第8話:初めての嫉妬。
私は、このカエルの身体のとってはとてつもなく巨大に映る、高くそびえる塔をひたすら登っていた。
頼れるのは、この粘液のついた己の掌だけ。
命綱などなにもないのだ。
ここで落ちたら確実に『死』が待っていることであろう。
私は疲労で震え痛みが走る腕を必死に伸ばし、己を叱咤しながら一歩一歩確実に塔を登り進めた。
この塔の主が魔女を知る者、もしくは魔女本人であれば、この呪いのごとき強力な魔法を解くなにか別の方法を知っているかもしれない。
カリンは純粋無垢そのものなのだ。
穢れを知らない清く美しいカリンの心も身体も、何人たりとも己の都合のためだけに汚すことは許されない。
それは結婚の約束をした自分であっても、だ。
欲望のまま貪り、傷をつけてでも奪おうとする……、そこに愛などない。
愛しいカリンといち早く結ばれたいと思うのは男の性ではあるが、『契り』とは、お互いがそれを望んでいるからこそ初めて成立する、正しい知識を持ってどれだけ深く愛しているかを確認しあう、愛あってこその儀式ともいえる。
愛があるからこそ、お互いが達した喜びもひとしおとなるのではないか。
(経験したことがないので、想像ではあるが。)
10年もの間、ただ黙って傍で見守り続けた大切なカリンの愛しい笑顔を、恐怖に怯えさせたり、苦痛にゆがませることは、死に値するほどの罪だ。
カリンをこの手で抱けるその日を夢に見るほど待ち望んでいた。
とはいえ、すでに10年も耐え抜いてきた私なのだ。
今さら焦る必要はない。
そんなことを考えていたら、ようやく窓にたどり着いた。
ホッとため息をつく。
窓のヘリに腰掛けふと視線を下すと、自分が登ってきた垂直な壁面と高さを強烈に感じ、ぶるっと震えが起こり、めまいがした。
「危ない、危ない……」
よろめいた拍子に下へ落ちてしまってはひとたまりもないので、私は塔内へとくるりと向き直った。
「!!!」
塔の中の壁は一面、ぐるりと部屋を囲む形で、床から天井にまで繋がる本棚になっていた。
そこにはきれいに整列して配置された、圧倒されるほどの物量の本があった。
中には読めない文字のものもあり、外国のものであろう難しい本であることだけがわかった。
その部屋の中央にも無数の本が積まれていて、散らばる本に囲まれた中心に、まるで絵から抜け出たのではないかと思うほどに、いや、絵画ですら見かけたことがないほどに、現実には存在しがたい、輝くばかりに美しい人が立っていた。
「……………」
白い布を軽く巻いただけの服の間からは、背丈は180cmほどはないが長身にすらりと伸びた華奢な手足があらわになっており、一度も日差しを浴びたこともなさそうな透き通るように白い肌、澄みきった高い空を思わせる色素の薄いブルーの瞳、血色の良いうるっとした艶のある愛らしい唇。
神にも近いのではないかと思わせる、どこをとっても圧倒的な『美』以外の言葉が見当たらない。
その美しき塔の住人は、どのくらいあるのかも計り知れないほどのこれまた長く美しい金の髪を持っており、その金の髪の隙間から、驚きのあまりなのか、まん丸に広げた目が垣間見えていた。
そしてその口はぽかんと開いていた。
口をぽかんと開けていたのは、私も同じだった。
この世のものとは思えないその美しさには、誰でもこのような反応となったことだろう。
「誰!?」
ハッとした表情になり、その美しい人は口を開いた。
そして真っ直ぐに私のほうに歩み寄る。
「本で見たことがある…… あなたはカエルという生き物?」
そしておもむろに私の首根っこをむんずと掴み上げ、左の掌に乗せると、興味津々な表情であちこち弄りだした。
「へえ……、どこもかしこもぷにぷにしてる! カエルってこういう感触なんだ」
「ここはどうなっているんだろう……? 人間と同じなのかな……?」
「あっ……、な、なにをする……!」
私の抵抗空しく、細く均整の取れた美しい指先で私を小突いて身体を裏返すと、右の指の腹で私の身体を……下腹部に至るまでを摩り始めた。
「あっ……、ソ、ソコは……ダメ…… あっ……あああああっ……!」
(ああカリン、抗えない私を許してくれ……)
「!?」
「あなた……、もしかして人間の言葉が話せるの? よかったら話し相手になってくれないかな?」
「実は……」
――ルカ(仮)……カエルを待つこと2時間は経っただろうか。
塔の中では一体なにが起こっているのだろう。
まさか、カエルの身になにかあったのでは……。
不安に思い立ち上がったその時、突然、馬に乗り疾走してくる騎士が目の前でピタリと立ち止まった。
『こんなところを……、『禁戎の森』を人が通るだなんて……』
驚き慄いていると、その騎士は銀の長い髪をなびかせ、細く鋭い冷ややかな目つきで馬上から見下ろしながら、わたしに話しかけてきた。
「おいそこの娘」
「この辺で、このいかにも利発で高貴そうで麗しく美しい人相のお方を見かけなかったか?」
そう言うと騎士は、懐から1枚の絵を取り出した。
そこには、ものすごいイケメンに描かれた……、背後に薔薇とハートをふんだんに描かれた……、どう見てもルカと思われる人物の絵があった。
「!?」
(えっ……)
(ものすごい盛ってるけど…… これはもしや…… ルカ……!?)
(ルカを捜しているということは……、魔女の手下なのかも?)
(どうしよう……。 危険かもしれないけれど……、なにか聞き出せるかも……)
わたしは頭を巡らせ、一か八かで、なにか聞き出せるかもしれないほうに賭けてみることにした。
「あなたはどなた? どこからいらっしゃったの?」
「そしてこれ……あなたが描いたの? すっごく絵がお上手なのね」
「しかも、『ものっすごいイケメン』ね。 この『いかにも利発で高貴そうで麗しく美しい人相のお方』はどなたなのかしら?」
騎士はわたしの言葉に気を良くしたのか、胸を張り、ドヤっとも言わんばかりに声を上げ語り始めた。
「聞いて驚け、そこの娘よ。 私は東の国の騎士ハインリヒである」
「私の絵が上手いわけではない……。 モデルが良いのだ!」
フフンとばかりに鼻息を荒くし、騎士は続けた。
「このお方は10年前に行方不明になってしまった、私が仕える、ルカ・クラウス・フォン・フィンザー王子……」
「……の、10年後を、私が想像して描いたものなのだ」
騎士は馬から降り、さらにドヤっとなりながら、わたしの顔面にその絵を突き付けてきた。
改めてよく見ると、手の甲にはあの『十字の傷』も描かれていた。
紛れもない、これはルカの絵だ。
(やっぱりルカを知っている人のようね……)
(悪い人ではなさそうだけど……、ちょっと変な人かも……)
(だって、ルカの10年後の想像力が怖いくらいたくましいわ……)
に、してもだ。
(もう少しなにか聞き出せないかしら?)
ルカを知る者に出会えた。
この機会、逃すわけにはいかない。
「え……と、ハインリヒさん。 薔薇はわかるけど、このハートはなにかしら……?」
わたしは話を繋ごうと必死だった。
「娘よ、よくぞ聞いてくれた!」
「それは私のルカ王子への、惜しみない愛のあかしだ!忠誠心だ!」
そう言うと、騎士ハインリヒは体を覆っていた真っ赤なマントをバサッと広げ、そして脱ぎ捨てた。
あらわになった半裸の上半身……。
しかし彼の素肌には無数の革のベルトが食い込んでおり、その左胸の上には心臓を守るため覆っているのか胸当てがされていて、それを3つの屈強なタガによって留めているようだった。
そして騎士ハインリヒは、突然苦悶の表情を浮かべ、涙を流しながら、大きな声で叫んだ。
「見よ!」
あまりの声の大きさに、思わずわたしはビクッと肩をすくめる。
「これは王子が突然行方不明となり、悲しみのため心が張り裂けて破裂しないように、心臓のまわりに3本の鉄の輪をはめたのだ!」
感極まってしまったのか、あああと声を上げながら、騎士ハインリヒはその場に泣き崩れてしまった。
「こうしている間にも、悲しみでタガが外れてしまいそうなのだ……。 うっ!」
その瞬間にバチンッ!とすごい音がして、鉄のタガが一本外れ飛んでいった。
騎士ハインリヒは胸を押さえ、その場に苦しそうに倒れ込んでしまった。
「だ、大丈夫……? ハインリヒさん……」
(いやこれ…… 悪い人ではなくても、かなり……だいぶ変な人かもしれない……)
(どうしよう…… もしかしたら、ルカ(仮)に会わせるのもちょっとヤバいのかもしれない……)
わたしは悩んだ末、一旦彼はどこかに行ってもらったほうがいいような気がして、こう言ってみることにした。
「ものっすごいイケメン王子の噂なら、わたしのいた南の国で聞いたわ(嘘ではない)」
地面に突っ伏してしまっていた騎士ハインリヒは、その言葉を聞くとビクッとなり、ガバッと一瞬で起き上がった。
「娘よ、それは本当か⁉」
土色をしていた騎士ハインリヒの顔色はみるみる良くなってゆき、目にも光が宿り始めた。
騎士ハインリヒは、馬に吊り下げてある荷物の袋から『王子命』と書いた鉢巻きを取り出し、額に巻いてギュッと力強く締め、胸のタガも嵌め直し、キッと遠くを見据えた。
「娘、よい情報ご苦労であった」
そう言うと、さらに袋からなにかを取り出した。
「褒美として、お前にこれを授けよう」
わたしは、騎士ハインリヒが『王子のブロマイド』と呼んでいたハインリヒ手描きの絵を数枚を受け取り、ペンライトという光る棒と『こっち向いて』と書かれたうちわを握らされ、ピンクのてらてらの生地でできた法被を着せられた。
騎士ハインリヒは、颯爽と馬にまたがると、意気揚々としながら猛ダッシュで去っていった。
ただ、南の国はそっちではない。
しばらくすると、カエルがペタペタと降りてきた。
「!?」
私の姿を見て、カエルのルカ(仮)は驚愕した様子だった。
「カ、カリン!? なんだその格好は……」
「ええ、たった今新たな変態が現れて……(かくかくしかじか)」
「ん? 『新たな』とは?」
わたしはカエルの質問を無視して続けた。
「その人は『東の国の騎士ハインリヒ』と名乗っていたわ」
「!!」
「ハインリヒ……だ……と……!? それは私直属の騎士隊長かもしれないな……」
「やっぱりルカと近い人だったのね。 引き止めておいたほうがよかったのかしら……」
わたしの困惑や後悔をよそに、カエルはこう返してきた。
「ハインリヒが南の国へ行ったのはわかった。 それだけで十分だ。 やつのことは後回しにしよう……」
さらにカエルは小さな声で、こうも続けた。
「やつがいるとややこしくなるしな……」
ハインリヒの登場により、ずいぶんと話が逸れてしまったようだった。
「それで、塔の中の方はどうでしたの?」
気を取り直して、わたしは話を本題に戻す。
「カリンよ、この塔はやはり魔女が建てたものだった」
「!」
「いったいなんの目的で……?」
「話せば長い話なのだ……。 順を追って話そう」
「まず、この塔の中には、この世に二人といないであろう神とも見紛うばかりに美しい人が、孤独にくらしていた……」
チクン。
突然わたしの胸に小さな痛みが起こった。
なんだろう。
カエル……ルカ(仮)が、塔の中の人を『美しい人』と例えるたびに、わたしの胸の中に小さな荊の棘が次々と芽吹いたかのような痛みが起こった。




