96.夜明け 1
目覚めは痛みによってもたらされた。
後頭部が痛い。
恋歌は呻きながらその痛む部分に手をやり、頭が何か硬いものに当たっているのを確認した。
これは何だろう。
それを心の中で問いかける。
視界は暗い。
もう蝋燭は消えてしまったのだろう。しっかりとした光はひとつもない。
だが、全く見えないわけでもなかった。障子が淡く青い輝きを持っている。雨戸の隙間から外の光が漏れてきているのだろう。暗闇に慣れた目は、朧気ながらも視界を取り戻している。
恋歌は周囲を見渡した。
ぼんやりと視界に映る光景が、意識を失う前の記憶と一致し始める。
ここは恋歌の部屋の床の間だ。
そうすると、恋歌が触れているのは、床柱なのだろう。
恋歌はあの閃光と爆風に吹き飛ばされて、ここに頭をぶつけた。そして気を失ったのだ。
それにしても痛い。
最近、こういう目覚めが多いような気がする。たぶん、これは太夫やら並女郎やらの等級に関係なく、郭の女の目覚めとして、かなり「稀」で「望ましくない」目覚め方だと思う。
そのことに眉をしかめようとして、既に自分が痛みに顔をしかめていたことに気づく。
こんな顔ばかりしていては、きっと早く皺ができるに違いない。
そう考えて更に顔をしかめようとして、流石にやめる。
くしゃくしゃにしすぎた顔は、なんだか笑顔と区別がつかなくなるような気がした。
同時に視界の端で高村晋輔も同じように呻きながら上体を起こそうとしていた。
起こそうとして。
起きて。
そこで何かを思い出したように、慌てて周囲を見渡す。
忘れてはいけない何かを思い出したかのように。
その「忘れてはいけないもの」が何か、もちろん、恋歌にもわかっている。
善次郎は……いない。
気を失う前の自分が最後に確認したことだ。
それだけは確認せずにはいられなかった。
強引に意識を断ち切られた高村晋輔よりも少しだけ長く意識を保っていた恋歌は、その分善次郎の所在を確認する時間が合った。少なくとも目に映る範囲の中で、あの男の姿が見えないことを確認できた。
晋輔も、あの危険な男が少なくともすぐそばにいないことは納得できたらしい。
納得し、安堵したのだろう。
その体から力が抜け、一度立ち上がった体が、がっくりと膝をついた。
「晋輔?」
「……大丈夫だ」
晋輔は立ち上がらない。
畳に片膝をついたまま、動きを止める。
体が冷えたトカゲが太陽の下で体を温めるように、晋輔は自分の体に力が戻ってくるのを待っていた。
それは、彼がこの場の状況を「安全」だと判断した証拠でもあるのだろう。
恋歌はそう思うことにして、高村晋輔に声をかける。
「終わったの?」
「……おそらくは」
終わった。
でも。
「本当に?」
「多分な」
晋輔は繰り返す。
それ以外、彼にも答えられないのだろう。
「奴の左手に火は点いた」
「うん」
恋歌も、それを確かに見たと思う。
善次郎の左袖は燃えていた。
彼は動揺し、その猛禽のような爪で左腕を掴んだ。そして晋輔を睨み付け、悪態をついたように思う。何かをしようとして、おそらく何もできぬままに光に包まれた。
「ならば、結果は決まっているはずだ」
「そうだ……よ、ね」
春風と同じ肉体を持つ者が、春風を滅ぼした炎に包まれた。
ならば、その結果も同じ死がもたらされるはずだ。
高村晋輔はそう答える。
多分、その理屈に間違いはないのだろう。
「そうだよね」
恋歌は頷いた。
高村晋輔に同意するために。自分を納得させるために。
「呆気ない、か?」
晋輔が顔を上げ、少し困ったような表情で訊いてきた。
「少し、ね」
「正直に言えば、わしもそう思う」
「うん」
確かに呆気ない、と恋歌も感じる。
あの粘着質な男の最後としては、あまりにあっさりしすぎている。
「だが……」
「わかってる」
「……そうか」
人の死とはそういうものなのだろう、とは恋歌でさえ納得できる。
淡白な男だからあっさり命を落とす、とは限らない。粘着質な男だからといってしぶとく生き残る、とも限らない。人間ならば誰もが理解できる常識。
今しがた目の前で起きた出来事は、その常識からは鬼になっても逃れられない、というだけの話だ。
「炎は、善次郎の左袖に燃え移った。うん。私も見たよ」
強引に自分の心を納得させようとする。
それが正しい答えのはずだ。
間違っているのは、自分の思い込みだけだ。
それでいい。
それでなくても問題はあるのだ。
自分の思い過ごしで余計な問題を抱え込まなくていいはずだ。
もちろん、それが本当に自分の思い過ごしであるのなら、だが。
美雪はどこにいる。
彼女は、もう一人の鬼と一緒にいるはずだ。
だから、恋歌は美雪を助けなければならない。
だが、どこにいけばいい。
どこを探すのだ。
この暗闇が支配する時間に。
わからない。
でも。
「美雪を探しに行かなくちゃ」
それは前提だ。
「あんたも来てくれるでしょう?」
一応聞いてみる。一応、だ。答えは決まってる。
「もちろんだ」
もちろん、高村晋輔はそう答えた。
うん、と恋歌は頷いた。
感謝の気持ちはあったが、それを今さら口にするのは気が引けた。礼など言ったら、高村晋輔に不思議そうな顔をされそうだ、と思った。
何故、礼など言うのだ、と。
高村晋輔は全力を尽くしてくれる。恋歌の中で、それは問うまでもなく確定的な事実だった。
だから、その答えは、それこそ「もちろん」なのだ。
善次郎は言った。
吸血鬼に咬まれた人間は、一晩かけてゆっくり変化してゆく。
その「一晩」というのがどのくらいの時間なのか、恋歌にはわからない。
経過する時間の長さなのかもしれないし、朝を迎えるまでのことを指すのかもしれない。
つまり、吸血鬼に変化する時間が足りなければ次の夜に変化は持ち越されるのか。あるいは朝が来れば自動的に吸血鬼への変化は完了するのか。
それは恋歌にはわからないし、わからない恋歌が考えても仕方がないことだ。
恋歌にできるのは、「少しでも早く」美雪を助けること、だ。もっとも、吸血鬼の元から美雪を救い出して、それからどうすればいいのか、それもまた恋歌にはわからないのだが。
それでも、放っておくことはできない。
まず、鬼の元から助け出して、それからやれることを考える。それしかない。
「行こう」
「うむ」
恋歌は立ち上がり、続いて晋輔も立ち上が……ろうとして、
「……くっ」
高村晋輔は立ち上がれず、そのままふらついて、転倒した。
「晋輔!?」
慌てて恋歌は駆け寄る。
晋輔は、苛立たしげに自分の足を睨んでいた。
袴に血がにじんでいた。
「ちょっと。掠っただけじゃなかったのっ?」
もちろん、高村晋輔が「掠っただけだ」と明言したわけではない。恋歌だって、あの時の傷を本気で「唾でもつけておけば治る軽い掠り傷」だと思っていたわけではない。
だが、この若侍が倒れるほどの深手だとは思っていなかった。
実際に傷口を見たわけでもないのに浅い傷だと思い込んだのは、いかにも浅はかではあったが。
「見せて」
「大丈夫だ」
「やせ我慢したいのだったら倒れるんじゃないわよ」
「……」
若侍の強がりを切り捨てて、恋歌は晋輔の袴をめくる。
そして後悔した。見なければ良かった。
意外に深い。
まだ血は止まっていない。
死に至るような傷ではないのだろうが、少なくとも恋歌なら痛みを泣き声で訴えて蹲る程度の傷ではある。
よくこんな傷で善次郎の斬戟を掻い潜り、蝋燭の炎に器用な真似をしてみせたものだ。
「……馬鹿」
低く悪態をついて、しかし、恋歌はそれ以上続けられない。
彼が無理をしてくれたからこそ、恋歌は今ここで悪態をついていられるのだ。
「大丈夫だ。行くぞ」
そう言って、高村晋輔は再び立ち上がろうとする。
そして、その途中で呻く。
動けないわけではないのだろう。彼にとっては。
恋歌ならとても動く気にはならない傷であっても。死に至らなくても深手は深手だ。傷口を洗い、余計な負担はかけないことが望ましい。
だが、それでも恋歌は彼に「休んでいろ」とは言えない。
こうしている今も美雪は恋歌たちの助けを待っているのだ。恋歌は自分ひとりで吸血鬼の親分を相手に戦える自信がない。負けてもいいから、とは言えない。恋歌の敗北は、美雪が鬼になることと同義なのだ。
もろちん、美雪を救うためには、今はまだ彼女が鬼になっていないことが前提だが、そのことを考えるのを恋歌はやめた。
あの優しい強情娘が簡単に鬼になるとは思えない。
その思い込みだけを根拠に、恋歌は動かなければならない。
高村晋輔の協力を得ながら。
だから、せめて恋歌は言う。
「水と布を持ってくるね」
「……そうしてもらえると助かる」
高村晋輔の平静を装った声を聞いて、恋歌は立ち上がる。
一階にはもう誰もいないだろう。誰かに持ってこさせるわけにもいかない。
立ち上がった恋歌は、何の気なしに雨戸を見る。
もちろん、雨戸は閉ざされている。
だが、その印象が意識を失う前と変わっているような気がした。
少し考え、恋歌はその意味にようやく気付いた。
外がうっすらと明るくなり始めている。
雨戸と雨戸の隙間。雨戸の板の隙間から淡い光が漏れてきている。
いや、それは「光」というほど強いものではなかった。恐らく雨戸を開けても、外の光景はまだ「朝」とは呼べないだろう。
それでも恐らく東の空は微かにでも明るくなり始めているはずだ。
まだ、「朝」ではないのかもしれない。
だが、朝はそこまで来ているのだ。
そのことを心強く感じると同時に、美雪を救いに行ける時間を思い、焦りを感じながら、恋歌は階下へと降りるために階段へ向けて歩き出した。
そこで階段の途中で倒れている男の姿を見つけた。
*
知っている姿が倒れていた。
そいつは死んでいた。
それは近づく前から、恋歌にはわかった。
袈裟切り、というやつだ。
肩口からざっくりとやられている。
溢れた血は階段を染めていた。
恋歌は悲鳴をあげなかった。
そいつのことが嫌いだったからではない。
死んでもいい奴だなんて思ってはいない。
ただ、驚きはなかったのだ。
死んでいたのは楼主だった。
桜泉楼の楼主は、ついに色欲はもちろん金銭欲からも自由になったのだ。
もちろん、煩悩を捨てた喜びは彼の死に顔になかった。
その顔にあったのはただの驚きだった。
殺したのは……。
善次郎?
いや、多分。
あの「用心棒」だ。
たぶん、善次郎ならば人を殺すのに刀は使わないだろう。
先ほど彼が振るった刀は、高村晋輔が渡したものだ。
だが、何故楼主は逃げなかったのだろう。
少し不思議に思い、だが、すぐに自分で答えを見つける。楼主は自分のいない間にここで暴れられるのが嫌だったのだ。それは当然でもあり、強欲な楼主ならではの行動でもある。
その死体を横目で見ながら通り過ぎようと近づいた恋歌は、そのとき楼主の姿勢がひどく不自然なことに気づいた。
階段の途中で仰向けに倒れた楼主だったが、その腹が奇妙にせり出している。
いや、楼主は背中を不自然なほどに反って倒れていたのだ。
その腕は倒れたときに放り出されたままなのだろう。壁に当たり、そこで絶妙の均衡を保って、右にも左にも倒れず、壁にかかって静止していた。
ただ、肩の位置が少し不自然に思えた。
歩み寄った恋歌は、その理由を知った。
その陰。
倒れた楼主の体の下に、誰かがいる。
恋歌以上に小さな体を倒れた楼主の下に潜り込ませている。
いや、たぶん、そうではないのだろう。
少女が蹲ったそこへ、楼主は倒れたのだ。少女はその下敷きになり、けれど、そこに隠れて眼前の惨劇をやり過ごそうとした。そしてそれに成功したのだ。
「……綾羽」
恋歌はそっと呼びかける。
すると、その小さな人影は目に見えて震えた。
やがて小さな啜り泣きが聞こえてきた。
何があったのか、本当のところはわからない。
だが、楼主が殺され、その血を浴びたのだ。まだ小さな少女にはあまりに恐ろしい体験だったのだろう。
「出ておいで、綾羽。もう大丈夫だから」
「恋歌姉さん……っ」
太った楼主の亡骸を怯えながらどかして、綾羽が出てくる。
出るためには死体を動かさなければならないとはいえ、少しでも触るのは怖いのだろう。
そっと楼主の死体を押しやる。
だが、それで均衡を崩した楼主の体は階段をごろごろと転がり落ちた。
そのことに綾羽は怯え、だが、それ以上に見知った顔に安堵したのだろう。恋歌に駆け寄りしがみついてきて、そして泣き出した。




