スーフィズム(4/4)
ベネディクトは横向きに寝返りをうってから、激しく咳き込んだ。
くの字型に体を折り、苦しそうに息をする。思わず私が手を伸ばそうとするより早く、部屋の外にいた医師たちが駆け込んできた。彼らに突き飛ばされる勢いで椅子からどかされた私は、ただ呆然と医師たちとベネディクトを見下ろすことしか出来ない。
「大丈夫なの……?」
誰にともなく呟いた言葉は、やがて呼吸を整えたベネディクトによって拾われた。
「見ての通りだ」
見ての通り大丈夫だと言いたいのか、見ての通り大丈夫じゃないと言いたいのか。ぜんぜん分からない。彼は震える手で医師たちを追い払った。青い顔をその手で覆うと、苦しそうに目を瞑る。喋りかけられる雰囲気ではなかったが、私はおとなしく廊下に戻っていく医師たちを見送って言った。
「せっかく医者がいるんだから、追い出さなくても」
「誰もいない方が楽で良い」
ベネディクトの言葉に、私は軽く目を伏せた。
基本的に彼は厭人的な人間だ。医者だろうがなんだろうが、他人が傍にいると余計に体調が悪くなるのかもしれない。私も部屋を出た方が良いのだろう。そう考えていると、彼の方から口を開かれた。
「ソフィアを買ったことを後悔しているというのは本当だ」
「……うるさいんでしょ、分かってるわ。もう出て行くから」
「その必要は無い」
「え?」
「まだ、屋敷を出て行くつもりがないなら、座ってくれ」
私は少しだけためらったが、そう言われて突っ立っているわけにもいかない。ゆっくりと彼の前に腰掛けた。だが、彼は目を瞑ったまま、それ以上の口を開こうとはしなかった。仕方なく、私は自分から話を戻した。
「私の何が後悔なのよ」
彼の返答は無かった。もしかして、眠ってしまったのだろうか。それとも、声を出すことも出来ないくらいに体が辛いのだろうか。私が耐え切れずにもう一度口を開こうとしたとき、彼がゆっくりと言った。
「私は死ぬことも楽しみなんだ。死んでいくときの体の状態や、死の直前での自分の心情、それから死ぬ瞬間。人間は死ぬときに何を見て、死んでから何を見るのか。こればかりは自分で体験してみないと分からないからな。非常に興味がある」
彼らしいと言うべきなのか、悪趣味であると言うべきなのか。何にせよ、自分の死すら興味の対象であるらしい彼の気持ちなど、私にはさっぱり理解できなかった。そして、やはり何が後悔なのか分からない。彼は眠っているような表情のまま、続けた。
「それなのに、ソフィアのことが気にかかって困っている」
「……なにそれ」
「私が死んだ後、ソフィアがどうなるのは分からないからな。一応、鎖を外してくれるようにと頼んでいるんだが、私が死んだ後に執事が遺言を果たしてくれる保証などないだろう。それに、無事に外に出られたところで、ソフィアが身を立てる手段を持っているようには見えないし、そうでなくとも、屋敷から出たところで、このあたりは魔女に対する風当たりは強いからな。多少の金を持ち出してくれれば良いが、屋敷の人間や役人がそれを許すかは分からないし、そもそもソフィアがそこまでの知恵を働かせるとも思えない」
私のことを心配してくれていたのだろうか。最後の一言は非常に彼らしい失礼な台詞だが、それ以外はおよそ彼の口から出ているとは思えない言葉だった。私は驚いて、目を瞬かせる。
「いつ死んでも心残りは無いはずだったんだがな。これでは、死ぬのに集中できない」
「そんなものに集中してどうするのよ!」
「死ねるのは一度だけだ。楽しまなければもったいないだろう」
変人だ変人だと思っていたが、生死がかかった状況でもそんな台詞を吐けるあたり、本物の変人である。私は無性に、その頬をひっぱたきたい衝動と、その手を握りたい衝動に駆られた。自分でもわけの分からない感情。それを抑えるように、私は両掌を組み合わせた。
「だから、私を追い出したかったわけ」
ベネディクトが死んだとき、私が一人で屋敷を放り出されることを心配しているくせに、その心配をしたくないから私を一人で屋敷から放り出そうとしているのだ。本末転倒なのではないだろうか。
「そうだな」
「……なにそれ」
「なんだろうな。自分でも分からない」
そう言って、彼は小さく笑った。もしかしたら、自分の感情がつかめないと言うことが、彼にとっては面白いことなのかもしれない。そんな彼に対し、私は馬鹿の一つ覚えみたいに、なにそれ、と繰り返した。
彼は熱い手のひらで私の手首を掴んだ。
「昨日は手放しても良い気分だったが、今日は離したくないな」
ぎゅっと力を入れて握られた手首が熱い。
彼の生を伝える熱は、手首だけでなく私の全身を焦がす。
この屋敷につれてこられてから、寂しいなんて感情を忘れていた。私はベネディクトに買われた魔女だが、今は素直に思う。私はベネディクトを心配している。一人になるのが怖い。ベネディクトが死ぬのが怖い。ベネディクトの死を受け入れるのが怖い。だから、このまま屋敷を出てしまおうか、とそんな気持ちは今も少しだけはある。だが、それはできない。
魔女は、誇り高く、そして強くなければならないのだと大伯母は言っていた。愛する人と同じ時間を生きられなくても、愛する人を失っても、それでも残された長い時間を生きていかなければならないのだから。
彼は眠ってしまっても、私の手を握ったままだった。
一人で過ごす長い時間が、嫌でも二人で過ごしてきた時間を思い出させる。この半年強という短いとも長いとも言える付き合いの中で、ベネディクトが見せた表情や言葉が、振り払っても振り払っても浮かんできた。
——私はこのときほど、何かに祈りたいと思ったことは無い。
**
それから三日後。
彼はけろりとした顔で言った。
「たまに思うが、私は意外と長生きするのではないかな」
「死ぬのが楽しみだなんて言うから、神様に嫌がらせされてるんでしょ」
「それは妙だな。私ほど神に愛された人間はいないと良く言われるんだが」
平然と言い放った彼に、私は顔をしかめて見せる。
相変わらずベッドに横になっているが、顔色は別人のように良くなっている。熱もすっかり下がっており、すっかりいつものベネディクトである。いや、死にそうだと言っているときも全く変わらずベネディクトではあったが。
「憎まれっ子世にはばかるって言葉知ってる?」
「ソフィアは自分の寿命を知っているか?」
「……」
私は返す言葉を封じられ、ため息をついた。
ベネディクトは、まだ私を鎖に繋ごうとはしない。いつかそのつもりなのか、単に忘れているだけなのか、それとももうその気は無いのか分からない。ただ、彼の体調は回復したが、引っ叩いて屋敷を出て行く気にはなれなかった。
——それを、いつか私は後悔することになるのだろうか。
人と共に生きるということは、必ず迎える別れを待つということでもある。




