私たちはなにかを思うから
こんな話が聞こえてきた。
「怒鳴り声がここまで聞こえてきたよな」
「知ってる。吉野さんの母親だろ? 吉野さんには悪いけどちょっとあれは……」
「まあ、モンスターペアレントだよなあ」
いわく、吉野早枝の母親が学校に乗り込んだとか、そういう話だ。彼女が死にかけている、という内容は噂になっていない。まあだが、吉野早枝の母親が学校に乗り込んだのは十中八九それが理由だろう。
携帯の鳴る音。めったに用がない僕の携帯に通知が来ていた。だれだか予想がつく。彼女とは特に、今日は接触がなかった。
『いつもの曲がり角で待ち伏せしとくから来てね! あと昨日のことで話があるから~』
話とは昨日の服部についてのことだろう。僕は自動的に彼女の誘いを断る手段が奪われたことになる。
『わかった』と僕は返信した。
たぶん、彼女はよく出会う家の近くの道の角にいるのだろう。
あそこにはクラスの人間はほとんど住んでいないし、僕と彼女が一緒にいることを目撃されるとは思えない。
現在、僕は服部に目撃されたことで神経が過敏になっている。それもあってやや過度な警戒をしていた。
ついでに図書館で本を借りていく。僕はいわゆる本の虫という奴で、思想的なものに溺れるのが嫌いではなかった。僕は本を選びつつ、こんなことを思う。彼女の今までの言動を見るに、彼女は思想的な本を読み漁った経験があるようだった。でなければ「人は死んだらどうなると思う?」なんて言葉はでてこない。彼女が思想に溺れた場合、激しく体が痛んだり、怠くなったりするはず。哲学的な思想は、時として普通の人ですら自殺に追い込むことがある。現実迫観念症を患う彼女にとっては、明らかに危険な行為だ。なのになんで、彼女は自分に試練を課すような真似をしたのだろう?
彼女が待っている場所まで来た。
電柱に背を預け、腕を組んで誰かを待っている。電柱はあまり綺麗とは言えないのでもたれ掛かるのはあまりよくないとは思うのだが。
彼女は横目でチラチラとお婆さんを見ていた。煙草の吸い殻を集めており、その手にはコンビニでもらえるビニール袋がある。お婆さんはその中に煙草の吸い殻を入れていた。
吸い殻が転がっている場所はバスの停車場で、バスを待つのに暇をもて余した中年が煙草を吸い、ポイ捨てをしているところをよく見る。気にとめていなかったが、たまる一方の筈の吸い殻が消えていくのは、このお婆さんが定期的に処理していたからだろう。
そして思う。お婆さんの年齢はそれなりにいっており、もうすぐお迎えがきてもおかしくない外見だ。見えた死に焦り、今頃になって必死に積む善行。それは……偽善行為だ。
脳裏に浮かぶのは父のことだ。自己犠牲。どうしようない偽善行為。
一瞬だけ強い嫌悪感が沸き上がり、一拍の後に消える。どうでもいい、と。
彼女はその光景を見て一度ギュッと強く目を瞑り、お婆さんの元へと駆け寄る。
やはりか、という思いと共にその様子を淡々と僕は見守った。
「手伝いますよ、お婆さん」
彼女が笑顔を見せながら告げ、お婆さんも笑顔と共にお礼を返す。よくもとても美しい光景のように『見せかける』ものだ。
吸い殻拾いは彼女が加わったお陰ですぐに終わり、それが入った袋を彼女が代わりに捨てておくと主張していた。日本人特有の譲り合いが発生し、両者はなかなか袋の所有を譲らなかったが、しつこく食い下がった彼女が手にいれ、笑顔と共に去り行くお婆さんを見送った。
「あ。おーい相川くーん」
事が済み、周りを見る余裕が出た彼女はすぐさま僕を見つけ、元気な声で手を振る。なぜ元気なのか、という理由はわかりきったことだ。
呼ばれたので応じ、彼女の目の前に立つ。
「居たなら手伝ってくれればよかったのにー」
「……」
「おうおう、だんまりかーい、坊主ー」
「……そうだね」
彼女は怪訝そうな表情をした。なにか間違えてしまったか、という不安げな顔。
でもそれだって……本当はどうだっていいことだ。
「いいことはするもんだよ。ほーら気持ちいいー」
彼女は大きく背伸びをし、それを肯定するように爽やかな風が吹く。まるで僕の考えは間違っているのだと、世界が僕を否定するように。
「君はさ」と僕は言う。
「なあに」と彼女は答えた。
「どういう風に生きようとしてる?」
「私? そうだなあ」
――彼女は僕の様子が変だと気づいている。
「ふふふ」と彼女は笑って後ろを向く。手を後ろに回していて、彼女の顔はここからは見えない。
「なりたい自分になれるような生き方、かな」
「なりたい自分?」
「なりたい自分」
彼女の髪が風に揺れる。ほのかな、甘い匂い。
「どうせいつか死んでしまうなら、自分で自分を認められなきゃいけない、なんて思うんだよ。私は困っている人を助けたい。それが私自身が満足するためだったとしても、いい人でいたいんだよ」
「偽善行為に近いとわかっていても?」
「そうだよ。そうじゃないと救いようがないから。考えすぎてなにもできなくなることもあったなあ。でもそれは、嫌だったから」
死に対面している彼女。だからだろうか? 彼女の言うことはあながち間違いではないように感じる。それは僕も考えたことがあることだ。だけど。
僕は黙る。言いたいことがあった。でも吐き出した言葉は戻すことができない。
そんな様子を感じ取ったのか「言ってもいいよ」と彼女は言った。
それに少し、僕はためらう。
彼女は死ぬ。それは変えられない事実だ。でもそんなことを言ってもいいのだろうか?
……いや、言うべきなのだ。彼女が傷つこうが、僕が彼女に嫌われようが、どうだっていいことなはずだ。そもそも彼女と会っているのは『死』に向かう人間がどうなるかが知りたいからで、僕がなにか答えを見つけられるかもしれないと期待していたからからだ。
だから、言うべきなのだ。
「君は死ぬ」
「うん」
「焦ってないのか? もうすぐ死ぬから、天国に行きたいからいいひとになろうとしてるんじゃないのか? いい人であることは否定しない。けど……過程が省かれて、結果がいい行動だから、なんて、それでいいのか?」
一度言ってしまえば止まらなかった。
「偽善行為なんてしないほうがましだ。どうせなにかをしたところでなにも変わらない。意味なんてない。それに君が死ぬ以上、君にとって得られるのは充足感だ。結果だけ見れば、卑怯な行動に見える。どうせこんなことだって、君は考えたことがあるはずだ。それなのに結局、最後に納得なんてできるのか?」
そんな風に言ってしまって……後悔した。彼女ほんの少しだけ震えていた。思想は彼女の体にとって悪影響だ。寿命を削るほどにまではならないが、苦しさはあるはずだ。
でもそんなことだって意味のないことだ、なぜなら僕にとって彼女が苦しもうと死んでしまおうと、本質的には関係がない。……そう自分に言い聞かせる。
矛盾している心情。わけのわからない混乱。それでも彼女から、答えを聞かなければならない。
「たしかに」と彼女は言った。
「君はこう思ってるわけだ。結局、自分は偽善行為をしているのがわかっている。だから自分で自分を許せなくなるかもしれないって。自分を騙しきれないから結果的に誰かを救ったとしても、自分が救われてないんだって」
「……うん。考え始めたら行きつくことだ。いったんそういうのに自分で答えはこうだと定める。でもずっと、その答えが正しいのか悩み続ける。それでもその答えが正しいと思い聞かせるのは……ひどく苦痛だ」
「考えすぎだよっていえないところが悔しいとこだなあ」
彼女は振り返る。僕をまっすぐと見つめる、綺麗な黒い瞳。彼女はもう、震えていない。
人間個人の心だけを見れば『自分が満足するため』に善を行なっている。それは……汚いことだ。そういう考えがまとわりつく。……いったいどうすればいいんだろう?
自己犠牲が許容できなかった。だからこういう考えを持った。父の行動をどうしても肯定することができない。だからからめとられるのだ。『いったいなにが正しいんだ?』
人間が嫌いだった。父を踏み台にして生きる人間。何も失っていないのにのうのうと生きている汚い奴ら。
たぶん、過剰に期待しすぎていたのだ。そして、いろんなことを知って、期待するのをやめた。
「でもね」と彼女は言う。
私は誰かを助けたいと思ったの。それは根本からくる感情。崖の上に生えてる綺麗な花を、子供が取りに行こうとしていたら、危ない! っていって思わず止めちゃうでしょ? 結局は人は善性を持ってるんだよ。それは偽善なんかじゃない、真実。
「だからさ」と彼女は続ける。
きっとここで私は誰かを助けようと思ったことは無駄じゃないんだよ。きっとこれは綺麗な思いで、否定されることはない。それに、なにもしないでいると……なんだか気持ち悪いの。まるで、見捨てたみたいになっちゃうから。
「ねえ相川君。人の意志は、死にゆく人の気持ちとか、魂はどうなるんだと思う?」
「消えてなくなるだけだよ。なにも、残らない」
「きっとそれが正しいんだよね。でも私はこう思いたいんだ」
「……」
「人の純粋な思いは、願いに似た祈りはきっと誰かに届くんだよ。この世の中にエネルギーがあふれてるなら、人の意志は、その意志を持ったエネルギーは何かを変えるんだって」
「……それは」
「うん、たぶんこれは妄想みたいなものなんだろうね。神様なんていない。祈りは行き場を失う。でも、私たちは人間で、誰かを想うことができる」
きっと、それは――。
「君は死んでしまえばなにも感じられないって言ってたよね。強いて言うなら神サマなんていうのは自分に宿るものだって。だからこそ、私は自分自身に、自分のために祈るんだ。なりたい自分になるために」
あはは、と彼女は笑う。ばかばかしいよね、なんて言葉を添えて。
「でも、私はこれでいいと思うの。きっと答えなんてない。だったら開き直るしかないじゃん。私は私自身のために祈るの。誰かが幸せであれますようにって」
そう言って、はにかむ彼女の姿は。
とても綺麗なものに見えた。彼女の考えと願い。出した答えと、精一杯物事を綺麗なものだと捉えようとする努力。思想は彼女を苦しめる。しかし、彼女は答えを出した。いや、たぶん現実迫観念症という病気を患ったからこそ、彼女は答えを出そうと思想を行った。
彼女はこんな考えは所詮、妄想だと言った。しかし、それでもいいと。そう願いたいたいんだと、彼女自身が決めたのだ。それはきっと、誰にも否定できない、とても前向きな信念。
少しだけ……少しだけだけど、自分の考えていたことがばかばかしくなった。
父の自己犠牲。そこから見えた人間の性。どこまでも色あせた景色。希望なき、世界。
依然としてこういう考え方は変わらない。だけど、もう少し前向きに物事を考えるべきなのかもしれない。それはとても難しいことかもしれない。でも、努力はすべきなのだ。
所詮こんなのは綺麗ごとだ、なにをバカなことをやってるんだと思う時もあるかもしれない。それでも、この考え方はとても綺麗なのものだ。
「君は、さ」
「なあに?」
「どうしてこんなことを考えたの? 普段から考えてないと、君の言葉は普通、出てこない」
「たぶん、それは私がもうすぐ死ぬからだよ。だから苦し紛れに、いっぱい考えた」
そういう彼女は苦しそうな顔をしていて、でもそれを悟られないように無理に笑っていて。
それを見て、僕は。
――この気持ちはなんだろう?
もうすぐ死ぬ彼女への同情心? こんな顔をさせてしまった罪悪感?
違う、はずだ。くだらない同情なんかじゃない。他人のことなど気にしない僕なんかの、罪悪感なはずがない。
でも、腹が立つのだ。こんな自分自身に。彼女を苦しめてしまって、それで僕自身も苦しむなんていうばからしい結果に。
「後悔、してるの?」と彼女が言う。
そうなのだろうか? 過ぎてしまった時は戻らない。吐き出した言葉を飲み込むことは、誰にだってできやしない。
「……少しだけ」
「そっか」
彼女が微笑む。
とぐろを巻く思考があった。いまだに答えは出ない。僕はどうすればいいんだろう。変わらなければならないはずだ。この色あせた景色を眺め続けるのはひどく辛い。だから、僕はこんなことを彼女に聞いたのだ。
「なあ」と僕は言う。
そして迷って、言葉を口の中にためて。
「ごめん」
「……どうしたの? 君も、もしかして不治の病に侵されてるの?」
まるで僕がこんなことを言う人間ではないかのように、彼女は言った。でも、確かに僕はそういう人間だったのかもしれない。
つまりはくだらない冗談だった。だが、あまり悪い気分ではない。
「あーあー。遊びたいなあー。動物園に行きたいなあー」
わざとらしい独り言。
たぶん、ここは僕が歩み寄るべきところなのだろう。素直にそうするのは癪だった。そう思ったけれど。
まあいっか、とも思った。
「一人で行ってこれば?」
「ひどい!」
「冗談だよ」
これが正しい選択なのだろうか?
いや、きっと何が正しいかなんて死ぬ時までわからないのだろう。そういうものだ。
歩み寄ること。ひねくれていても、なにかを変えようとすること。
恐る恐る、暗がりへの一歩を踏み出した。その先は何も見えないけれど、僕が欲しかったものがあるかもしれない。
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