100_5~焼け落ちた過去~
妹のアルノは育つにつれ、飛ぶことがどんどん上手くなっていきました。
幻想の流れを見極め、翼を広げ急上昇。
はばたきに乱れはなく、高所への恐怖もなく、樹の大人たちも驚くほど、アルノは堂々と飛んだのでした。
一方で、姉のノーマの方には、一向に翼は生えませんでした。
成長が遅いとか、何かの病気とか、そういうものではありません。
身体の造りからして、まったく違うのでした。
翼人ではなく、純粋な人間とでもいうべき身体つきをしていました。
ノーマも翼がないことを除けば健康そのもので、性格も明るい良い子、とされていました。
そう、
彼女は良い子です。
だから父親も母親も、それ以外の樹の家族たちも、ノーマのことを同情するわけでもなく、かといって排斥するわけでもなく、ありのままに受け入れようとしたのです。
「でも、これは今思うと、おかしなこと……でした。
だって人間、そんなによくできませんから。
自分と違う人間を、簡単に受け入れられた時点で、奇妙に思うべきだったのかもしれません」
5《シュンフ》の語り口に、トリエも、そして隣に座る7《ジーベン》も口を挟めなかった。
「そしてノーマがまた人とは違ったところは、生まれながらに物質言語、かつて神話に語られる東京の言葉を操ったことです。
それ以外の言葉は、うまく喋れなかったのに、そんな難しい言葉だけはよく知っていたのです……」
そしてある時、外から来た商人が、言いました。
姉のノーマは聖女様である、と。
そう口にした5《シュンフ》の口調は、いつもトリエに物語をそらんじたときと何ら変わらない、穏やかで聞きとりやすい声色だった。
だから、というべきだろう、トリエは彼女が何を言おうとしているのか、理解できなかった。
「……聖女と呼ばれる存在が、どういうものであるのか、今更語る必要はないでしょう。」
ノーマが聖女であると告げられたとき、妹のアルノを初めとする、彼女の家族に到来した感情は、納得、でした。
家族誰にも似ていない理由はそこにあったのかと。
そんなことをまず思ったのです。
でも当のノーマはぼんやりとした顔をして、今一つ理解していない様子でした。
だって彼女には特別な奇蹟も、力も、何もなかったのですから。
ただノーマが成長していくにつれ、大神樹に住まう翼人のたちの間で、彼女が聖女であるという意識が強まっていきました。
理由はどうにもわかりません。
ただみな納得が確信に、確信が事実に、それぞれの認識を変えていったのです。
そうして姉のノーマは聖女になりました。
翼のない彼女は、翼のある人々たちに奉られるほどの存在になったのでした。
「それから、争いが始まりました」
きっかけは、よくわかりません。
口火を切った人が、ノーマのために行動を起こしたことは確かです。
ノーマを守るために、神樹の中核へと彼女を誘おうとした人。
ノーマを愛するがゆえに、同じ暮らしをしたいと反論した人。
ノーマの幸せのために、外の世界を見せてあげるべきと述べた人。
大神樹は、ノーマのために口論を始めました。
そしてその争いは、商人や旅人たちを通じ、外にも波及します。
徐々に口論は血を伴った争いへと、繋がっていったのです。
「そんな折、妹のアルノが捕まりました」
5《シュンフ》の声に、わずかに震えが混じった。
「妹のアルノは、まだ幼気な少女でした。
だから本当の意味で理解していなかったのです。
姉が聖女であることの意味を。
なぜ父と母が、姉のためにみな争っているのか。
なぜ姉に、物語を読んであげられなくなったのか。
大神樹の外から来た人が、どうして自分を捕まえたのか。
──わからなかったの」
諳んじる声は、なおも続く。
「なんで全然顔が違うのに、妹の方をさらったのか。
なぜ“教会”じゃない反聖女勢力まで、あんな辺境にいたのか。
聖女との双子がそんなに珍しかった?
珍しかったのはわかるけど、でも、妹の方はただ翼があるだけの、普通の人だったのに。
なぜ捕まえたの? 解剖なんてしたら、死んじゃうのに。
ギリギリのところで生かそうとか、いや綺麗にして人質にしようとか。
聞こえはしたけどわからなかった。
なんで“とりあえず”なんて言って、あたしの翼を焼いたのかも!」
「5《シュンフ》」と隣で7《ジーベン》の声がする。
「あたしには、わからなかったの!」
しかしそれを無視して、5《シュンフ》は上ずった声で叫ぶように言った。
「何もかも焼かれた。ふふ、翼人の翼ってね、想念寄りだから燃やすのも苦労するんだ。
だからまずは火を勢いよくつけて幻想を振り払ったあと、肉の方を抉って、また炙るんだ」
「5《シュンフ》!」
「──それでね。最終的に、あたしは頷いちゃったの。
姉さんがまつられてる場所を教えるって。手引きをするって。中に入れてあげるって。
もう焼かれるのは厭だったから。炎が終わりになるなら、それでもう何でもよかった!
そしたら、そしたら──炎の日が来た!」
そう言い放ったのち、5《シュンフ》の言葉は唐突に止まった。
はぁはぁ、と彼女の荒い吐息が“竜もどき”の中に響く。
彼女の語った“物語”が何であったのか、トリエには何一つわからなかった。
しかし、何も口を挟むことなどできなかった。
ただ目を見開き、汗ばんだ掌を胸の前で握りしめた。
異様な静寂だった。静かなのに、荒々しい空気が滲んでいた。
7《ジーベン》は半ば身を乗り出し、彼女の肩を叩いた。
「……ああ、そう。そろそろ合流ポイントを決めないとね。花火を打ち上げるのにちょうどいい場所を」
すると彼女は、何事もなかったように平坦な口調を戻っていた。
「5《シュンフ》」
「ごめん、7《ジーベン》。ちょっと変な風になったかも」
5《シュンフ》はそう振り向かずに言って、7《ジーベン》の手を払いのけた。
「どこがいい? トリエ。最後にどういうところに行きたい?」
不意に問いかけられたトリエは、びくん、と両肩を上げた。
「ほとんど似たような荒野だけどさ。いいよ、行ける所なら連れて行ってあげる」
「え、ええと……」
トリエは何かに愕然としつつ、一瞬竜のアランに助けを求めようとして、答えた。
「う、海とか」
答えると、5《シュンフ》のかすれた声が聞こえた。
たぶん笑ったのだと思う。