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初夜権

作者: 馬路キレ子


「ふうむ…」


 王国の領地を預かる領主の一人、その時の人ロアン=ブリティッシュは悩んでいた。

 毎日、見ず知らずの女と一晩を供にしなければならない生活に、嫌気がさしていたのだ。それもただの女ではない。夜伽を強制されるのは、およそ世のけがれを知らない処女ばかりだ。


「教会の僧侶どもは、今日も知らない女を私に抱かせるのか」


 静かな夜の寝室に一人、一杯の紅茶を片手に深いため息を漏らすロアン。

 現代から遡る事、およそ数百年。時にして15世紀半ば、王から土地を預けられた領主には、政務以外に一つ任された、裏の仕事があった。領内の由緒正しき家柄を持つ男女が結婚する時、そこに立ち会うことである。だが、ただ結婚式に立ち会うだけではない。両人が結婚する前夜に、花嫁の処女を領主自ら奪わねばならない、という掟があったのだ。


 当時の社会の風習は、科学が発達した今と比べれば、異常なほど迷信に縁深かった。

 その迷信の中の一つに、『処女は結婚する男にとって、後々に災いをもたらす』と言われて忌み嫌われ、それ故に『聖職者』と呼ばれる僧侶や領主が『初夜権』と称して、その処女を奪う事を当然としていた。


 もちろん、これには裏がある。

 後の歴史書などでは、暗黒時代と呼ばれるほど社会風紀の乱れた中世ヨーロッパ世界において、聖職者は教会という強大な権力の加護の元に座していた。だがその実態は、聖職者とは名ばかりの色欲に堕落し、物欲に腐敗していた。しかし、『みだりに姦淫してはならぬ』という一応の戒律があるため、その公の行動は一定制限されているのが実情だった。


 が、一概に欲深な聖職者というのは意地汚いものである。

 自らの色欲を満足させるために、処女への姦淫を悪の象徴とし、それを聖職者が奪うことによって、娘の身を清めるという『迷信』を広めたのだ。無償で生娘たちの処女を嗜める事の出来る『初夜権』は、教会権力に守護される僧侶達にとって、非常に都合の良い理屈であった。


 要するに、『初夜権』というのは、聖職者とは名ばかりの性欲旺盛な僧侶や領主達など支配者階層の『娯楽』だったのだ。


 もちろん、自分の花嫁の処女を奪わせまいと迷信を嫌う者も少なからず居た。

 だから、この『初夜権』を欲しいという花婿が居れば、僧侶や領主が花嫁に値をつけて、それに相当する金品を献上する事で解決するという時もあった。判りやすく言い換えれば、『初夜権』は支配階級が設けた臨時の税収。結婚税であったのだ。


 だが、当時の市民は、貧困にあえぐ者も多く、裕福な市民以外は皆、花嫁の処女を泣く泣く諦めるのが実情であった。内心、誰もが迷信など信じていなかった。ただ腐敗を続ける宗教家達に、結婚という身近な物でさえ支配される。領主、僧侶達の公然の横暴は、市民の怨嗟の声の中、当然として繰り返されていたのだ。


 そんな世間の風潮の中。

 市民を愛し、国を愛し、領主の中でも賢明と呼ばれたロアンは、どうにか僧侶達の権力を捻じ伏せられないかと画策した。だが、当時の絶対権力であった信仰教会を傘に着る僧侶達の抵抗は凄まじく、たかだか一地方の領主が、とやかく口を出せるような事ではなかった。


「どうにかできないものか…」


 熱心な愛妻家でもあったロアンは、自ら妻が居る立場でありながら、毎日教会の僧侶達に命ぜられて、代わる代わる見ず知らずの処女を抱かされる事に多大な罪悪感を覚えていた。


 キィー…


 そんな葛藤の日々を送っていたロアンに、軋む悪魔の音色。

 開門すれば、人四人がゆうに潜り抜けられる幅広さを持つ木製の扉が、まるで老婆の招き手のようにゆっくりと開き、同時に生ぬるい風が室内を通り抜ける。


「…ほっほ、ロアン様。今夜の花嫁の準備が整いましたぞ。それでは、ご政務のほう頑張りくだされ」


 苦悩する領主ロアンの部屋の戸から、老いを感じさせるしゃがれた声が聞こえる。

 その声の先には、薄らと灯火の灯ったカンテラを持ちながら、風の通り抜ける扉を通り抜け、下卑た高笑いを浮かべてロアンをジッと見る、骨と皮で出来たシワシワの老僧侶。


 その薄汚い聖職者の皮一枚剥げば、路頭を歩く性欲の獣と同じだ。と、ロアンは激しい苛立ちを老僧侶への視線に含ませ、キッと睨みつける。

 だが、老僧侶は「ヒッヒッ」と欲望に満ちた口で笑うだけで、何も語らず、そそくさと会釈をして扉の影へと消えてゆく。敬虔けいけんな聖職者と呼ばれ、太陽の昇る日中は市民から高僧と慕われるこの老僧侶もまた、今は人間的な欲望に支配されていた。


 きっと、今日も手頃な『生娘』を見つけたのだろう。


―――――――


ガチャ…


 重苦しい木の扉を潜り、今日も渋々、教会の人間に準備された部屋にロアンが入る。

 教会に組する誰かが片付けたのか、良く整理された室内の様子がロアンの目に飛び込んでくる。使い古されてすす惚けた暖炉、綺麗に並べられた蝋燭台、陰鬱な影を映し出す灯火、三人の天使の描かれた宗教画が光によって浮かび上がり、壁にかけられた十字架が、今夜も悪魔の呪物のように歪にギラつく。二階と通じる天井からは、木目の隙間から落ちる砂ぼこりと、ギシギシと何かが激しく揺れる音。そして、男の喜びと、女の哀しみがロアンの耳には聞こえていた。


「この世に存在する悪魔というものが本当に居るのなら、きっとそれは我らの事を言うのであろうな」


 蝋燭に照らされたロアンの顔が、一瞬、陰る。

 体よりも心がむせ返るような異様な暑さは、ここが邪教の巣たる所以か。地方を治める領主だからこそ、正義正論をもって市民を貪る悪魔に抗わなければならないのに…率先して教会と信仰という物にすがる悪魔の手伝いをしている。なんと情け無い事だろう。そう思いながら、室内の奥へ重い一歩を進むロアン。

 昼は『賢明な領主』を装っていても、夜は所詮『悪魔の小間使い』だ。

 教会という巨大な権力に逆らえない、惰弱なロアンの心が、無造作に置かれた木製のシングルベッドへ、なくなく足を運ばせてしまう。


「生臭坊主! 死ねぇぇ!」


 と、その時だった。

 物陰からギラりと光る何かを伸ばし、飛び込んでくる一つの影。ロアンが、しまったと顔を引きつらせた時には、もう遅かった。


スパッ!


 気よりも先に体が動いたロアンは、危機を回避するために体を捻れるだけ捻り姿勢を変え、手を影へとバタつかせ、辛くも急所はのがれた。が、ロアンの手の甲には一筋の切り傷がつき、そこから天井へと赤い鮮血が飛んでゆく。


 飛び込む影がロアンの体をすり抜けるように家具棚に突っ込んだのを確認すると、ロアンは見に迫る危険を察知し、影に対して正面に身構えながら流血の止まらない手の甲を他の手で抑え、再び動き出す陰を目で追いながら、ジリジリと逃げるようにシングルベッドの近くまで寄った。


ドッ!


 そしてまた影が勢いをつけてロアンへ飛び込む。

 しかし、不意打ちならまだしも、今度はロアンも身構えている。丸腰とはいえ、ロアンは領主となる前は、荒くれの兵隊達を統率する武人であった。油断の無い一対一の勝負となれば、戦慣れしたロアンに勝てる男など、そうざらには居なかった。


 ベッドに敷かれたきめの細かい綿のシーツを止血をしている手の指で掴むと、まるで奇術師のテーブルクロス引きのようにスッと抜き取り、飛び込んでくる影に向けて、勢い良く飛ばした。


バッ…


 人間と言うのは、今まで見ていた視界が閉ざされると、一気に平衡感覚を失うものである。飛び込んでくる影も、ロアン目掛けて飛び込んできたのなら、また同じことであった。視界の閉鎖に混乱した影は、手に持った刃物を上下に振り乱しながら、ロアンの姿を探す。だが、ロアンはすでに、シーツにくるまれた影の背中を捉えていた。


ガバッ


 一瞬の捕り物だった。

 ロアンは、手馴れた具合に白いシーツの中で踊る影の手首を掴むと、影が慌てて振り回すもう片方の手に握られた刃物がロアンの体に触れる前に、影の足を払い転ばす。


バタンッ!


 その拍子に、影が刃物を落とす音を確認したロアンは、固い板場の床に受身もとれず、思い切り転倒した影の背、腰から尻にかけての部位に馬乗りになり、暴れる影の腕を掴み、骨と神経が痛むように天井へと伸ばす。ほぼ羽交い絞めにされるような形で、その影は痛みに堪えられず動きを止めざるをえなくなる。


「誰だか知らないが私の身分を知っての狼藉か! 私は、この地方の領主、ロアン=ブリティッシュ子爵だ!」


 ロアンの声が室内に響く。

 手首からは、しとしとと落ちてゆく少量の血液の飛沫が、影を包み込んだシングルベッドのシーツへと朱の色を広げてゆく。


「私に触るな! その汚らわしい手で、何人もの生娘を垂らしこんだ卑怯者め!」


 威嚇する獣の雄たけび様な、常軌を逸した金きり声にロアンは耳を疑った。

 まさか、と思ったロアンは、腕の拘束を解かないまま、影を包んだシーツをめくる。それに続いて、ジリジリと影の姿が、徐々に室内の蝋燭の明かりに照らし出され、ロアンの目に飛び込んでくる。


「お、お前、女か!」

「離せ、獣! 善良な領主の面をしながら、裏では生娘を手篭めにする、アンタのような卑怯者を、日の光の届くところに生かしておけるか!」


 赤毛にやや短く整えられた髪。綺麗な曲線を描くうなじ。意外なほど細い、腕と体。

 そう、ロアンを襲った影の正体は、意外にも女だったのだ。


 目の前の娘にけだものと罵られたロアンだったが、ロアンもまた、目の前の娘の行動を見て、獣と思っていた。

 一般的な市民階級の着る衣服、いわゆる何処にでも居る、気優しい街娘の格好をしてはいるが、蝋燭の光が一度、娘の顔を照らせば、濃い赤毛は獅子のように逆立っており、体は罠にかかった野生動物のようにロアンの拘束を解き放とうと必死に動いて、目は落ちた刃物を追いながら殺意に満ちている。


 ロアンは、とりあえず娘を落ち着かせようと言葉を投げかけた。


「娘よ! 私の言葉を聞いて落ち着け! いいか、私は生娘の貞操など興味がない! それどころか、この行事自体も、悪しき体裁だと思っている!」

「ぬけぬけと嘘をつけ! ここから帰ってきた娘たちは、皆泣いていた! 皆、領主と僧侶に辱められたと口々に言っていた!」

「娘達を辱めたのは、不甲斐ない話だが、本当のことだ。だが娘よ、僧侶や私を殺したところで、何が変わるというのだ! 教会という巨大な権力の前では、何も変わらないぞ!」

「変わっていくさ! いや、変えていくのさ!」

「なに! それはどういう…」

「僧侶も、領主も、身に危険が迫って居る事を知れば変わる! 変わらざるをえなくなる! だから殺すのさ! アンタみたいな腰抜け領主が権力に屈し、教会に反抗できないと言うなら、私達がするしかない! 権力に屈しないことが、権力に犠牲になった私達の復讐なのさ!」

「なんと…」

「だから私の…いいえ、私達の貞操は、愛すべき人以外には誰にも渡さない! 意地汚い教会の僧侶にも! それに従うだけの領主にも!」


 激昂する娘の言葉と行動は強く、まさに正論に値するものだった。

 ロアンは言葉の数々を聞きながら己の心の弱さに、打ちひしがれた。


 すると、ロアンの肩から力が抜けた。手の拘束を解き、馬乗りになっていた娘の体を離れると、ロアンは蝋燭のかけられた柱に背を置き、膨らむ多大な罪悪感と、領主たる者として少々の絶望に心を潰した。


 その間に、サッと身を翻した娘は、落とした刃物を手に取り、うな垂れる領主ロアンの前へと、鈍い銀色を放つ刃物をちらつかせ近づく。まったく無防備な態勢のロアンだったが、万が一を考えた娘は、動けないようにガッとロアンの腕を片方の腕で掴むと、刃物を彼の急所に突きたてようと力を入れる。


 一方ロアンは、視界に飛び込んでくる獣のような娘と、その手に握られた銀色の刃物を、まるで世捨て人のように、落ち着き払ってぼんやりと見る。明らかな殺意を前に恐れる感情など一切無い、捨て身の姿勢。娘は、自らの殺意に満ちた目と手でロアンを捉えながら、その奇妙な行動と姿勢に少々の動揺を隠し切れなかった。


 そうしている内にロアンが口を開いた。


「どうした。さあ、殺せ。一思いにこの胸の下あたりを刺せ。苦悶の顔を見たくなければ重なるように飛び込んでこい。私は、苦痛の声も出ないで絶命するだろう」

「い、言われなくても殺すさ!」

「それでいい。お前のような心の強い娘に罪を負わせるのは不本意だが、私も罪悪を感じる毎日に疲れた。残した妻子達には悪いが、ここで私が死ぬほうが領民のためになる」

「余計なお喋りはやめろ! そんな気持ち初めから無いくせに!」


 死を前にして出たロアンの本音…いや、娘にとっては愚痴でしかない言葉。

 だが、その優しげな口調から出る言葉が、娘の殺意を鈍らせる。この娘も、領民のために汗を流す領主ロアンの昼間の賢明さは知っていたのだ。


 一方ロアンは、目の前の気丈な娘を何処か尊敬の眼差しで見つめながら、自らの胸を刺されるまでの空白の余生を、心の吐露、領主の愚痴で埋めてゆこうと思っていた。


「私が惰弱な領主でなく、お前のように心強い人であれば良かった。そうすればお前も、犠牲になった生娘達も、傷つくこともなく幸せを掴めていただろう」

「黙れ! 結果だけを後悔し、懺悔しても、行ってきた非道の贖罪にはならない!」

「お前の言う通り、私は罪深い人間だ。表では、お前達領民に慕われようと奔走する善人の顔をしながら、裏では生娘を喰らう聖職者と同じ、ただの獣だったのだからな」

「あ、哀れみを誘って、私の心を懐柔するつもりか! とんだ二枚舌だな!」

「すまん。お前の憎しみを満たすには、少々無粋だったな。さあ、心強きお前の手で私を殺せ。殺せば私の心も救われる…」


 そう言うとロアンは顔をあげ、眼を瞑った。

 やや傷口付近に固まり始めた血痕の隙間を縫うように、未だ血が少量流れ続ける手を大きく広げると、刃物をもった娘の前で無防備になった。


「悪く思うなよ領主。全て、アンタが悪いんだ!」


 強気に言葉を吐く娘は、ギリギリと音の出るほど刃物を握る手に力を入れる。

 しかし、強気な言葉とは裏腹に、刃はロアンの体を突こうとする動きを見せなかった。操を、勝手に決め付けられた処女権という制度で教会に奪われ、悲しみと憎しみに凝り固まっていたはずの娘の意志は、ロアンという領主を前にぐらついていた。願望であった権力の殺害、その一際の瞬間を前に感無量になるどころか、「ここでこの領主を殺して何になる」「この領主を殺しても、次の領主が生娘の処女を貪るだけではないか」と、思考という名の葛藤に襲われていたのだ。


 そして、蝋燭の蝋が半分ほど溶け尽きた頃。

 娘は一つの決断をした。


「腰抜け領主! 命が惜しければ、私の言う事を聞け!」

「な、なにっ?」


 娘の突然の命乞いの催促に、ロアンは驚きを隠せなかった。

 力強く刃物を向けたまま、娘の言葉は続く。


「一度捨て鉢になった領主とて、自分の命は惜しいだろう!」

「娘よ、何を考えているのだ。今さら命など惜しくは無い」

「命を惜しめ! 惜しむと言え! アンタが私の言う事を聞けば、私は助けてやると言っているんだ!」

「しかし、お前の憎しみと、私の贖罪の心を満たすことが出来る方法が、私を殺すこと以外にあるのか」

「あるから言っているんだ! さあ、命乞いをしろ!」


 命令口調で続く娘の言葉の節々に、ロアンは少々の疑問を感じた。

 この娘は、領主である私に何をさせようと考えている? と、素早く回り始めた頭の中で思考を繰り返す内に理解できた答え。それをロアンは口に出した。


「娘よ。この惰弱で、ちっぽけな私に、お前のような生娘達を権力から守れというのか」


コトン…


 ロアンの言葉を聞いた娘は、思わず手の持った刃物を落とした。

 同時に、娘はフワッと裾長のスカートをなびかせると、力なく膝をつき、領主ロアンの前に跪いた。そして、無防備に広げていたロアンの手が、すかさず優しく娘の肩に沿えられる。領主の前で俯く娘の顔からは、すでに、さっきまでの獣の怒りは消えていた。


―――――――


「御領主様。私は、バイラッドの街でパン屋を営む両親を手伝う針子の女、名前をイザベラと言います」

「そうか。私は領主ロアン=ブリティッシュ子爵だ」

「御領主様、申し訳ありません。私は二つの罪を犯しました。一つは、領主様を殺害しようとした事。一つは、結婚する相手も居ないのに、この初夜権の儀式に名乗り出た事です。その二つの無礼、どうか、お許しを」

「罪の許しなど、別に乞わなくとも良い。私は、お前のような者に殺されて当然の男だ。それで、イザベラよ。君の言いたい事はわかるが、実際にどうすればいい。私は確かに戦は上手いほうだが、強大な権力を持つ教会と、戦争を始めるほど愚かな領主ではない」

「御領主様が賢明なお方であることは、領民誰もが知っていることですわ。でも、私達女は、権力の中で余りにも無力です。初夜権などという、邪な権威を作り出す教会に、抗うことも出来ないほど非力な生き物です」

「そう自分達を卑下するな。少なくとも、私より心が強いではないか。それに賢明な領主とて、実行できなければただの傀儡だ。教会の操り人形になっているに過ぎない。」

「いいえ、ロアン様は頭の回転が速いお方。それに他の領主では話しになりません。私たちがすがれるのも、貴方だけなのです。どうにか、娘達の悲鳴を毎夜聞くのを避ける方法はありませんか」

「ううむ…」


 ロアンは、すきま風に揺れる蝋燭の照明の中で、見え隠れする赤毛のイザベラの必死の表情を覗きながら、どうにか良い方法は無いかと、二人で熟考に熟考を重ねた。


 その内に夜は白み、唯一ある窓の外からは小鳥のさえずりが聞こえ始めた。

 直面したその余りに難しい問題に、二人は眼の下にクマをつくるほど悩み、考えあぐねる時間を過ごす。が、賢明たる領主ロアンと、強い意思を持つ娘イザベラの二人の頭脳を用いても、結局良い答えは浮かばなかった。


 そして、二人は気付いていなかった。

 教会の命を受けた者が、処女との一晩を過ごした領主を起こすために、部屋の戸に近づいているのを。


ドンドンッ!


「御領主ロアン様! 朝でございます!起きていらっしゃるでしょうか!」


 大きく戸を叩く、教会の者とは思えないほど低く乱暴な声。

 ロアンは、イザベラと供にその音に驚いた。そう、まだ領主の裏の仕事である、目の前のイザベラの処女を奪っていないのだ。どうする…とロアンが狼狽するうちに、乱暴な声は、戸を再び強く叩く。


ドンドンドンッ!


「そろそろ昼間の政務のお時間です! 一晩の慰み物にご執心する気持ちもわかりますが! 領主様は妻も子もある身です。起きなければ中に入って起こしますぞ!」


 あまりに不躾な乱暴者の言葉に、苛立ったイザベラが衝動的に刃物を強く握る。

 ロアンはイザベラの苛立ちを抑え、刃物を見つからないようにベッドの床の隙間へ投げると、スッとその場を立ち、扉の前へと進む。


ガチャッ…


「わかっている。すぐに政務に戻るつもりだ」

「ロアン様、起きていられてましたか。これはこれは…」


 扉の前で出迎えたロアンの事など気にせず、いやらしい目で室内を覗こうとする、教会に組する醜く腹の出た男。あわよくば、前夜の領主の相手、イザベラの痴態でも拝もうという魂胆だったのか、その習性に反吐が出るほどの嫌悪感を催したのは、イザベラだけではなく、ロアンもだった。苦虫を噛み潰すような顔で、眼を瞑り、眉をひそめながら、ただ男が室内を覗き終えるまで堪える二人。


 しかし、もちろん男が想像する情事など無かったので、男は「ちぇっ」とつまらなそうな顔で室内を覗くのを止めた。


 ロアンは、男の嫌な顔を見てホッと胸をなでおろす。

 イザベラの処女を奪ってない事を密告されれば、教会の権力者達が黙っては居ない。あれよあれよと言う間に、領主の座を蹴落とされてしまうだろう。そうなれば、これから権力者の毒牙にかかってしまう生娘たちを救うことも叶わない。それだけは何としても避けなければならなかった。


 だが、ホッとしたのも束の間。

 室内を覗いていた男は、一つの疑問をロアンに投げかける。


「はて、ロアン様。昨晩の御政務は激しいものだったのですかな? あのようにベッドのシーツがめくられ、床の所々に傷が見え…はて、守衛の話では、昨晩のロアン様の部屋は、一度大きな物音が聞こえた以外、静かなものだったと聞きましたが」


 ロアンは男の観察力に焦り、下唇を噛んだ。

 が、そこは領地を統べる器。なんとか話を取り繕おうと、訝しげにロアンを見る男に対して合わせるように考え付いた言葉を投げかける。


「は、はっはっは。守衛に聞き耳を立てさせるとは、貴方も悪い人だ。実はあの娘、気が粗暴な奴でな。見た目からしても乱暴そうであろう? じゃじゃ馬の手慣らしをさせるのは一筋縄ではいかなくて、少し激しい遊びを興じてみたのだ」

「ほう、どのような遊びを。グフフ…私も興味がありましてな」


 ちょこんと床に座るイザベラを見ながら、いやらしい笑みを浮かべる男。

 ロアンとイザベラは、そんな男に殺意を抱かせるほどの嫌悪感を募らせたが、ロアンが目でイザベラに堪えて聴くように合図させると、男に合わせて話を続けた。


「まずは娘の口を腰紐で縛って、抵抗する体力が無くなるまで一晩中追いたててな。逃げられずに疲れた所で、あの小ぶりの体を、嫌だと思う心が、欲しいと思うまで執拗に攻め続けてな。生娘とは言え、欲深き女だ。十分に女の快楽を知ってしまえば、大人しくなる。そこで、ベッドのシーツを床に敷き…というわけだ。」

「ほ、ほほう。グフフ…それはそれはロアン様、グフフ…羨ましい話ですな」

「それからは守衛の耳にも聞こえないほど、さぞ静かであったろう。床に傷がつくほど暴れる生娘の口を塞いで、処女を奪ってやったのだからな。貴方にも聞かせてやりたかった。あの痛みと喜びを同時に感じながらも、それを堪える生娘の声。あれが私は、何よりも好きだからな」

「グッフッフ…領主様の政務は、実に熱心でございますな。しかしまあ妻子の居る身で、なんと女に傷を付ける事が上手いこと」

「そう言うな。妻にはやれない事も、見ず知らずの生娘には出来る。それに、私も傷を付けられた。この手の傷を見てくれ。余りに暴れるんで、私が怪我するほどのじゃじゃ馬だったのだ」

「グフフフフ…本当に羨ましい話でございますなぁ」


 口から口へ連続して良くも出る、ロアンの創作した情事を聞きながら、男のいやらしい視線は、イザベラを捉えて離さなかった。

 あの細腕でありながら領主を傷付けるほどの暴れぶり、そして今でもキッと汚らわしいものでも見るようなキツイ目で睨む赤毛の娘が、この領主ロアンの嗜好のもとに、良いようにやられ、一晩で望まぬ女の喜びを与えられたと想像するだけで、男は無意識に垂れる涎に、舌なめずりを繰り返し、その興奮をあらわにした。


 が、興奮する男にも、その洞察の中で、腑に落ちない点があった。

 それは、イザベラの服も髪も体も顔も、領主ロアンの話す情事の中身ほど乱れていない事だった。ロアンの手の傷が、爪や歯で傷付けられたような雰囲気ではない不自然さも、手篭めにされたはずのイザベラが、自分に向ける憎しみに満ちた睨みも、情事の想像の結果にあるものとしては、理解できない疑問がわく。


 そして男は、核心である疑問を口にする。


「失礼ですが、御領主ロアン様は本当に、あの娘の処女を奪ったのですか?」

「ははは、何を言う。このロアン=ブリティッシュが嘘をついているとでも?」

「グヒヒ、あなたは昼も夜も熱心な官僚だ。だから、嘘をついているとは思わない。が、少し不自然な感じがしましてねぇ。何か証拠はありませんか?」

「証拠。証拠か…」


 男の疑問は、確かなものであった。

 辻褄あわせのように考え、並べられた創作の情事の結果にあるイザベラの姿を、迂闊にもロアンは忘れていたのだ。ロアンは焦った。自分の言葉の隙を突き、迫る男の洞察力の凄みに。その男が投げる疑問の目に。


 ロアンは誤魔化し笑いを浮かべながら、一度イザベラのほうを見る。

 イザベラが、不安そうな顔でロアンを見る。何とかしなければ。何か、この男に対して言い訳できる物は無いか。と、室内を探した。


「どうしたんですか、別に今から私があの娘の取調べをしてもいいんですよ」


 イザベラの姿が気に入ったのか、その内なる欲望の牙をむき出しにし始めた男は、部屋の扉を塞ぐように立つ、ロアンの体を離そうと、必死に催促をする。

 このままではまずい。と、思うロアンの心の中は、焦りの色で塗りたくられていた。


 しかし、部屋の中を見回しても、そこには何一つ、イザベラの処女を奪った証拠たるものが無かった。せっかく機転を利かせて喋った事が、逆に疑問を呼ぶ結果に気が動転していることもあり、ロアンの慌てぶりは、イザベラの目にも明らかだった。


「ふふふ、ないようですね。では私が自ら取調べをしてあげましょう」


 じゅるり、と音を立てるような舌なめずりを一度すると、ついに男が、己の中に滾った興奮に我慢できなくなったのか、焦燥感に揺れるロアンを扉にたたきつけるようにして押しのけると、床に座ったままのイザベラに足早に近づいていった。

 男の鼻息は荒く、獲物を狙うように一直線にイザベラへと近づき、欲望がギラついた目でイザベラを見つめ、その肩を力任せに掴むと、その場に押し倒そうとのしかかる。


 イザベラは、思わず悲鳴をあげた。


「い、いやーーーー!」


 些細な抵抗はしたものの、肩口を抑えつける男の力は強く、なるがままに押し倒されたイザベラは、男の欲望に歪んだ表情に拒絶に近い嫌悪感よりも、純粋な恐怖を心に抱いた。

 見ず知らずの醜い男が、体を奪おうと乱暴にのしかかってくるのだ。いくら気丈な彼女とて、心はまだ男を知らない少女のままなのだから、錯乱気味にならないはずはない。短く纏められた赤毛を振り乱し、顔を背けながら、襲い掛かる醜い男のアゴを、自分の右手をつっかえ棒にして押しのけつつ、もう一方の手は男を殺すための武器を掴もうとして必死になる。


 しかし、ロアンを襲ったときの刃物はベッドの下に投げ込まれてしまったし、室内に男を払うことの出来そうな武器になるような物は無かった。


 一方ロアンは、扉近くの柱に叩きつけられ、軽い脳震盪にかかっていた。

 意識が朦朧となりながらも、態勢を直し立ち上がり、目の前で襲われているイザベラを救おうと、男の背中を追った。だが、その脳裏には一つの葛藤の種があった。男をつまみ出そうにも理由が見当たらない。しかし、イザベラは助けなければならない。ロアンの葛藤とそれに繋がる思考は、朦朧とする意識と相まって、彼の足取りを重くさせた。


 どうすればいい…どうすれば…と、ロアンが思ったその先に見えた物は、彼の答えに相応するものだった。そして、彼は、イザベラの唇に迫ろうとする男を前にして、大きく足を振り上げた。


「この獣め! やめないか!」


 悩みの晴れた様なロアンの一喝と供に、イザベラの耳にはドゴッと鈍い音が聞こえ、一瞬開いた目には、のしかかる男の苦悶の表情が見えた。

 同時に、イザベラを押し倒した男の体は浮き上がり、ガタガタッと勢い良く横へ二、三回転がりながら吹っ飛ぶと、ガンッと大きな音を立てて部屋の壁に強く叩きつけられる。そう、領主ロアンの思い切りの良い蹴りが、男の横っ腹に命中したのだ。


 恐怖と憤りの隠せないイザベラは、体を起こすと、ロアンによってベッドの下に投げ込まれた刃物を探した。彼女を襲った醜い男のトドメを刺そうと、殺意が活発に動き出したのだ。


スッ…


 だが、そんな彼女の肩を掴む手が…殺害を止めさせる手が一つあった。

 良く見ればそれは、傷口が生々しく残るロアンの手だった。


「どうして!? 私があんな獣に犯されてもいいと言うの!?」

「イザベラ。お前のおかげで領民の娘達が救われるのだ。何もその綺麗な手を、わざわざ汚す事はあるまい」

「えっ」


 イザベラは驚いた。

 殺害の意思が止められたからではない。領民の娘達が救われる、と言い切ったロアンの顔が、それまでの惰弱な領主の物では無かったからだ。


 そして、しばらくすると、ロアンに蹴り上げられ、壁にぶつかった男が、憎憎しい口調で語気を荒げ、ロアンに詰め寄る。


「うう…な、何をなさいます! いくら御領主ロアン様とて、審問中である聖職者の私に、理由も無しに傷をつければ! ただでは済みませんぞ!」

「勘違いをするな。証拠があるから、止めたまでの事。これが、私が彼女の処女を奪ったという証拠だ」


バサッ…


 ロアンの手に掴まれ、男に向かって思い切り良く投げられた一枚の薄布。

 それは、血のついたベットシーツであった。


「こ、これは…」

「それこそまさしく処女の血のついたシーツ。著しい証拠ではないか」

「馬鹿馬鹿しい! こんなものが証拠になるとお思いですか!」

「はっはっはっ、貴方のような敬虔な信者が、なんと血迷った発言をするのだ」

「ち、血迷う? 何のことです!」

「国王の決めた教会への査問委員会の条例に一つ、共通の取り決めがあるのをお忘れか」

「取り決め…?」

「初夜権の儀式を行使した次の日以降に、教会の者が娘を審問する際。領主に認められた『処女でないという証拠』が一つでもあれば、聖職者たる教会の者はどんな理由があるにしろ、その娘を姦淫してはならないという取り決めだ!」

「な、なに…なんだと…ぐぐ…た、たしかにそれは…そうだが!」


 くぐもった声で、反抗の意思を見せる男。だが、男はロアンの論法に一言も言い返せなかった。

 国と教会との、その取り決めは確かにあり、領主ロアンの言っていることは至極正論だった。教会が流布した初夜権というシステムは、災いをもたらす悪の象徴たる処女を、聖職者が姦淫することで清める儀式だからこそ成立するのであり、戒律で『みだりに姦淫してはならぬ』と決められた者が、非処女…つまり、生娘で無い者を姦淫すれば、それは戒律に背く事となり、教会から破門されることもある重大な罪であった。


「し、しかしロアン様。その女はまだ非処女と決まったわけじゃ…」


 なんとかイザベラを抱きたいと思う欲望が先に出て、意地汚くロアンにすがる男。

 イザベラに指を指し、惨めに処女であることを口ずさむ男は、すでに聖職者というより性欲の虜。食う時に食い、貪る時に貪る、獣そのものだった。


「女々しいぞ! 早くこの部屋から出て行け! 貴方を領主暴行の罪に問わないだけ、ありがたく思うのだな!」


 聖職者としての体裁さえ失い、醜い欲望を露にする男に、ロアンは今まで溜まっていた憤りを言葉で表した。手を振り上げ、汚物を見るような冷たい目で、男を蔑んだ。

 しかし、男はまだ食い下がる。


「ひぃ、そ、そんな。じ、自分だけ楽しもうなんて、御領主様は横暴だ」

「黙れ! 権力を傘に着て、生娘を辱め、己の欲望を満たすことにしか興味の無い獣め! 私は領民を守る義務があり、娘には愛する者を愛する権利がある!」

「そ、そんな格好の良いことを言って、ろ、ロアン様だって、生娘を毎晩抱いていたではないですか。へへっ、だから、今さらそんな事言わないで。グヒヒ…私にもあの娘の味見をさせてくださいよ」

「腐れ聖職者が…少し頭を冷やせ!」


 ロアンは、しつこく食い下がる男に業を煮やし、傷ついた手で男の頬を叩いた。

 その一撃に身構える男だったが、ロアンはもう片方の手で彼の胸元を掴み、肉を引き裂かんばかりの力で、ジリジリとその巨体を引きずった。そして、開き戸のついた窓を、蹴りで豪快に開け放つと、片手に掴んだ男を軽々と外へと放り投げた。

 男は良く整地された庭へ、ゴロゴロとまるで玉のように転がりながら、勢い良く教会の花壇へと突っ伏し、頭を数度打ったこともあり、その場でだらしなく気絶してしまった。


「御領主様!」


 一連のロアンの言動を見ていたイザベラは、思わず声をあげた。

 男に襲われていたという恐怖の解放からか、生娘がはしたないと思う気持ちも振り払い、ロアンの背に抱きついた。


「ありがとうございます…ありがとうございます…」

「イザベラ。私は、お前に感謝をされることなど一生無い男だ。結局、あの男が言ったように、私はあの男と同じ穴の狢だった」

「いえ、御領主様は違います…御領主様は、私の…いえ、領民の事を考えています…」

「そうだな。もう、お前達に悲しい思いはさせたくない。私は惰弱な領主から生まれ変わるつもりだ」

「ロアン様なら…必ずやってくれると信じています」

「うむ。すぐに領主として新たな触れを出す。イザベラ、お前もこんな息苦しい場に、いつまでも居たくないだろう。早くご両親の居る街へ帰りなさい。そして、本当に愛せるものを見つけて、幸せになってくれ」

「いえ…私は…」


 ロアンは、背に抱きつくイザベラの手を優しく解き放つと、その場を振り返って、イザベラの顔を見、その強い意思をもった生娘の顔を覗き込んだ。

 窓から差し込む日差しの影が、赤毛のイザベラの顔を隠す。

 ロアンは気付かなかったが、イザベラの目には、薄らと涙が溜まっていた。悲しみや喜びの混じったイザベラの目元に溜まる涙が何を意味していたのか、その時の誰にもわからなかった。


 少し後、どこか悲しげに手を振る生娘イザベラと別れたロアンは、自分の血のついたベッドシーツを持ち、自分の構想した初夜権の改革を胸に秘め、政務を行うために、領主の屋敷へと歩を進めた。


 ロアンがその日に打ち出した改革は、教会からの初夜権の買い上げだった。

 ロアン自らが王から賜った金銀財宝、その私財を投げ打ち、すべての権利を買い上げた。教会の者の中には、性欲を満たす材料を失い、不平不満を言い、妻子を持っていながら毎晩、初夜権の儀式に生娘を呼ぶロアンに向けて『好色領主』などと陰口を叩くものもいた。だが、ロアンは領内の生娘達に指一本触れなかった。その代わり、生娘達に一つの物を持たせて帰らせた。


 そう、生娘たちの手の甲に小さな傷をつけ、血のついたベッドシーツを『非処女の証』として持ち帰らせたのだ。


 そして、一つの報を領内に触れ回った。

 聖職につく者が、処女でない者を姦淫した場合、即刻極刑(死刑)に処す、と。


 この報は、教会という権力に虐げられていた市民、特にまだ相手を持たない生娘達を喜ばせた。

 今まで凝り固まっていた風潮を、逆手に取るようなこの改革は、少なからず教会という当時の絶対権力に対して、強い姿勢で取り組む領主ロアンの姿を、領民達の鮮やかに印象付けた。報せはロアンの治める領地を越え、教会に虐げられていた他領の人々も、ロアンの噂を聞き、進んでロアンの領国へ移り住むようになった。


 初夜権というシステムがあるからと、愛するものが居るのに結婚出来ず、心に夢を留めていた娘達は、この領主ロアンの話をすでに体験した他の者から聞き、続々と結婚する事を公表し、その喜びを領主ロアンに伝えた。


 そして、十年後。

 教会に睨まれ、妻子達に疎ましく思われながらも、領地の繁栄と発展と、領民の幸福を成功させたロアンは、自らは貧しくなるばかりだったが、非常に充足する毎日を送っていた。


 夕暮れに染まった城下で、楽しげに生娘達が話し合う姿。

 生娘達の幸せな振る舞いを、屋敷の窓から遠くで見ていたロアンは、ふと、あのイザベラとの一晩の記憶を思い出していた。


 「イザベラ、お前は今もどこかで、幸せに暮らしているだろうか」


 そう言いながら、窓の外から吹きぬける風に、どこか懐かしみを感じるロアン。

 毎日を忙しい政務に追われ、領地の教会との睨みあいを続け、領民達の幸せを考えながら、領主という重い肩の荷を背負い、遠くを見つめるロアン=ブリティッシュに、かつての惰弱な領主の影は無かった。



 しかし、彼の思い出の人物、イザベラは、もうこの世に居なかった。

 元々体は丈夫なほうで無かったので、たちの悪い流行り病にかかり、幸せとは正反対の苦痛を味わいながら、その短い生涯を閉じたのだ。

 彼女は生前、「愛している人がいる」と良く知る周りの者に話したことがあった。

 だが、相手が居るのにも関わらず、彼女は結婚をしようとはしなかった。

 きっと強い心を持つ彼女の事だ、未だに初夜権を恐れてのことだろう、と周りの人は実しやかな噂を立てたが、結局イザベラの愛した相手が誰なのかは、彼女の生涯の終わりと同時に、永遠の謎に包まれた。

 彼女を弔った葬儀屋が言うには、彼女は死ぬまで生娘のままであったという話だ。

 


【了】



申し遅れましたが、これは歴史的観点に基づいたフィクションであり、実話ではありません。

この話の中では断定していますが、初夜権というシステムが、歴史的に存在していたかどうかは未だあやふやな部分もあります。が、当時の世相を考えると、これに近いものがあったのではないかと、個人的に想像をめぐらせて書いています。

お目汚し失礼致しました。

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― 新着の感想 ―
[一言] どうも、読ませていただきました。 初夜権ってなんだか、すごいネタですね。最初少し悶々としてしまいました、すいません。 それはいいとして、ロアンの決断後の改革が読んでいて爽快でした。 『非処女…
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