53_オオカミ
初めて人を殺したのは五歳の時であった。
“夏”の武家の次男として生を受けた彼は、産まれたときから闘いの渦中にあった。
王朝崩壊以降、荒れた時代が続いている。とはいえ“夏”に集う国々は、王朝崩壊の影響が他と比べて格段と少なかっただろう。
何せ、“夏”は世が荒れてなくとも勝手に戦争をしていたのだから。
情熱と戦いを標榜した苛烈なる女神を奉り、さらにすぐ近くに異教徒であるクシェ僧の総本山まである土地である。
当然、人間時代の開闢以来、人々は戦うことを止めなかった。
その血に刻まれた好戦的な意識というものは拭いがたいらしく、人類の黄金時代とさえ評される10世紀においてなお、“夏”では内戦が絶えなかったほどだ。
彼、ヴァレンティンはそんな場所に生まれ、育っていった。
だから戦士となるのはあまりにも当然の成り行きであった。
かつて世話係であった女はよく聞かせてくれたものだ。
神話に残る孤高なるオオカミの物語と、かつて神剣戦争時代に実在したという人狼たちの武勇。
彼女から聞かされる闘いの物語にヴァレンティンは心を躍らせ、何時自分は剣を取って闘いに赴くのかと期待したものであった。
だが、その時が来るのは想像以上に早かった。
クシェ僧兵たちによる炎がヴァレンティンの家を襲った。
理由はもはや何でもよかった。戦いの理由など今の時代、あまりにも多すぎて数えることも叶わない。
だから問題は、その侵攻を手引きしたのが、ヴァレンティンの世話係の女であったことだ。
何故彼女が裏切ったのか、という問いかけは、やはり意味を持たないだろう。
女は歳の行った小鬼であった。どこぞの戦争によって家を喪ったものらしく、ヴァレンティンが生まれる前より家に仕えてきた者だった。
今思い返しても、女がそんな行動に出た理由が掴めなかった。
少なくともそこで彼女は人種違いによって排斥されることもなく、集団の一員として尊重されていたはずだからだ。
とはいえ第二の母とでも呼べる存在に裏切られたヴァレンティンは、彼女に殺されそうになった。
女は家族からの信頼を盾に立ち回りヴァレンティンの首を絞めようとしたのである
そして五歳だったヴァレンティンは迷わず反撃した。隙を見せた瞬間、一切の躊躇なく。
その決断こそ女から教わったことであった。
彼女が読み聞かせてくれた闘いの物語。
その主人公たちは剣を畏れず、血を恐れず、たとえ涙が流れようとも闘いを止めることはなかった。
そんな物語によって育てられてきたヴァレンティンは、彼らと同じく、闘うことを選んだ。
人狼の力をもってして彼女を振りほどき、武器を奪い、その首刎ねた。
その時の女の驚愕の表情が忘れられない。
きっと彼女自身、信じられなかったのだろう。
もう息子のように愛してきたヴァレンティンが、こうもあっさりと自分を殺すことができるなど。
殺そうとしておきながら、殺される気はなかった。
それはあまりにもお粗末な話ではあったが、さりとてヴァレンティンはそれを笑い飛ばす気にはなれなかった。
涙など流れなかったし、後悔もしていないが、ヴァレンティンにとって女が親に近しい存在であったことは間違いないと、今でも思っている。
何にせよ、そうした事実上の親殺しを経て、ヴァレンティンは戦士としての第一歩を踏み出すことになる。
クシェ僧の攻撃をはねのけたのち、ヴァレンティンが八歳になる頃には物質言語を習得し、偽剣を扱っていた。
幸運にも、というべきであろうその剣の才覚は確かなものであった。
肉体はもちろんのこと、戦術眼も独創性も兼ね備えた彼には、間違いなく優秀な剣士となりうる道が開けていた。
だが彼は家にて期待されていなかった。
理由は一点。次男である彼には兄がいたからである。
兄はヴァレンティンと同じ才覚を持ち、それでいて数年先を進んでいた。
故にその注目と驚嘆は彼へと向かい、ヴァレンティンはそのおこぼれを預かる形となった。
その事実に対し、少年であったヴァレンティンは、切なる勤勉をもってして抗った。
一歩でも早く、一合でも多く、鍛錬を積み彼を超えんとした。
とはいえ兄もまた強かった。
兄もまた才覚に胡坐をかくことなどなく、自分を厳しく律するものであった。
兄弟間の差はひとえに産まれた時によるものであり、数年で埋まるものであっただろう。
しかしその数年の間に兄はさらに先に行っている。
そうした影を踏み続けては、自分は一生光を見ることができない。そう彼は痛感していた。
だから、ヴァレンティンは勝負に出ることにした。
一騎打ちによる相対を、彼は兄に申し出たのである。
無論、殺し合いではない。貴重な戦力を同士討ちさせるような真似を、親たちが許すはずがなかった。
だからあくまで、殺さずの約定を交わした上での、模擬戦であった。
当時の兄とヴァレンティンの実力差は歴然であり、兄はあくまで弟に物を教えるつもりでそれを受諾したのであろう。
しかし、それこそが罠であった。
ヴァレンティンが彼を超えるための、決死の一打だった。
ヴァレンティンは戦いまでに兄の癖を、剣の好みを、まだまだ発展途上の部分を洗い出していた。
そしてそこを徹底的につくためだけに剣を磨いた。
およそ実戦では使えない、兄に勝つためだけの技まで研鑽した。
そして、勝てる、と確信したうえで、ヴァレンティンは兄へ勝負を申し出ていたのである。
勝つことにどこまでも執着し研鑽していたヴァレンティンと、あくまで軽い模擬戦のつもりであった兄。
その心意気の差こそが最大の罠であり、ヴァレンティンは一騎打ちにて兄を破ることになる。
言うまでもなく、その時点での実力は兄が圧倒的に上の筈だった。
それは疑いようがない。ただヴァレンティンの罠に兄はかかってしまっただけである。
とはいえ闘いそのものに怪しい点は一切なく、正々堂々とした一騎打ちである。
どんな経緯はあれ、正面切っての戦いで兄を打ち破った。
その事実が──彼の誇りとなった。
周囲の見る目以上に、自分自身の中での意識が変わったのだ。
拙者は強きものである。
その強固な自己肯定こそ、以降、ヴァレンティンがいかな逆境とも相対できる最大の武器となった。
しかし……
◇
「……またしても、厭なものを見せるものだ」
“たまご”のなか、敗者の扉に墜ちたヴァレンティンは、鏡の迷宮にいた。
上も、下も、右も、横も、前も、後ろも、すべてが鏡となっている。
その一つ一つに彼の過去の物語が流れていく。否が応でもヴァレンティンはそれを見てしまう。
“忘れがたき過去を反芻すべし”
それがそのフロアに刻まれた法則であった。
他になにもない。ただ自らの過去を見せつけられる。そんなフロアなのだった。
そこでヴァレンティンは延々と自らの過去を見せられている。
幼少期の栄光と、そして──それからの敗北も含めて。
それはほかでもない、この“たまご”における記憶だった。
聖女の歌響き渡る中、ヴァレンティンはそれをじっと見つめている。
◇
それから成長したヴァレンティンは、ひたすらに剣と戦いの日々に明け暮れた。
戦争があった。私闘があった。冒険があった。虐殺があった。
数十年の積み重ねを、ヴァレンティンは誇りとともに生き抜いていた。
そのさなかに、ヴァレンティンはこの“たまご”に訪れていた。
天空墓標、聖女の歌響くこの場所を、数年前のヴァレンティンは立ち寄ることになったのである。
この際、その時の目的などはもはやどうだってよかった。
確か金をもらっての護衛だった気もするが、そちらの詳細はもう忘れてしまっている。
ただ──そこで敗けたことを、決して忘れられないでいた。
“拙者と同郷と見たが、しかしてまだ恥が残っていると見える”
敵の獰猛な声が耳によみがえる。
この“たまご”にて、遭遇した無頼とヴァレンティンは戦い、敗けた。
それが先の闘技場のフロアである。
正々堂々たる一騎討ちを強制されるあの場所で、彼は一人の偽剣使いに敗れた。
その男の剣は異様であった。
磨いた技の下に隠された下卑た殺意。
戦士でありながら、その実勝敗に一切執着がないようにも思える、捉えどころのなさ。
人斬魔としか言いようがないその剣士に、ヴァレンティンは敗れた。
幸い、というべきだろう。
フロアにかけられた安全弁により、ヴァレンティンは命を落とすことはなかった。
ただ──一対一の正面切っての闘いで敗れたという事実が、彼が幼少期より抱えてきた誇りに罅を入れた。
兄との決闘と、その勝利。
その事実があったからこそ、彼はここまで邁進していくことができた。
しかし今の彼にとってその記憶は既に薄れ、代わりに生々しい敗者の記憶が刻まれている。
やはり──とヴァレンティンは過去を見つめて思う。
自分はこの“たまご”での敗北を越えなければならない。
そうしなければ剣士として、一歩も踏み出せない身になってしまっている。
だから彼はこの“たまご”に戻ってきた。
人斬魔が既にもうここにいないことなどわかっている。
それでも誇りを取り戻すためにも、再度この“たまご”に挑まなくてはならない。
しかし──再びヴァレンティンは敗けてしまった。
大道芸、と先の異端審問官はヴァレンティンの剣をしてそう評した。
それは事実である。
あの時、どうすればあの人斬魔に勝つことができたのかもわからないまま、苦し紛れに作った技だ。
──このままでは、二度と自分は誇りを取り戻すことはできない。
ヴァレンティンはその事実を見据え、叫びをあげる。
人斬魔はもういなくとも、あの金髪の異端審問官であれば、まだ追いつける筈であった。
ここにて奴を超える。
いかなる罠であっても、それが正面からの一騎打ちによる相対ならば、問題ない。
超える。超える。戦って、超える。
その強き意思をもって、ヴァレンティンはおのが鏡に対して雄たけびを上げた。
神話に刻まれたオオカミのごとく──彼は再起した。




