35_そして雨上がりの空は
ゆっくりと目を開けると、「ん……」と声が漏れた。
随分と長く寝ていたような気がする。倦怠感と疲労が押ししかかる中、まどろみとともに彼女は瞼を開ける。
「おはよう、キョウ」
「ああ、リュー……」
見知った霊鳥の顔がそこにはあった。
彼は心配そうに彼女の顔を覗き込んでいる。
「安心しなさい。ここは天国ではないよ」
「え? 天国って、いったい何が……?」
そこまで言われて彼女の視界は一気にクリアになった。
ばっと身を起こし、自らの身体を見下ろす。
「私、斬られちゃったんだ……よね?」
「そうだ。あのロイ君に、真正面からな」
だがキョウの身体には傷一つ存在しなかった。
痛みもなく一見して血も一滴も流れていない。
「ええと、これは……」
「奇蹟、だろうね。あの聖女が見せた最後の奇蹟だ」
雨が降り注ぐ中でキョウはその身を散らした。
あの雨が続いている限り、望めば受けた傷は癒される。
少なくともあの時点でキョウはまだ生きていたかったので、当然のように治してくれた、という訳か。
と、そこでキョウは初めて気が付く。
雨の音がしない。というか、もう雨は降っていない、と。
「最後の奇蹟……って、それじゃあ」
「ああ、あの聖女アマネは、もう殺されたよ。
あの異端審問官と、田中君にね」
そう言われ、キョウは少し顔を俯かせる。
止めることができなかった。その想いが彼女の胸に渦巻くのだ。
「だから、もう雨も上がってるんですね」
「ああ、逃げたタイボがこの街の言語を書き換えたのかもしれない。
奇蹟も、雨も止んでしまったよ。だが……」
リューはそこで言葉を濁した。
不審に思ったキョウはそこであたりを窺う。
雨が止んだ祈祷場では、瓦礫が癒されることなく無造作に転がっていた。
と、そこでキョウは気がついた。
雨上がりのさっぱりとした臭いに混ざり込むように、鉄の錆びたような、よく見知った臭いが混ざっていることに。
おもむろに立ち上がったキョウは、灰色の街を歩き出した。
雨が止んだ街は異様なまでに静かで、彼女の足音以外の一切が聞こえなかった。
「これは……」
そこでキョウは言葉を喪った。
街では無数の死体が転がっていた。
男が首を吊って死んでいた。顔に傷のある女は自らの首を絞めて死んでいた。腰の曲がった老人がナイフで喉を切って死んでいた。
死体に共通しているのは、全員、自ら死を選んだであろうことだった。
そして、それまで街にいたはずの子どもたちはどこかに消えていた。
「奇蹟の雨が止み、己の“理想”を保てなくなったのだろう。
再び自分の傷と向かい合うには、彼らはきっと、長く雨を浴びすぎていた……」
ぽたり、ぽたり、と死体から血や糞尿がこぼれている。
それはもう、雨によって洗い流されることはなかった。
「こんなの……」
キョウは顔を俯かせる。
聖女見せた奇蹟は確かに歪なものであっただろう。
けれども、それに救われた人間も確かにいたはずだった。
その末に待っていたのが、この結末だというならば、あまりにも──
「運ぶよ、父上」
どこかからか聞こえてきた声に、キョウは顔を上げた。
死と絶望に満ち溢れたこの街で、歩き続ける者の姿が見えた。
「……悪いな、元に戻ったばかりで、身体がうまく動かん」
「謝らないで。いつもみたいに命令してよ、父上」
「俺だって、娘に優しくしたい時ぐらいある。すぐに忘れるだけだ」
まだ年端もいかない少女と、恰幅の良い中年男性だった。
彼らがキョウたちに気づく様子はなかった。それよりも、話したいことがいっぱいあるのだろう。
「なぁなんで一人で来たんだ? ほかの奴らはどうしたんだ」
「みんなで襲撃しようとしていたから、抜け駆けして一人で父さんを助けてやろうとした」
「なんて……馬鹿な奴らだ。どいつも、こいつも」
「安心して、逃げだした子もいたから。父さんなんか、勝手に死んじまえってさ」
「ああ、そいつは、安心だ。本当に……」
そんな言葉を交わしながら、彼らは街を出て、どこかに向かおうとしていた。
少女が大の大人を背負うなんてしているものだから、その足取りはたどたどしく、ふらふらと揺れ、時には転んでしまうだろう。
けれども、止んだ雨のことなど、彼らはもう気にもかけてはいなかった。
「……私、決めましたよ」
その光景を前にして、キョウはリューへと口を開いた。
「私、とりあえずロイ君を追ってみます。
追って、止めてみせます。人殺しなんて、ダメですよって!」
そして、微笑みを浮かべる。ぎこちなく、明らかに無理をしているとわかる笑みだったが、それでも彼女は笑おうとしていた。
「なんだかこのままだと、悔しいじゃないですか。
あんな──あんな悲しそうな人を放っておくなんて」
長い間、空を覆っていた分厚い雲が、ようやくその役目を終えて去っていく。
代わりに顔を出したのは、何もない、けれども澄み渡った青空だった。
その中心に輝く太陽のきらめきに、彼女は美しさを見出していた。




