこの胸にある。
弥生、と田中は思わず声に出していた。
ひどく彼女のことが恋しく思えた。またあの幼馴染の小説を読みたいと思った。二人で世界を共有したいと思った。
その想いが、どうしてもエリスへの感情へとつながる。
しかし、同時にこうも思うのだ。
――あの女を、×したい。
強く強く、二つの想いがほとばしる。
田中はエリスを見上げた。空において異端審問官と戦っている彼女は、もはやこちらを見てはいない。
――×したい。
その内なる声にしたがって、田中は駆け出していた。
どす黒い刃とともに“さかしまの城”から跳躍する。
やり方は身体が覚えている。剣の力を使い、幻想に乗って、世界を駆け抜ける。
主塔を蹴った。壊れゆく城を駆け上った。そうして空へと彼の身体は浮き上がる。
田中は飛べはしない。すぐに堕ちることは見えている。
だがその中心にいる聖女に、一瞬でもこの手が届くのならば。
「俺は、お前を――」
田中は己の願いを果たすことができる。
「――殺したい」
その言葉とともに田中はエリスを背中から突き刺していた。
あ、と田中は愕然と声を漏らす。ぬるりとした、柔らかい感触が剣の柄から伝わってきた。
真っ赤な鮮血がエリスの身から噴き出し、彼女はゆっくりとこちらを振り向く。
「ロイ、くん……?」
彼女はとても不思議そうに田中を見ていた。
対する田中は、信じられないことに笑っていた。
獰猛に、凶暴に、かつてあの男が見せた笑いを、彼は浮かべていた。
「あはは、自滅だなぁ、聖女エリス」
その二人の様を見ながら、仮面の女は声を上げる。
「想い人を“犠牲”にしたはいいが、しかし死ぬ様は見たくない。
だから視界から彼を外していたし、気づくことができなかった。
わがままだな、自己中心的でナルシストな聖女らしいよ。
そんなのだから、8《アハト》みたいな悪党に付け込まれるんだ」
うるさい黙れ、と田中は言いたくなった。
しかし口は動かない。ただ笑いながら彼はエリスとともに墜ちていく。
頭上の街から遠ざかり、空に浮かぶ“さかしまの城”へと二人で墜落していた。
「あはっ、痛いよ、ロイ君」
墜ちた先は、城の中庭だった。土煙が舞い上がる。
聖女の力がクッションになって、二人は奇妙な形で不時着していた。
そこは最初に二人が出会った場所だった。
田中はエリスに馬乗りになって刃を突き刺していた。
ぐしゃり、ぐしゃり、と真っ赤な血が飛び散っていく。ほかでもない、ロイの手で。
その姿をエリスは不思議そうに眺めていた。
「ねえ、なんで? 私、聖女として頑張ってたのに」
「――――」
「あの街を守るためだった。だからロイ君の“犠牲”が必要だった。
ロイ君は、許してくれないかな? 私を」
エリスの問いかけに田中は答えられない。
己が何をやっているのか何もかもわからない。ただ真っ赤に濡れた血の暖かさは、きっと生涯忘れられないだろうと思った。
「ねえでも、仕方がないよ。私は聖女として――」
「そろそろ嘘を吐くのは止めにしたらどう? “犠牲”の聖女」
背中から声がした。
振り向かなくともわかる。もう一人の異端審問官、1《アイン》と呼ばれていた女だ。
「嘘? 私は何も嘘なんか言ってないよっ。本当のことしか」
「笑わせてくれる。君の言う本当のことというのは、結局のところ、その本に書かれていた文字だろう?」
田中は思わずエリスの手帳を見た。
いつも首からかけられていたあの本は、今や彼女の血に染まっている。
「いいことを教えてあげるわ、第六聖女エリス」
仮面の女は言った。
「そこに書いてあることはすべて虚構だ。
君の頭上に守るべき街なんか存在しない」
と。
「何を……言っているの?」
エリスは目を見開いていた。
そして理解できない、とでもいうように首を振る。
「この“さかしまの城”で私はずっとあの街を見てきたんだよ?」
「ここは空に浮かぶ城なんかじゃない。荒野に立つ、朽ち果てた城だ。
どこもさかしまではないのよ。君はただ廃墟に籠り、空にあの街を創っていたのさ」
――聖女エリス。幼少期より自らの空想を物質化させる奇蹟を見せていたことが確認されている。
以前、エリスの力のことを女はそう言っていた。
事実田中は見てきた。彼女がパンや水などを軽々と創って見せたことを。
毎日街に向かって祈りを捧げる、とも言っていた。
その力をもってしてエリスは――存在しない理想の街を創っていたということなのか。
「そんなこと……だって、あそこに、あそこに街はあるんだよっ!
私は知ってる。あの街に生きている人を! みんな忘れても私はあの人たちを」
「じゃあ一つ聞くが、あの街の名前は何ていうんだ?」
ヒステリックな声色で叫ぶエリスに対し、仮面の女は淡々とそう尋ねた。
「え……?」
「答えられないでしょう。
そこに住む登場人物ならいざ知らず、あの街自体に名前はないはずだ。
この世界に名前がないように、唯一無二のものに名前などいらない。
自分が創った、自分の孤独を慰めるためだけの箱庭に名前など必要ないだろう」
エリスは呆然と頭上に浮かぶ街を見ていた。
そんなエリスを田中は見下ろしてる。
大きく澄んだ碧色の瞳の中に、その広大な街を広がっていた。
だがあの街の名を、田中は聞いたことがなかった。
あの街は本当は――エリスの中にしか存在しないのだという。
「でも私は、聖女エリスとしての役目を……」
何かを懇願するように声を絞り出すエリスを、女は無慈悲に切り捨てた。
「その聖女エリスを創ったのも、君よ」
と。
「世界のために身を削る自己犠牲の聖女として、人知れず孤城に住む。
そんな物語の主役になりたいと君は欲したって訳ね。
1ページ目にそう書けば、それで物語は完成される」
え、とエリスの声がか細く漏れた。
「“私は聖女エリスであり、街を守るために祈りを捧げている”なんて1ページ目に書いていたのでしょう?
そのうえで自分の記憶を“犠牲”にしてしまえば、次に目覚めたときにはそれが真実になっている――君の中でだけは」
脳裏に、かつてのエリスの言葉がよぎる。
彼女は自身で書き留めていた記録を指して、こう言ったのだ。
“私の記憶はこれ。私にとって、聖女エリスにとって何も大事なことは全部ここに書いてあるの。
私、どうも力を使うと、思ってたこと全部忘れちゃうみたいだから”
あの本が彼女にとっての真実であり、聖女エリスそのものだった。
「ああ――私、聖女って、自分で」
彼女が何を想っているのか、どんな面持ちで空を見上げているのかわからなかった。
ただ田中は、エリスのそんな顔を見て、もう一度を胸に刃を突き刺した。
「そっか」
すると、彼女の衣服は切り刻まれ、胸元に刻まれた文字が現れていた。
今まで衣服で隠れていた胸元に、その文字は書き込まれていたのだ。
――首から下げた本は私の記憶であり真実、大切なことは自分の身体に書いておくっ!
そう語っていた通り、エリスはその言葉を刻んでいた。
それが、虚構まみれの世界の中で、絶対の真実となるように。
「あは、忘れてた……1ページ目じゃない、0ページ目……聖女エリスじゃない、私の、一番、大切なものを」
そこにはこう刻まれていた。
“私は田中くんが好き”
「あは、隠しちゃってたら、意味ないね」
田中くん。
小さくそう呼んで、エリスは瞳を閉じた。
「でもね、勘違いしないでね。私はさみしかったからあの街を創った訳じゃないの。
私はね、あんなどうしようもない現実より、ずっと良い世界を創ってあげたくて、ずっと──」
最後の言葉を言い終わることなく、真っ赤な血の海に沈み込むようにして、彼女の身は消えていった。
まるで世界に存在を否定されたかのように。
同時に頭上にも変化があった。
地上の街に大きな罅が入り、幻想が砕け散る。
そこに確かに見えていた街は塵となって消えた。
いきていたはずの人間は幻想が尽き、最初から何もなかったように失せていった。
その向こうから――どこまでも広がる夜空が現れていた。
幻想的な街などもうそこにはない。それは真っ黒で、星一つ見えない、虚無的な夜の空だった。
そうして“さかしまの城”は、空から地に墜ち、単なる廃墟と化した。
「虚構の空は消え去り、面白みのない現実が顔を出す、か」
女はそうこぼす。
そしてずっとつけていた仮面を外し、素顔を晒した。
長くつややかな髪が舞う。美しく澄んだ紅い瞳をもって、彼女は田中を見据えるのだった。
「私は異端審問官“十一席”の1《アイン》。
名前はアカ・カーバンクルアイ。カーバンクルとでも呼ぶといい」
カーバンクルと名乗った女は、ゆっくりと田中へと手を伸ばした。
「ようこそ、現実へ」




