89_ゆっくりと厳粛に~娯楽~
生活が始まって10日ほど経つと、さすがにトリエもつらくなってきた。
原因は空腹にはなかった。暴力を振るわれたわけでもないし、生活環境も最低限とはいえ揃っている。
無論寂しさなどでもない。
ただ──退屈だったのである。
「……むぅ」
トリエは顔をしかめる。
窓の向こうに見える荒野は何時だって同じ景色で、流石に飽きていた。
しかし5《シュンフ》の方は変わらずそちらを見ている。
当然、会話などありはしなかった。
だから、という訳ではないが、トリエは徹底的に掃除をすることにしていた。
ベッドのシーツを毎日変えることはもちろん、床に転がるパンくずは一つ残らず拾い、置かれた調度品も雑巾でぴかぴかになるまで拭いた。
今日もトリエは机に指を走らせ、きゅう、と音が鳴ることに満足する。
7《ジーベン》がパンを精製するたびに、妙なぬめりが机に残るので、ここの掃除は特に手が抜けないのだった。
「まるで侍女だな。それこそお前が駄々をこねれば、あの女にやらせられたのではないか?」
竜のアランが嘯く。
「厭よ、そんなの。そんなワガママ言いたくないわ」
「お前は聖女だ。それくらい傲岸かつ無遠慮に生きてもいいぞ?」
「いじわる。私がそういうの厭だって知ってるくせに」
トリエは口を尖らせて言う。
一方で竜のアランは「ふふふ」と楽し気に笑うのだった。
と、そうして掃除をしているうちに、トリエはそれに気づいた。
7《ジーベン》が持ってきた布袋の中には、着替えや食料といった生活に欠かせないものが入っている。
だがその中に挟み込まれるように、色鮮やな紙が入っていた。
「……ええと、何々“海に竜の名を二度と唱えよ”の公演予定?」
「我とは似ても似つかぬ竜だな」
気になったトリエが読み上げると、アランの声が重なった。
演劇の宣伝用のものらしかった。
7《ジーベン》が外で働いている時に、どこかの劇団にもらったのだろう。
劇中に登場するらしい竜と、それに寄り添う少女の絵が描かれている。
「面白そうだけど、この日付じゃ、私見れないね」
書かれている時間を確認し、トリエは嘆息する。
どうやら次に逗留する街で行う公演らしかった。
恐らくその頃には、自分はもう他の場所に連れ去られている。
それかあるいは──もう殺されているかもしれない。
ま、仕方ない。そう思い、トリエは紙を元の場所に戻そうとするが、
「……さん」
不意に、5《シュンフ》の声がした。
はっ、としてトリエは顔を上げる。
「ねえ、お父さん、お母さん。違う……あたしと──は違うの……」
5《シュンフ》はか細い声で声を漏らしている。
それは明らかにトリエへと向けられたものではなかった。
彼女は──うなされているのだ。
仮面を被っていてわからなかったが、寝てしまっているらしかった。
「……さんと、あたしは──」
トリエはその事実に気づき、ひどく動揺している自分に気が付いた。
「どうする? 今なら逃げることもできるかもしれないぞ?」
意地悪くアランが言うが、無理だろう。
産まれてからこの方、色々な組織を転々とする羽目になったトリエは知っているが、戦士は寝ていたとしても、ほんの少しの物音で臨戦態勢に移るものだ。
扉を開けた瞬間に彼女は目を覚まし、トリエを取り押さえるだろう。
そう思うから、扉の外には興味がいかなかった。
「この娘……つらそう」
だからむしろ興味があるのは、5《シュンフ》のことだった。
トリエは自分でも理由がわからないのだが、彼女の言葉をどうしても聞き漏らしてはいけないという、そんな気がしていたのだ。
だから少しずつ、5《シュンフ》の方へと近づいていく。
彼女が漏らす言葉に、耳を傾けるために。
「……違うの」
そしてトリエは聞いた。
「……違うの、あたしは──姉さんを」
その言葉を聴いたとき、5《シュンフ》が、がた、と身を起こした。
「ひゃっ」とトリエが声を上げ、尻餅をつく。
「…………」
そして立ち上がった5《シュンフ》をトリエは見上げた。
仮面で遮られているため、彼女がどんな表情を浮かべているのかわからなかった。
怒っているのだろうか? 今度こそ殺されるのだろうか?
そんな想いが脳裏をよぎり、同時に何故か毛恥ずかしさを覚えていた。
重い沈黙と複雑な胸の内から逃れるため、トリエは視線をきょろきょろと動かし、そして自分が手に持ったものを見て、
「あ、あのさ。この劇って最後どうなるんだっけ?」
トリエはぎこちない笑みを浮かべて、
「この劇って最後どうなるかって……覚えてる?」
そんなことを聞いてしまった。
「ええと、覚えている限りなんだけど、これってお姫様と竜の話で、途中でお姫様が成長して大人になることは覚えてるんだけど……」
何故自分がそんなことを言っているのかよくわからなかった。
しかし──トリエは5《シュンフ》と呼ばれるこの少女と話をしてみたくなっていた。
だから、必死に取り繕うように、並べて立ててしまっていた。
「ええとその、最後どうなるんだったかなって。かなり昔読んだ気はするんだけど、イマイチ思い出せなくって……」
「…………」
「ああでも、本当はさ、劇、見たかったんだ。
こういうのっていい感じに忘れてた方が楽しめるでしょ?
それに、これだけ暇だと何でも楽しめる気だってしてくるし──それに」
トリエはほんの少し視線を落として、
「私、そのうち殺されるんでしょ?」
「…………」
「それくらい、わかるよ。この劇が始まる頃には、たぶんもう私」
「……竜と一緒に去るんだ」
え、とトリエは声を漏らした。
「あたしも知ってる。その物語、よく、姉さんに読んであげたから」
5《シュンフ》はそういっておもむろに仮面を外した。
沈んだ瞳がほんの少しだけ細められ、火傷の痕は歪んでいる。
それが微笑みだと気づいたとき、トリエは胸が締め付けられる想いを抱いた。
「“海に竜の名を二度と唱えよ”はね、こういう話」
彼女は語り始めた。
「むかし、むかし」




