24_ゲオルクD33
ざざざ──
こぼれた血は雨によって洗い流され、灰色の街が再び浮かび上がっていた。
すべて碧の瞳の聖女が祈ったことで起こった奇蹟である。
田中は目の前で起こった事態に対し、目を見開いていた。
隣を見ればキョウもまた同じく戸惑いの表情を浮かべていた。
もしかすると初めてだったのかもしれない。本当の意味で、彼女と想いを共有できたのは。
子供たちは既に目を醒ましていた。
敵の偽剣使いたちも身体が治癒されたことで起き上がり、そして何かを察したのか次々と跳躍でその場を去っていった。
フュリアだけは一瞬戦意をちらつかせ、こちらを睨みつけていたが、しかし彼女もすぐに去っていった。
「追わせませんよ」
跳ぼうとした田中を予期していたかのように、キョウが鋭い一声を告げた。
その大きな瞳で彼女は田中を見据えている。
うっ、と声が漏れた。
そして同時に『イヴィーネイル』から手が離れた。
我に返った、という表現が確かはわからない。
とにかく田中はこの構図に強烈な既視感を覚えていた。
あの城で、キョウと初めて会った時と同じだ。
殺したくない。そう叫びをあげながら、いざ機会が訪れれば目の前にニンジンをぶら下げられた畜生がごとく、手を血に染めるのだ。
「やっぱり、変わってなかったんですね」
揺れる瞳でキョウは田中を見つめる。
彼女の視線に、田中は耐えられず目を逸らした。
それが答えだった。結局ここでの日々を通じても、田中は何も変わってはいない。
8《アハト》の声が聞こえなくなったのだって、その実ただこの身に意識がより根深く混ざり合ったという、それだけのことなのか。
「大丈夫でしょうか?」
二人の間に沈黙が訪れる中、タイボがやってきた。
からから、と音を立てながら彼女は二人を見比べ尋ねる。「お怪我はありませんでしたか?」と
「もっとも傷がついていても、もう治っているでしょうが」
そう言うタイボの向こうでは、一人佇むアマネの姿が見えた。
生き返って見せた子供たちは既に何事もなかったかのような顔をして、ぞろぞろと建物の中へと戻っていく。
「あれが……アマネさんの」
「はい。聖女としての奇蹟になります」
「人の傷を癒す。死すらも、超えて?」
タイボの言葉に、キョウが眉間に皺を寄せて尋ねた。
何時もきっぱりと断言する彼女らしくない、戸惑いに震える言葉だった。
キョウの問いかけにタイボは変わらず穏やかな口調で、
「この街に守りは必要ないのですよ。
あらゆる者が傷つかない。傷つけられないのですから……」
「でも……それだけで本当に」
キョウは何か釈然としない様子だった。
そして肝心のアマネは田中たちを一瞥することなく、祈祷場を後にしようとする。
田中は思わず声をかけようとしたが、
「アマネ様は今お疲れになっています。
少々、休ませてあげてください」
タイボにそう制され、田中は声が出なかった。
今の自分に彼女と語る資格はない、とそんな想いが胸に湧き出ていた。
コート越しに感じる雨の感触が、まるで自分を糾弾しているように感じられた。
それでもしばらく迷った末、田中は彼女を追いかけた。
今を逃すわけにはいかない、そう思ったのだ。
◇
祈りによる奇蹟を体現した、アマネは一人雨の中を歩いた。
石造りの入り組んだ街を彼女は黙々と歩いていく。
変わらず一切の感情の見えない表情であったが、その額には汗がにじんでいた。
しかしそれもすぐに雨で拭われてしまう。そうして雨に当たっていることが、彼女にとっては休息なのだった。
「最も気が緩む時間、というのは何時か知っているかい、聖女サマ」
その道中、野太い声が雨の中を響き渡った。
「それはな、事が成功した、その直後だ。
来る敵を華麗に撃退したあとなんかは、どうしても満足感に浸って周りが見えなくなる」
ゲオルクD33は傘を持っていない方の手で髭をなでている。
そして、びちゃびちゃと足音立てながら、余裕を滲ませた態度でアマネと相対した。
辺りには誰もいなかった。元より延々と雨が降るこの街には人通りが少ないが、通行人の気配すら一切感じらない。
偽剣『ミディー2』に刻まれた言語の力だった。
神話時代のさなか、無実の罪を負わされた盲目の神mdiの逃避と愛憎の物語が、そこには刻まれている。
オリジナルの神剣からずっと劣化してしまっているが、模倣品たる『ミディ-2』もまた、隠密魔術において強力な性能を持っていた。
そこは人の目から隔絶された死角だった。
無論アマネはそんなことは知る由もない。雨の音だけがずっと鳴り響く中、彼女は突如現れたゲオルクを無感動に見上げた。
「あの異端審問官やらブレードハッピーな偽剣使いやらを利用すりゃ、街に血が流れるのは必然。
そんでもってお前さんが出張ってきて力を使う。さあて、その直後に俺と遭遇。どうなると思う?」
アマネはゆっくりと手を挙げ、ぼう、と手に碧色の光を灯す。
が、しかしその光はひどく弱々しく、吹けばすぐに消えてしまいそうな淡いものだった。
「情報通り。聖女の力というものは有限だ。
あまりに大きな行使をした直後は、そう大きな力は使えまい。
あんな大規模再生をやった以上は、あの魔術を弾く力は弱まる」
語りながらゲオルクは乱暴に傘を捨て去った。
代わりに腰に挿した湾曲剣を抜いて見せた。
「さあて、聖女サマ。ご同行願おうか。安心しろ俺はあの“教会”と違って殺しはしない。
ただ売り払うだけさ。人でなく、モノとして」
ニタニタと笑ってゲオルクはアマネににじり寄ってくる。
彼女が抵抗できないことを確信したうえでの行動であった。
「…………」
「おや、状況を理解していないのか? それとも聖女ってのは何時だってマグロな──」
「…………」
しかし、当のアマネはというと、やはり一切表情を変えなかった。
ただ雨に濡れながら、無感動にゲオルクを見つめている。
「貴方、傷だらけなのですね」
そして、ゲオルクの下品な言い回しを遮り、アマネはぽつりとこんなことを漏らした。
「はぁ?」
言うまでもなくここに至るまでゲオルクは無傷であった。
殺人も戦闘も、すべては“子”に任せていた。上に立つものは直接手は下さないのが、最も効率的だったからだ。
今回ゲオルクが直接出てきたのも計画の要を“子”には任せられるほど、彼らを信用できていないからだった。
つまり、アマネの治癒の力を使うまでもなく、ゲオルクはかすり傷一つ負っていないのだった。
「そんなにボロボロになって……疲れたでしょう」
で、あるはずなのに、アマネは平坦に、けれど慈しみさえ滲ませる言葉を吐く。
「何言ってやがんだ、俺は」
「本当は“子”を愛してあげたいと思っているのに」
ふふ、とアマネはそこで初めて表情らしきものを浮かべた。
それはぞっとするほど深い憐憫が込められた微笑みであった。
「はっ……意味がわからねえぞ?」
「貴方は“子”の愛し方がわからないのでしょう。だって貴方自身が、愛されたことがないのですから」
その言葉にゲオルクは心臓をわしづかみされたような気分だった。
普段の彼ならば一笑に付していただろう。しかし今は、聖女の微笑みが目の前にあるのだ。
「何適当なことを抜かして──」
「わかりますよ。貴方の摩耗した心が、受けた傷が」
「はぁ?」
「D33、という名も別に、もともとは名前ではないでしょう。
子供時代、傭兵として売られた貴方が付けられた、モノとして製品ラベル……」
ゲオルクは不快な顔を浮かべ、アマネの胸倉をつかみ上げた。
「何を知ってやがる」
「わかりますよ。私と貴方は、この雨を通じて繋がっているのですが」
ぐ、と掴み上げる腕に力が籠められる。
聖女を傷つけてはいけない。理性はそう囁くが、こみ上げる感情に突き動かされるまま、彼女をにらみつけた。
それは恐怖だった。
怒りというよりは、得体のしれないものを遠ざけてしまいたいという、根源的な感情だった。
「嫌いだった。何もかも嫌いだった。本当は貴方は、今のような自分が……」
アマネの言葉は続く。
──D級33番、お前はここのところ調子が良い。なんならC級へ上げてやってもいいぞ
そして過去の“父”の記憶がフラッシュバックした。
かつてゲオルクの“父”は、機嫌が良いとそんなことを言ったものだ。
そう、決まって等級の話だった。多く人を殺してきた“子”には昇級をチラつかせることで誠意を示した気になるのだ。
そんな下世話な態度が、かつてのゲオルクは心の底から嫌いだった。
「人を殺すことは別に苦ではなく、自らを貧しいとも思っていなかった。
必要なら、血に手を染めることは別につらくもなかったでしょう。
ただもっと褒めてほしかった。話してほしかった。誰かに、抱いてほしかった。
だが何かに飢えているまま、貴方は大人になってしまった」
「黙れ」
「“父”を殺して、せっかく貴方自身が“父”になれたというのに、結局は同じことしかできない。
そのことで貴方はひどく苦しんでいる。心の根深いところで……それが傷でなくてなんでしょう」
「俺がンな善人な訳あるかっ」
ゲオルクは語気を荒げる。
“ファミリア”は子供を戦力として貸与あるいは売買する組織だ。
子供が子供を売りさばき、その収益を“父”である彼が手にする。
その構造の出来に彼はひどく満足していたし、ほれぼれと自画自賛さえしていた。良心の呵責など感じたこともなかった。
それは事実だ。
だから、この聖女の言葉はすべて的外れの筈だった。
「いえ、貴方は本当は“父”をやりたがっているのですよ」
「バカがっ」
「そうなるよう育て上げたとはいえ“子”が貴方を慕っているのは事実なのですから」
確信をもって紡がれる言葉は、彼の胸の中に水のようにしみわたっていく。
何故自分がこうも取り乱しているのか理解できないまま、ただ心を覗かれたような不快な感覚がその身を貫いていく。
ざざざ──
雨の音がする。そして灰色の街の中、ぼう、と光り輝く碧色の瞳。
その視線に込められた、淡くも深い憐憫。
ゲオルクはその時、剣を振り上げていた。
真っ赤な鮮血が飛び散る。その湾曲剣をもってして、ゲオルクはアマネの命を奪っていた。
「あ……」
胸を一突きされた彼女の身体は、ずるり、と力なく倒れ伏した。
ゲオルクは呆然とその死体を見下ろす。
何故殺してしまったのか。彼は自問自答する。
あの程度の挑発で自分を喪うなど、普通ならばありえないというのに。
しかしあの瞳が、この雨の音が、彼の判断を狂わせていた。
彼は戸惑いつつも、横たわるのアマネを見た。
致命傷の筈だった。長年人を殺してきたゲオルクは感触でそう確信していた。
けれども水たまりに沈み込むように倒れていた彼女は、かっ、と目を見開いた。
「ええ、貴方は善人などではありませんよ、ただの屑です」
ゲオルクは思わず声を挙げそうになった。
死んだはずの彼女は、雨をその身に一心に受けながら語りだす。
「実は苦しんでいた。自分でも知らないところで、貴方の心はすり減っていた。
そんなことが一体なんだというのでしょうか?
貴方に傷つけられ、売り払われた子供たちにしてみれば、そんなこと一切関係はありません。
安心してください。貴方が同情の余地はない悪党だというのは、変わりありませんよ」
そうしてゆっくりとアマネは立ち上がる。
既に赤い血は雨によって洗い流されていた。
「でも、善悪はどうでもいいのです。
同情できない悪だとしても、貴方が傷ついていることは、紛れもない事実なのですから」
ゲオルクはもはや聖女の瞳から目が離せなくなっていた。
碧色の瞳にはゲオルク自身が映っている。聖女の瞳の中に囚われたかのような錯覚が、彼の身を貫いていた。
「痛かったでしょう……つらかったでしょう……本当に。
その傷も洗い流せばいいのです、私の雨によって……」
ざざざ──と雨の音が続いていた。
ずっと、ずっとゲオルクはその音を聞いていたのである。
“理想”の聖女の奇蹟は、確かに傷を癒すことである。
けれどもそれは単なる身体的な傷を癒す力ではない。
むしろその力は──心の傷にこそ最も効果を発揮する。
◇
「アマネさん」
田中が声を上げる。
アマネに追いつくまでに、奇妙なほど時間がかかってしまった。
それは『ミディー2』の性能によるものだったが、もちろん彼はそんなことを知らなかった。
「すまない。少し話があるんだよ。俺は」
「ああ、ロイ君ですね」
雨の回廊で佇んでいたアマネは、ゆっくりと振り返った。
田中は、はっ、とする。
彼女に抱かれる形で見知らぬ影がいたからだ。
それは、子供だった。
10歳にも満たないほどの少年が、ぼう、とあたりを見上げている。
奇妙なのはその衣装で、全くサイズに合っていない、ぶかぶかの服を着ているのだった。
「この子はゲオルク君と言います。仲良く……してあげてくださいね」
そう言って、アマネは微笑んだ。
するとゲオルクと呼ばれた少年もまた、小さく、晴れやかな笑みを浮かべたのだった。
それを前にして、田中は言葉にできない違和を感じ取っていた。
……道の隅では誰かが捨てたと思しき傘と剣が、無造作に転がっていた。




