ディレッタンティズム(1/5)
アルフレド・ベネディクト・ベラスコとはどのような人物か。
彼の初恋は6歳のころ。
相手は屋敷を訪れていた科学者の女性である。科学の「か」の字も信じない祖父や父との会話に辟易しきっていた彼にとって、物理や地球科学に精通していた彼女は、女神にも等しい存在だった。一月後、彼女が都に帰ってしまうまで、彼はひと時もそばを離れなかったらしい。——それだけを聞けば、彼にしてはまともな初恋だと思うだろう。だが、次の恋の相手は、カモノハシだった。
8歳のころ、科学庁で研究用に飼育されているカモノハシを見た彼は、まるで電撃が走ったようなショックを受けた。哺乳類でありながら卵を産み、毒爪や水かきまで持ったこの平べったい生き物はいったい何なのか。非常に心惹かれた彼は、父親と施設の職員に頼み込んで、カモノハシと同じケージの中で二晩を過ごしたらしい。また、次の恋の相手は、精巧な人体模型だった。10歳のころ、人体の内部を正確に再現したそれを見た彼は、一目で心を奪われた。当然のように父親に買ってくれと頼みこんだのだが、自他共に認める吝嗇家である父はその要請を一蹴した。あのときほど世を儚んだことは人生の中に無いと彼は語る。
次の恋は——と彼は語ったが、彼はそもそも恋愛というものの意味を理解しているのだろうか。 尋ねてみると、彼にとって恋とは、屋敷に出入りしていた哲学者が語った「相手とただひたすらに離れたくないと思う感情」のことらしい。なるほど、それならば彼は恋多き男になれるのかもしれない。——相手が人間であることはほとんど無いだろうが。
ちなみに。
それを恋と言うならば、私も今、恋をしている。
***
何だか調子が狂う。
何となくそう考えてしまって、私はぶるぶると首を横に振った。
いつの間にか、鎖の重さが自然になってしまっていたらしい。両手両足が自由になると、何だか妙に違和感を覚えるから困ったものである。地に足がついていないような、どこか不安定でふわふわとした感覚。心細ささえ感じてしまう自分に、もどかしいものを感じていた。
「何してるんだろ、私」
無駄に広い廊下をあても無く歩きながら、私は呟く。
今までは鎖で繋がれていたため「仕方なく」一緒にいた。だが、それを外された今、私はどうすれば良いのだろう。ベネディクトは食事のとき以外はほとんど私のことを呼び出さなかったし、だからといって自分の方からベネディクトを訪ねる用件などそうは無い。また、意を決してベネディクトの部屋に顔を出したところで、彼は論文を読んだまま顔を上げもしなかったり、相槌すら返ってこなかったりするのだ。
——もちろん、彼が話をしたい時は話をするし、彼が何かをしたいと思えば付き合わされることもある。これまで通りといえばこれまで通りの気分屋な彼なのだが、それでもどこか距離を感じてしまうのは、私の行動が制限されていないからだろうか。鎖で繋がれていれば、一緒にいることに何の疑問も抱かなかった。だが、そうでなければ、相槌すらうってくれない相手に対し、私はどんな顔をしていれば良いのだろう。
じっと部屋にいるのも何だか空しいし、だからといって屋敷を出て行く気にもなれない。お陰でベネディクトの体調が回復してからのこの一週間というもの、朝から夜までこうして屋敷を歩き回るはめになっていた。
「魔女の誇りはどこに行ったのかしら」
人間に鎖で繋がれているうちに、どうもそれに慣れすぎてしまったらしい。ベネディクトの部屋に繋がれていた頃が無性に懐かしく思えるあたり、かなりの重症である。いったい私の自由はどこにいったのだろう。これでは鎖に繋がれていたときよりも、この屋敷に——いや、ベネディクトに——繋がれている。
だいたい彼も、体調が悪かったときにはそばにいて欲しいなんて言ったくせに、体調が回復してからは私のことなど忘れてしまったかのように、平然と生活している。彼にとって、私は何だったのだろう。特別な存在なのかもしれないと思ったのは、単なる勘違いだったのか。
ぐるぐると回り続ける思考と一緒に、屋敷の中をぐるぐると歩き回る。そうしているうちに、ふと、部屋の中からベネディクトの声が聞こえてきた。
「随分と珍しい色合いだな」
ドアが開け放たれた二階の応接間。
応接間というくらいだから客と会うときに使う部屋なのだが、ベネディクトがそこを使うのは稀だった。彼が人と会うときは、大抵は階段近くにあるもう一つの応接間を使う。玄関と階段に近いそこは、客人を追い帰すのに都合が良いし、そうでなくともあまり屋敷の奥にまで他人を上げたくないのだと、他でもない彼自身が語っていた。
何となく気になって、私は足を進める。すると、中から女性の声が聞こえてきて、思わずどきりとした。
「変わってるでしょう。よく言われるの」
「そうだろうな」
いつになく楽しげに聞こえる、ベネディクトの声音。私は、気づかれないようにそっと、部屋をのぞき込んだ。
向かい合うように配置されたソファに、ベネディクトと一人の女性が座っている。女性の方の顔は見えない。私からは髪に隠れた横顔しか窺えないが、美しい女性であることは間違いないと思う。後姿からも十分な色香が漂っており、自然と目が釘付けられる。彼女は、テーブルから身を乗り出すようにしてベネディクトに顔を寄せていた。その体勢は、内緒の話をしているようにも、彼を誘惑、もしくは挑発しているようにも見える。
体に沿った黒のパンツスーツは、女を知的にも見せるが、それ以上に女性らしさを嫌というほど強調しているようにも見えた。小さな足には、これでもかと言うほど高いハイヒール。肌の色は雪のように白く、テーブルに垂れる金髪もはっとするほど淡い。
「貴女のような方が、私に何の用かな?」
ベネディクトは女性をまっすぐに見返すと、何気ない仕草で彼女の髪に触れた。金糸のような美しい髪が、彼の指の間を流れ落ちる。髪に指を絡ませるベネディクトの表情が、いつになく楽しそうに見えて、知らず私は息を止めていた。女性に対して、彼はあんな顔をするのだろうか。
見てはいけないものを見ている気がして、目を逸らそうとする。が、どうしても足は動かない。
二人の距離は近い。
二人の間に流れる空気は、まるで止まっているかのように濃密である。このままキスでもするのではないかと思うような雰囲気に、私は指先が冷えるのを感じていた。女性がベネディクトを訪ねてくることは珍しいことではない。また、ベネディクトが女性を呼ぶことも珍しくない。——だが、この雰囲気は何だ。
「一度、お会いしてみたいと思っていたの」
「それは光栄だな」
ベネディクトらしくない、丁寧な返答。いったい、どうしたというのだろう。
そのとき、女性のあごのラインがすっと動いた。振り返った視線が、何気ない様子で私を射る。——次の瞬間、私の思考が止まった。
我に返ったときには、声を上げて部屋に飛び込んでいた。
「何やってるの!」
ベネディクトの顔が、少しだけ傾げられるのが見えた。だが、女が浮かべている表情は何も変わらない。赤い唇の端を微かに持ち上げたまま、どこか楽しそうな顔で私を見ている。その顔にはまっているのは、決して人間には持ちえない黒い瞳。
「あら、ソフィア。とっても久しぶりね。元気にしていた?」




