08_悪意
聖女エリスは“さかしまの城”にて舞っていた。
彼女は笑っている。今日この日に自分の身に降りてきた幸運を噛みしめ、昂ぶりを隠すことができなくなっていた。
ああ、とエリスは地上を見上げる。
そこには幾多もの人間たちがいる。
喜んでいる者、笑っている者、泣いている者、苦しんでいる者。
健やかなる街には数多くの感情があふれ、渦巻いている。
聖女エリスに与えられた役割は、彼らを守ることだ。
一生懸命に生きている彼らが、過酷なる現実に押しつぶされないよう、エリスは祈りを捧げている。
きっと彼らが自分を顧みることはないだろう。
空に城が浮かんでいるなど思うまい。
かつて自分をここに導いた者たちはすべて死に絶え、聖女という概念はただの物語に堕した。
この“さかしまの城”を見上げる者は、あの街にはいないのだ。
けれども、それでよかった。
誰からも忘れ去られた――エリスにしてみれば、そんなことはどうでもいいことだったのだ。
ただ見上げればそこに人がいて、さまざまな想いを胸に抱えて生きてさえいれば。
その様を見上げているだけで、エリスは救われる。自らの役割に感謝することができる。
「楽しいっ、楽しいっ、楽しいっ」
声が、漏れる。
今彼女はまさしく充実の時を過ごしていた。
手元にある手帳を開く。
そこにはこう書かれている――“私はたぶんロイ君のことがすき”と。
出会ったばかりなのに、好きになれた。
一目ぼれ、という奴なのかもしれない。
彼女は己の慕情を自覚している。
今まで絶対に会ったことのはずのない彼に、なぜか強烈な感情を抱いている。
そして、そんな彼を“犠牲”にしたことに対し、エリスは強く興奮している。
彼を喪うことは当然つらい。痛い。苦しい。厭だ。そう思う。彼の死んだところは見たくない。
しかし、その感情の昂ぶりが、幻想となってエリスの身体に溢れてくる。
今ならば何にも負ける気はしなかった。
薄まった己の記憶などとは比べ物にならない“犠牲”を払ったのだ。
たかが凶器を持っただけの異端審問官を、何故恐れる必要がある。
「“教会”からの認定では、第六である君の危険度は低めだったんだんだけどな。
やれやれ、君を殺すのがが突然難しくなった」
城の上で、エリスは仮面の女と相対している。
溢れんばかりの幻想をその身に宿したエリスは自在に空を飛ぶことができた。
対する仮面の女は、ひどく窮屈そうだ。
空を飛ぶことのできない彼女は、城の尖塔から尖塔に跳躍を繰り返すことでエリスに追い縋っている。
だがどうしても足場が必要になる。そのためどこから出てくるのかは読みやすいし、攻撃から逃げるのも簡単だった。
仮面の女は、それでも果敢にこちらに挑んでくる。
剣を両手で振り上げ、連続的な跳躍でエリスの身体を狙うのだ。
「そんなチンケな偽剣じゃ、私は傷つけられないよっ」
つい、とエリスは指を振り上げた。
途端、高出力の閃光が城を貫いていく。
仮面の女は舌打ちをし、城へと下がっていく。
その無様な姿にエリスは思わず交渉する。
「あはは、逆転だっ」
幾多もの閃光が城を貫いてく。
“さかしまの城”はどんどん崩れていく。彼女の城であったが、しかしもはやそこがどれだけ傷つこうとも気にならない。
ここは単なる虚構の空に過ぎない。大切なのは現実に存在するあの街である。
そうエリスは信じていたからこそ、破壊に躊躇いはなかった。
「いつも私みたいな女の子ひどいことしてるんでしょ? 異端審問官って」
「風評被害だよ、私はそういうのは六割ぐらいしかない」
「めちゃくちゃあるじゃん! 半分以上じゃん!」
エリスはそう叫ぶとともにさらなる攻撃を加える。
仮面の女はもはや防戦一方だった。跳躍に次ぐ跳躍で、エリスから距離を取る。
だがいつかは限界が来るだろう。一撃でも当たれば、次の瞬間的には全身消し炭にしてやる。
「あははははははははははははははははははははははははははははははははあははははははははははははっははははははははははは」
笑い声が止まらない。止まらない。
胸に走る感情は紛れもなく“痛み”のはずなのに、それが何故か顔に出る頃には笑いになっている。
涙が出るほどに――
「追い詰めた。追い詰めた! 追い詰めたよ!」
そうしているうちに、エリスは女の目の前にやってきていた。
城はすでに半ば崩壊し、足場と呼べるものは一つの尖塔を除いて残っていない。
そこに仮面の女は立っている。その長い髪がばさばさと揺らしながら、エリスを見上げている。
仮面に隠れてみえないが、きっと焦った表情を浮かべていることだろう。
「さようならっ、これで全部おしまいだね」
そうエリスは呼びかける。
快活に、溌溂に、楽しそうに、いつもの彼女の口調だった。
すると、仮面の女は、
「確かに、おしまいだろう」
そう言った。
「うん? えらく簡単に認めるんだね。バッドエンドだって」
「全く業が深いことだ。
どちらにせよ、そんな邪法を使ってしまった時点で――」
仮面の女は何かを言っているが、エリスにはよくわからなかった。
だが元より話を聞く気などない。それゆえに彼女は指をゆっくりと女に向け、撃とうした。
「聖女エリス。とりあえず君は見たいものしか見ない、という癖を治したほうがよかったな。
そうすればこんなにも大きく、それでいてくだらない虚構の空に囚われることもなかったろうに」
次の瞬間、エリスは「え」と声を漏らしていた。
自らの胸からどす黒い刃が生えてきていた。
真っ赤な血が吹き出す。痛みを感じないエリスは、それを訝し気に見ていた。
ぎこちなく、後ろ振り返り、
「ロイ、君……?」
エリスは心底不思議そうに漏らした。
「――――」
そこにはロイ田中がいた。
灰色のカソックを纏った彼は、真っ黒な刀身の剣を使い、エリスを背中から刺したのだ。
◇
「お前は、お前という物質を形成する幻想を“犠牲”にされた」
血まみれになりながら、8《アハト》はそう語り掛けてくる。
田中は痛みに顔をゆがめながら、その言葉を聞く。
「拙者は死にゆく身だが、しかしこの死体は残るだろう。
物質としての拙者は、まだここにあることができるはずだ」
8《アハト》は田中の身体を貫いた手を引き抜く。
ぬるり、という感覚とともに、おびただしい血がこぼれ落ちた。
「拙者の命をやろう」
視界が血の赤に染まる中で、8《アハト》はそう言い放った。
「死すら生ぬるい最悪の邪法だが、しかし拙者はお前の中で聖女を×すことができる」
8《アハト》は笑う。その笑みはエリスの無邪気なものとは正反対の、悪意と狂気に満ちた恐ろしいものだった。
「拙者の屍を使って――“転生”するがいい」




