1 死んでしまう人に同情すること
僕はぼんやりと外を眺める。
青々とした緑が揺れ、なぜだかを虚しさを覚える。
今は高校三年生の8月の始め。じっとりした空気が夏を誇らしげに伝えてくる。
ジリジリとうるさく鳴く蝉。
「おい、信司。開けろよ。おい、信司!」
さらには五月蝿い人間だ。
嫌になって寝返りをうち、突っ伏して枕に顔を埋める。
高2の7月。
僕は人間関係の中心となり得る学校へと向かうため、電車に乗っていた。
よく好んで読む、儚さや切なさを感じさせる小説。
僕はこういった儚さを感じさせてくれるものが好きだ。いつまでも世に残り続けるものはやがて黒ずみ、汚くなっていく。桜のようにさっさと散ってしまった方がいい。と言っても自分がそうなりたいわけではないが。
気づけばヨボヨボの老体が僕の目の前に立っていた。
席を譲ってほしいのだろう。物欲しげにこちらを見つめている。
だが席を譲る気はない。
知り合いなら『親切』をすれば返ってくる可能性があるが、赤の他人にそれをしたところで、得られるメリットはただの虚しい自己満足だけだ。そんなことをしてなんになる?
――なにもならない。
そういうものだ。親切をしてむしろ仇で帰ってくることがあることを、僕は知っている。身近な人で、そういう目にあった人がいた。
だから期待しない。わざわざ人間とは絡まない。
――変わったほうがいい、とは思うのだ。
世の中はひどく色あせて見える。この現実に期待感がなくて、このままでは窒息してしまいそうなほど苦しくて。……こんな生き方は幸福ではない。僕はいつからこんな風に考えるようになってしまったんだろうか。
周りの人間も誰も席を立たず、席を譲る気配はない。
賢明な人間の多いことだ。
やがて電車は僕の学校の駅へと止まり、僕は席を立つ。
見れば老人はこちらを見て嬉しそうにしていた。席が空いたのが嬉しいのだろう。
僕はそれを見て、なにも感じなかった。
◇
基本的に、他人との会話はゼロ、後方に配置された席に座る僕は見られた回数さえ少ないのが日常の常態だ。
僕の学校での立ち位置は『暗い奴』だ。
ただあくまで『嫌な奴』ではない。そうなってしまえば面倒なことになるからだ。
つまりクラスでは目立たなくて暗めの人物と認識されているはずだ。
こういう存在の名刺を持っていれば基本的には誰も近づいてこない。
そういう風に振る舞ってきた、行動してきた。こうすれば人間と関わることをより避けられるからだ。
「相川君、ちょっとお願いがあるんだけど……」
そう声を掛けられたのは、その日の昼休みの時だった。
相手は担任の女教師だ。
「できれば、でいいのだけど」と女教師は前置きをする。
「相川君の家はこのクラスの中で吉野早枝さんと近いの。だから、届け物を頼まれてくれない?」
突然言われたことに頭を悩ませる。
人との関わり合いを避ける僕は赤の他人のことを思い出すのに、しばし時間を必要とした。
……吉野早枝、確か病弱でほとんど学校に来れていない人間のはずだ。そのわりにはクラスの人気者で僕にはそれが理解できなかった。学校にあまり来ないのに人気者。きっと、そのことは彼女に少しでも興味を示していたなら当然のようにわかることなのだろう。生憎、僕は誰にも注意を払わないのでことさら学校にほとんど来れない人間のことはあまりわからなかった。
「別にかまいませんが……」
「ありがとう! お願いね!」
言うが早いか、プリントの束を押し付けられる。
本当は断りたいところだった。しかし、断れば『嫌な奴』と思われてしまうかもしれない。
……仕方がない。運が悪かったと諦めるしかないか。
◇
「お願いします……なんとか……なんとかなりませんか」
「……すみません、私には、力量不足です」
「お願いします、お金なら、それだけはあるんです」
「……一応、知り合いに聞いてみますよ。でも……すみません、きっと、無理です」
吉野早枝の家に向かう最中、そんな会話を聞いてしまった。
思わずその場で立ち止まる。会話はこの角の先、吉野早枝の家の前で行われていた。
「早枝を生かしてください……!」
その悲痛な声を聞いて、悟る。
病弱なクラスメイト。そいつは、死ぬかもしれない状況にあるのだと。
ぽつりぽつりと続く会話。思わず、その内容に耳を傾けた。
僕はあらゆるものに興味を示さない、示しにくい。けれども、このクラスメイトの死を語る会話には、耳を傾ける価値があって、自分自身のために聞いておかなければならなかった。
生きているはひどく億劫で、世界はひどく色あせて見せる。生きる意味を見出すことができず、かと言って死を選ぶのは何か違う。だから退屈な日常の中で特殊な事柄があれば耳を傾ける。何事にも興味を示さない僕が変われるかもしれないという期待するからだ。大抵の結果はすぐに興味を失い、僕の願いは叶わないのだが、非日常は一応知ろうとする。ましてや今回は自分が触れることになるかもしれない『死』の話題と推測できる事柄だ。
自分の虚しい生き方と考え方が嫌いだった。なにかのきっかけが、僕という人間を変えてくれることを望んだ。
やがて会話は終わり、医者らしき人物は僕から遠ざかる方向へと帰っていった。
頃合いを見て家に向かう。
白くて大きな家だ。金持ちだとわかる家。これが吉野早枝の家だ。インターホンを鳴らし、人間が出てくるのを待つ。やがて中年の女が現れた。先程の吉野早枝の母親だろう、目をやや赤く泣き腫らしている。それに目を逸らしたくなる。どうにも、こういうのは苦手だ。うっすらと湧き出る同情心。でも、僕が他人に同情したからってなにになる?
「今日は担任が用事があって、かわりに僕が届け物をしに来ました」
「あらあら、早枝のお友達かしら。ありがとうね」
「いえ、別に……」
「どう? 上がっていく?」
「いえ、遠慮させていただきます」
無意味な時間を過ごす気はない。きっぱりと断り、背を向けた。
背後から「届け物ありがとね」とか細い声。
振り向こうか迷ったが、聞こえなかったふりをした。
ようやくお使いは終わりだ。
そう思い、角を曲がろうとしたとき。
「ねぇねぇ君」
後ろからまたもや声を掛けられた。
後ろを振り向くと見覚えがあるような気がする女がいた。
明るそうな表情で外見も良い。きっとクラスで人気者になれそうだと思える人間だ。
……ああ、わかった。
「何の用?」
「君、盗み聞きはよくないと思うよ」
「それを言うってことは君は盗み聞きに準じる盗み見のようなことを君がしたことになるけど」
「さあ、どうだろうね」
吉野早枝だ。
盗み聞きとは、先程の吉野早枝の母親と、医者とおもわしき人間との会話を僕が聞いていたことを指しているのであろう。だからわかった。この子はもうすぐ死ぬ。寿命が見えている。
……かわいそう、だな。
そう思ったが、僕は人からの同情を嫌う。だからここで勝手に同情などするのは失礼かもしれない。だから感情を押し殺し、抑揚をつけず、乾いた声で喋った。
「用がないなら帰るよ」
「盗み聞きなんてするなんて、デリカシーが無いんだね君は」
なんだこいつは、と思った。僕と彼女にはほとんど接点がない、つまり赤の他人のはず。
なのにこのズケズケとした物言い。こんなことを言われる筋合いはないし、わざわざ話を聞いている間、耳を塞いでいろとでもいうのだろうか。わざわざ同情したのがバカらしくなる。
この人間には関係ない。
だからイラッと来たのだろうか、一矢報いてやろうとでも思ったのか、あるいは興味があったからか、自然と言葉が口から出てきた。
「君は死ぬのかい?」
唐突に吐き出された音の意味に、目の前の人間が顔をこわばらせ、拳に力が入るのが見えた。
僕だって驚いた。そればっかり考えていたから口に出てしまったのか、なんなのか。
偶発的に起きた想定外の事態に動転しそうになるのを、外面だけはなんとか保ち、静かに押さえる。
「…………そうだよ」
長い沈黙の後、彼女はそう答えた。
先程まで陽気そのものだった表情に影を宿し、俯く。
だがすぐにその表情に光が差し、陽気な様子に戻った。それはひどく――不自然だった。
「現実迫観念症っていうんだよね。とっても珍しい病気で治ることはまずない。考えることが実体を持ったようにガツン! って頭を殴りつけてくるの。悩み事があるひとはすっごく苦しむ病気なんだってー」
彼女はにっこりと笑う。まるで自分は悩み事なんてなくて、まったく苦しみを感じていないみたいに。
「君の言う通り私は死ぬ、死ぬよ? でもそれだけだし、もう仕方ないことなの」
僕は僅かに目を細めた。虚勢を張っているのだろうか? と思う。だがこの目の前の人間、彼女からは死に対する踏ん切りが見えた。
……よくわからない。
「そうか。本当に、死ぬんだね」
「君は珍しい人だね」
そう言って本当に嬉しそうに笑う。
理解できない、と思った。死というものに向き合い慣れているのだろうか? やけに気丈というか……なんというか。
怪訝そうな僕の顔を見たからだろう。目の前の人間は理由を語り始めた。
「私はもう死ぬからね。周りの人は腫れ物を扱うかのように優しく優しく接してくれるんだよ。でも君は直接それに突っ込んで、触れてくるでしょ?私のことを知っている人は誰もそうはしてくれないから君は珍しい人だねって」
「寧ろ腫れ物を扱うように深く避けようしているんだけどね。帰りたいと今も思っているしね」
「君は全然紳士じゃないね」
「そんなもの名乗った覚えはないよ」
「ほら、君はやっぱり面白い」
またそうやって嬉しそうに笑う。なにがツボにはまったのか、さっぱりだ。
「あ、私がもうすぐ死ぬことは誰にも言わないでね」
「元よりそのつもりだよ」
「フフ、信用できるよ。君って自己中そうだし」
戯言を返してくる彼女に「そうだね」と言う。彼女の評価も何もかも、どうだっていいことだ。『嫌な奴』と認定されなければ問題ない。
「じゃあ僕はもう帰るよ」
「待って待って」
「……なに?」
「私、明日からはしばらく学校に行けるからクラスの皆に伝えといてほしいんだけど」
初対面の相手なのにどこまでも図々しい人間だ。しかし、ここで断れば『嫌な奴』の判定を受けてしまうかもしれない。なにしろ彼女はクラスの人気者なのだから。
敵を作らず、世の中に期待しない性分。それは損をしているような気持ちになる。だが諦めなければならない。世の中、そんなものだ。
無難に担任に伝えておこうと思い、頷いて了承の意を示し、再び帰路につこうとする。
「ちょっと、待って待って」
だがまた呼び止められた。
いいかげんうんざりする。
「……なに?」
「君の名前は?」
そろそろ嫌になる。僕はこれ以上この人間とかかわりたくない。
だがやけに輝かしい表情と期待感に満ちたその様子を見て……ため息をつく。
「相川信司」
「私の名前は吉野早枝」
知っている。
「私たち、仲良くなれそうだね!」
……なにを言っているのやら。
軽く反応して帰ろうとする。だが一言だけ言っておきたくて、振り返った。
「君、しつこいっていわれない?」
「なんだと⁉」




