20_タイボ
この数日の滞在中、田中は新たな人間とも出会っていた。
「食事などは問題ございませんでしょうか?」
ふらり、と彼女は不意に姿を現す。
その声は穏やかな女性のそれで、壁越しに絶え間ない雨音が続く中にあってもよく通り聞き取りやすかった。
「ああ、大丈夫です。
こちらこそ、どうもありがとうございます。本当に助かっています」
「ああ、それはよかった。あとで給仕の子供に片づけさせますので、待っていてくださいね」
田中がお礼を言うと、彼女は嬉しそうにそう言った。
そのゆったりとした所作に田中はどことなく上品さを感じていた。
だが何より目を引くのはその容貌、というか衣装であった。
「よろしくお願いいたします。アマネ様の客人とのことで、しばらくは私が世話をさせていただきます。
名はタイボ。この街にて、アマネ様の補佐を行っております」
初めて会った時も彼女はそう穏やかに語った。
アマネの厚意でこの建物に招かれた田中とキョウを出迎えたのは彼女だった。
タイボ。そう名乗った彼女は、かたかた、とその異形の仮面を揺らした。
ギラギラと照り光る鱗に、鋭く光る眼光、長く伸びる牙。
デフォルメこそされているが、化け物、と称するべき大きな外見だった。
竜、のようにそれは見えた。
全身をゆったりと包み込むローブに、竜の仮面、という異様な組み合わせ。
そのシルエットに、田中は現実における獅子舞を想起した。
最初はこの世界においては一般的な恰好なのかと思ったが、隣に立っていたキョウもまた驚いていたので、そういう訳でもないようだった。
「面を喰らったでしょう。こんな格好で」
驚きの視線に晒されることには慣れているのか、タイボは悪戯っぽく語った。
だがそんな奇天烈な恰好ながら、タイボは鷹揚と田中らをもてなしてくれた。
部屋を用意し、給仕に通う子供たちを取りまとめながら、食事や掃除の世話までしてくれる。
聖女の世話係でもある彼女のテキパキとした仕事ぶりは完璧の一言だった。
「本当に助かっています。行く当てもなかった俺を、こうして置いていただいて」
そうした生活の中で、ある程度まで落ち着きを取り戻していた田中は、時おり改めて彼女にお礼を告げた。
最初はその異形の仮面に気おくれを感じていたが、しばらく接していると、おどろおどろしい仮面を被ったタイボが箒で掃除をしている姿に、愛嬌があるように思えていた。
「いえ、お礼ならば私でなく、アマネ様にお願いいたします」
お礼を告げると、彼女はいつも笑って(仮面で顔は見えないが、しかしそれとなくわかるのだ)そう返す。
感情を表に出さないアマネと対になるように、タイボは表情は見えなくとも情緒的だった。
聖女アマネの世話係、という肩書通り、彼女は普段はアマネが祈祷場にいく時に必ず隣にいた。
具体的なことはわからないが、祈りが始まるまでにいくつか言葉をかけていたり、衣装を取り換えていたり、補佐的な役割に徹しているようだった。
そういうことをやっている時は、タイボに手にあるものが箒から背丈ほどもある長い杖へと変わっている。
「……私は元々呪術師なんです」
ある時、タイボは田中に対していくつか事情を語ってくれた。
呪術師というものがどういうものかはわからなかったが、少なくとも家政婦のような役目が本職ではないのだろう。
「代々続く呪術の家系で、魔術言語の完成以来、呪術師であれ何であれ、もう専門の魔術師なんて誰も必要としませんから。
だから私は別のことをできないかと考えたんです。この荒れ果てた世界で何かを……」
そこで言葉を一度切ったのち、タイボは言った
「そして――あの聖女様に出会いました。」
その視線の先には、窓の向こうで祈りを捧げているアマネの姿がある。
延々と降り注ぐ雨の街。その中枢で彼女は人を救うために祈りを捧げているという。
「“教会”は、再びこの地に国を創るとか言っていますが、結局それでは誰も救えはしません。
今この“冬”の地では、毎夜領主たちの間で戦争の真似事が置き、その下で略奪が行われている。
“教会”の剣士たちは統率こそ取れていますが、侵攻は強引かつ苛烈で、人を傷つけ血を流すという点では他と何も変わりません」
タイボは給仕の子供の頭をなでながら言った。
「お兄ちゃんも頑張ってね」
子供は幸せそうに笑って、田中にもそう呼びかけてくれた。
この建物で世話をしてくれるものは、タイボを覗けばみな子供ばかりだった。
そして全員がタイボのことを慕っており、撫でられると穏やかな笑みを浮かべるのだった。
「この街はアマネ様の力を中枢に据えることで創り上げた街です。
今の時代に傷をついた者たちが、その流れ出る血を洗い流すことができる街です」
だから、とタイボは鷹揚と言った。
「貴方のような傷ついた者こそ、この街に住まう権利があるのです。
それをわかっているから、私もアマネ様も、貴方を助けたのですよ」
竜の仮面についた飾りが揺れるたび、からからと音が鳴り響く。
◇
キョウやリューと共に過ごし、タイボに励まされながら、田中は雨の街でさらに数日過ごしていた。
ただカーバンクルは相変わらず姿を見せなかった。キョウは毎日姿を探しているようだったが、足取りは掴めない。
その頃になると、身体から8《アハト》の声は既に随分と遠くなり、彼の言動も大分落ち着いていた。
そして、だからこそ彼には話しておきたい人物がいた。
「……なんでしょうか?」
祈祷場から出てきたアマネを、田中は待っていた。
少しだけ話をしたい。タイボに相談し、田中は彼女と言葉を交わそうとしていた。
その手に剣は持ってきていない。
胸からは何も言葉は聞こえず、雨音だけが辺りを支配している。
ああ、静かだ。そう自分に言い聞かせて、彼は口を開いた。
「東京という街から、俺は弥生という君によく似た人を追ってこの世界に来た」
田中は、彼女の碧色の瞳を見据えて言った。
「弥生という名前に覚えはないか?」




