スーフィズム(3/4)
部屋の前でたむろしてる医者を捕まえて聞いてみたが、彼の体調が悪いのは間違いないらしい。熱は一週間以上下がっていないし、寝台から体を起こせないと言うことも事実らしい。ただし、死ぬかどうかなど分からない、と彼らは言った。幼い頃からベネディクトの体が弱いというのも事実らしく、こうした状態になるのも度々のことらしい。
私は一晩、自分の部屋で過ごすことにした。
だが、彼の気はいつ変わるか知れない。明日になればまた、私を鎖を繋ぐかもしれないし、明日になれば魔女の血を万能薬代わりに使うなどとふざけた事を言い出すかもしれない。逃げるなら今である。屋敷の人間は干渉するなと言われているのだろうし、今なら簡単に外に出ることが出来る。これまで何度も外に出たいと思っていたはずではないか。
——だが、外に出れば、二度と屋敷には戻れないだろう。彼と二度と会うこともなくなる。そうでなくとも、彼の命はいつ尽きるとも知れないのだ。いまここで屋敷を出てしまって良いのだろうか。そんなことを考えながら、私は自分自身の感情が分からずに枕に顔を埋めた。自分を鎖で繋いでいた人間など、二度と会えなくても良いではないか。それなのに、私は未だ屋敷に繋がれている。
それに、彼が本当に死んでしまうのだとしたら。逃げ出すなら今しかない、とも思う。ここで屋敷を飛び出し、彼のことなど何も分からない土地に戻れば良いのだ。そしたら、彼が死ぬなどという馬鹿げた現実を突きつけられずに済む。どうせ、今でなくても、人間である彼が寿命の長い自分よりも先に死ぬことは明らかなのだ。それならいっそここを逃げ出せば。そうすれば、彼の死を見ずに済む。これ以上、彼の存在に縛られずに済む。
逃げ出すなら今だ。だが、その踏ん切りがつかない。
どれだけ悩んでいただろう。私はどうにか一つの結論を出した。
屋敷を出るとすれば、彼の体調が良くなってから。今まで鎖に繋がれていた仕返しに頬をひっぱたいてから、である。ここで逃げるなんて、魔女の誇りが許さない。——自分でもそれが本心だとは思えなかったが、そうとでも考えなければ、自分の行動が決められなかったのだ。
翌朝、太陽が昇るのをじりじりと待ってから、私は彼の部屋を訪ねた。
廊下にいる護衛や医師たちが昨日と変わらない様子なのを見て、まず安心する。そして部屋の中の彼の姿が昨日どおりである様子を見て、ほっと息を吐いた。最近の彼は、姿を見るたびに「痩せた」「やつれた」と思ってしまっていたのだ。だが、今日のところは昨日からさほど悪化していないように見える。
「ちゃんと、生きてるじゃない」
「お陰さまで」
私の言葉に、彼はやはり目を瞑ったまま答えた。眠っているかとも思っていたのだが、返事が返ってきたのはすぐだった。彼はゆっくりと目を開ける。
「出て行かないのか?」
「そんなに、私のことを追い出したいの?」
「そういうわけではないが、昨日はソフィアのことを手放してもいいという気分だったんだ。明日は鎖に繋ぎたくなるかもしれない。出て行く気なら、私の気が変わらないうちが良い」
力の無い声で言われた言葉だったが、彼の表情は真剣なものに見えた。
何を言えば良いのか分からずに、私は無言で枕のそばに落ちていたタオルを拾う。額に乗せていたものが落ちたのだろう。溜めてあった洗面器の水でタオルを濡らすと、慎重に彼の額に乗せた。彼はそれに合わせて瞳を閉じ、代わりに口を開いた。
「そこでぼうっと突っ立っているくらいなら、座ったらどうだ?」
彼の示した椅子を動かし、私は彼の枕元に座る。
眠ってしまったのだろうか。ベネディクトはずっと瞳を閉じたまま、一言も発しようとはしなかった。私も言葉を出さないまま、じっと彼の顔を見下ろす。青白い彼の顔を見ていると、死んでしまった大伯母さんのことを思い出した。
母の代わりに私を育ててくれた大伯母は、既に二百歳に近い大魔女だった。寿命だったのだろう。眠るように死んだ大伯母の顔は最期までとても安らかで、血の気の抜けた顔の青さだけが嘘のように見えた。
大伯母が死んだのは去年のことだった。
ずっと二人で暮らしていた私は、大伯母が死んでからは彼女の家で一人、暮らした。住んでいたのは小さな村で、元々自給自足に近い生活をしていたため、何とか生きていけていた。生きていくことは出来ていたのだ。だが、それでは足りなかった。ぽっかりと空いてしまった穴が大きすぎて、その中に吹き込む風の冷たさに耐えきれなかったのだ。
同じ村に住む人間たちはみな優しかったが、それは魔女という種族に対する敬いであり、優しさだった。彼らは私との間に一線を引いていたからこそ、暖かかったのだ。私は同じ村人ではなく、常に客人なのである。大伯母が死んでからそれに気づいた。——いや、一人でいることの寂しさからそう錯覚してしまっただけかもしれない。
このときほど母に会いたいと思ったことはなかったが、母の居場所など分かるはずがない。母に大伯母が死んだことを伝えることすら出来ない。彼女はいつも、好きなときに一方的に会いに来るだけなのだ。このときほど、母を嫌いになったことはない。
ある日、私は村を出ることにした。
土地によって魔女は嫌われ疎まれる存在であることは知っていたし、一部の人間たちの間で魔女が高値で取引されていると言うことも知っていた。が、私は何かを変えずにはいられなかったのだ。
私は隣の町に行って、一月ほど住み込みで働いた。多少のお金が貯まったら、またその隣の村へと移動する。そんな生活を半年ほど行っただろうか。そんな中で、魔女を知らない人間も多いということを知った。人間には決していない黒目黒髪という容姿を見ても、珍しい色だな、としか思わない人間が大半だった。お陰で働く場所にはさほど困らなかったし、自分たちとは違う生き物だと、人間たちに一線を引かれることも少なくなった。
——だが、それは田舎だったからなのだろう。うっかりと大きな街に出た私は、あっさり人間に捕まった。聞くところによると、ある程度の教養がある人間ならば、魔女の存在を知っていても当然らしい。
売られた私を買ったのが、ベネディクトだった。それからは、ずっとこの屋敷に繋がれている。




