95.喘ぐもの
2014/5/23 改稿しました。
詳細は活動報告にて記載しました。
この地において、吸血鬼たる彼女は夜の女王のはずだった。
彼女は勝者のはずだった。
だが。
「悪なす者のゆえに、心を悩ますなかれ。不義行う者ゆえに、ねたみを起すなかれ」
呪われた渇きに苦悶の声をあげ続ける少女が不意に意味のある言葉を口にした時、突然訪れた苦痛を、彼女は一瞬理解できなかった。唇が勝手に開き、意図せず小さく呻き声が零れる。
「彼らはやがて草のように衰え、青菜のように萎れればなり」
少女の声は大きくはなかった。
だが、悲鳴をあげる男や呻く彼女自身の声を制して、暗闇を圧した。
「主によりて喜びをなせ。主は汝の心の願いをかなえられる。
汝の道を主にゆだねよ。主を願えば、主はそれをなしとげ、汝の義を光のように明らかにし、汝の正義を真昼のように明らかにされる」
ばかな。
彼女は勝者のはずだった。
彼女はこの娘の血を啜ったのだ。
それは、死をもたらすほどではない。この娘を殺してしまうほどではない。それでは楽しみが少なくなる。
憎むべき信仰をもつものを屈服させ、その魂を堕落させ、ついに彼女の配下に落とす。なんて素晴らしいゲーム。この渇きと苦痛に満ちた永遠の中で、それは素晴らしい娯楽になるはずだった。
その楽しみを優先させる余裕はあったはずなのだ。
そして、実際に彼女はゲームに勝った。そう信じていた。あとはこの少女が渇きに屈服し、もう一人の男の血を啜れば、それは素晴らしい見世物になる。
彼女は、それを楽しむだけでよかったはずだ。
だから、苦痛は突然で、不意打ちになった。
喉を苛む渇きとも、陽光が皮膚を焦がす苦痛とも異なるそれは、彼女の魂に直接到達し、貫いていた。
その苦痛を彼女は知っていた。もちろん。
だが、それはありえないはずの苦痛だった。
あまりに不意であったがために、苦痛に備えられず、彼女はつい、唇から呻き声を漏らした。
呻き声?
違う。
彼女は歯を食いしばり、必死に声を押し殺しながら悟っていた。
今のは悲鳴だ。
耐えられぬ苦痛に音を上げた、情けない悲鳴だ。
彼女が自制心を取り戻し、声を押し殺すと、暗闇の中聞こえるのは少女の囁きだけになった。
「悪しき者は久しからずして、失せ去る。汝か彼の所をつぶさにおもいみるとも彼はあることなし」
少女は唱える。
「されど穏やかなる者は国を継ぎ、平安の豊かなるを楽しまん」
少女の声は震えていた。言葉をなす声の数倍の泣き声と悲鳴が、少女の声の底に溢れている。女吸血鬼には、それが理解できた。彼女は、自分自身の苦痛のように、少女の苦痛と恐怖を感じていた。
それは、想像するだけで、身の毛がよだつような感覚だった。
少女の声が震えている。
だが、それだけだ。
少女は泣いている。膝をつき、喉を押さえ、ついには倒れ伏した。もちろん、その程度では苦痛は止まない。少女は転げ回り、胸を掻きむしって血を流している。目は見開き、口からは血の混じった泡を吹いている。声はそれこそ蝦蟇蛙のように潰れ、ひび割れている。
だが、それだけだ。
どれほど少女が苦しみ、悶えようと、それはただ「それだけ」のことなのだと女吸血鬼は知っていた。少女が実際に感じ、耐えている苦痛に比べれば、表層の仕草や表面的な変化などごく小さなものでしかない。
少女の声は言葉になっていたのだ。それは、それだけで凄まじい精神力を要する行為であることを彼女は知っていた。
「主に祝福されたる者は国を継ぎ、主に呪われたる者は断ち滅ぼされるべし。
人の歩みは主によりて定められる。主はその行く道を喜びたまえり。例えかの人が倒れても、打ち伏せられることなし。主がその手を助け支えればなり」
吸血鬼に堕そうとしながら、少女は清き言葉を唱えていた。汚れた唇が聖なる言葉を紡いでいる。
そのことに彼女は喘ぐ。
ありえない。
絶対にありえない。
信仰を有する者ならば、自らが呪われたとき、神に救いを求めるのは当然だ。心の中で許しを請い、悔いを改めようとする。今まで信じていなかったとしても、神に救いを求めるのが普通だろう。
だが、どれほど救いを心から求めようと、それを口にすることはできない。何者にも耐えられない苦痛が、その身を襲うからだ。堕落した魂は、汚れそのものだ。信仰を口にするということは、自分の全存在を否定することになる。肉体のすべてと魂のすべてが悲鳴を上げる。その苦痛に抗うことは、誰にもできない。
絶対にできない。
絶対に、絶対に、絶対にできないはずだ。
そのはずだったのだ。
それは本来、耐えることを「考慮」さえされない「条件」だった。
彼女は、昨夜ゼンジロウがこの小娘たちにした説明を聞いていた。
彼が、あの凡庸な女「春風」を翻弄しながら話したあの説明だ。吸血鬼に血を吸われることの意味と、吸血鬼になるための条件についての説明だ。
その場にはいなかったが、街に満ちた澄んだ暗闇を通して、彼女はゼンジロウの言葉を把握していた。
あの説明は正しい。
吸血鬼に咬まれれば、そいつもまた鬼になる。
一度でも咬まれれば吸血鬼のできあがりだ。
あのつまらない女は咬まれた時点で死にかけていたためにその変化は急速で激烈なものになったが、本来ならば一晩をかけてゆっくり変化してゆくのだ。
そして、不死者への変化は他者の血を吸うことで確定する。すなわち飢餓の呪いをその身に引き受けることによって不死の肉体を得るのだ。
この説明に間違いはなく、吸血鬼への変化を過不足なく説明している。
ゼンジロウは言った。
吸血鬼に咬まれれば吸血鬼になる。一度でも咬まれれば、吸血鬼の出来上がりだ。
だが、こうも言っている。
その変化は他人の血を吸うことで決定される。
文章を考えれば、これらは同じものではない。
「咬まれること」と「咬むこと」。条件はふたつある。
だが、一度でも咬まれただけで吸血鬼になる、とも言っている。
つまり、この説明は「矛盾している」ともいえる。
だが、吸血鬼になったものならば誰でも知っている。
一度でも咬まれた者は、必ず吸血鬼になる。
これもまた真実なのだ。
何故なら、これらは等号で結ばれるべき条件だからだ。
ふたつの条件は、本来は同じものなのだ。
吸血鬼になることは呪いをその身に受けることになる。
呪い。激烈で止むことのない渇き。
その渇きからは何者も逃れられず、耐えることはできない。渇きに狂い、手近な獲物を屠る。それが知人であろうと、親族であろうと、どれほどそいつを愛していようと。眼前の獲物が生きて血の匂いをさせている限り、血に飢え、呪われた者は、渇きに耐えることができない。
必ずそいつを殺し、そいつの血を啜る。飲む。浴びるように。溺れるように。
その渇きを耐えることは、そもそも不可能なことなのだ。
だからこそ、その条件は同一のものと認識される。
吸血鬼に咬まれることと、他者の血を吸うことは、結局は同じことなのだ。
だが、もし、吸血鬼に咬まれ、その身に渇きの呪いを受け、それでもこの激烈な渇きに耐えるものがいたら。
それはどうなる。
それはどうなるのだ。
彼女はその答えを知らなかった。
知る必要もなかった。
何故なら、それはあり得ないことだからだ。
絶対に、絶対に、絶対にありえないことのはずだったのだ。
彼女にさえ耐えられなかった苦痛なのだ。彼女でさえ耐えられずに、口を閉じ、我が身が怪物へと変わってゆくのを止めることができなかった。
もちろん、今は彼女は耐えている。
自らの強靭な精神力を誇り、ただ吸血の欲望に堕する者どもを軽蔑し、彼らの上に君臨していると思っている。
だが、その彼女でも、「最初の渇き」には耐えることができなかった。
目の前に現れた男を、彼女でさえ半狂乱で貪った。
血で咽喉を潤し、血を浴び、血に溺れ、飽くことなき飢餓に狂いに狂った果てにようやく辿り着いた平静だ。
この渇きを癒すことはできないのだ、と自覚したうえでの諦念だった。
清らかさは汚れを決して許さない。
ミユキと呼ばれた女の全身が泡立っている。汚れた血が沸騰し、皮膚を突き破ってそこかしこから出血し始めていた。
「我は悪しき者が勝ち誇り、その蔓延るのを見るに、生い立ちたる地に栄え茂れる樹のごとくなり」
少女は囁く。なおも少女は聖書を唱えている。
「されど、彼は逝けり。見よ。たちまちに無になりぬ。我、これを尋ねるも会うことなし」
「ばかな……」
動揺が声になった。そのことを恥じ、彼女は少女を憎んだ。彼女にさえ耐えられなかった苦痛に耐える少女を、心の底から憎悪した。
気がつくと、左手が自分の首を掴んでいた。
彼女の意思ではない。
彼女がそんなことを望むはずがない。
だが、左手はまるで、自分の主を殺そうとするかのように、徐々に握力を強めてくる。
主を殺す。
そうだ。彼女は知っている。
それがこの手の望みなのだ。
永遠の飢餓を生きる呪われた日々。それをこの手は終わらせたがっているのだ。
死による恩赦など望めぬことを知らないかのように。
彼女は低く舌打ちして、左手に意識を戻す。
そうして、その手を下ろそうとする。
だが、左手は主に逆らい、その指から力を捨てない。左手は力を増し、主の首を締め上げてくる。
馬鹿馬鹿しい。
彼女は左手首を右手で掴み、渾身の力で引き剥がした。そうしなければ、左手は彼女の咽喉から離れなかった。強引に引き剥がしたとき、その爪が彼女の咽喉の皮膚を抉っていった。
手が震えていた。足がすくみそうになっていた。
そして喉が渇いていた。
からからに渇いていた。
喉が痛い。肺は乾いた空気で切り刻まれているようだ。潤いが必要だった。
血がほしかった。
我慢できないくらい。
両手が再びあがり、喉を撫でていた。
のどの渇きは耐え難いものになっている。
彼女は呻く。
彼女は小さな泣き声を上げる。
苦しい。
彼女は寝台に座っている。
震えながら。
少女の言葉は醜くひび割れながらも、止まることがなかった。
「主は彼らを助け、彼らを解き放ちたまう。彼らを悪しき者より解き放って救いたまう。彼らは主に拠り所とすればなり」
光り輝く言葉が、糞尿にたかる小虫のように飛び回り、雪のように降り注いで彼女を苦しめる。形のない声が、剛腕を持つ彼女の膂力を抑え込み、見えない糸のように彼女を縛り上げ、拘束する。
だから、彼女は、怯える子供のように寝台に腰かけて震えている。
もちろん、彼女は怒る。
そして「怒り」を無防備なはずの小娘にぶつける。
普通ならぶつけられたものは苦痛と恐怖に震え上がる「怒り」を。ゼンジロウでさえ苦痛に身を震わせた「怒り」を。
だが、ミユキというこの少女は何の痛痒も感じなかったように反応しない。
そのことは彼女にも理解できる。
「彼女」の怒りなどなくても、少女は苦痛と苦悩のどん底にあるのだ。今更彼女の怒りなど大した負荷にはなりえない。
だが、間違えている。
こんなのは間違えている。
彼女は全く動けないわけではない。
手の届く範囲にあの小娘がいれば、彼女は一撃で殺すことができる。
今ではあの小娘の口を塞ぐことが、娯楽よりゲームより優先した。今彼女が望むことは、ほとんどそれだけだった。
誰か、あの娘の口を塞いでくれ。
だが、よりによってあの小娘は、この土蔵の一番端にまで転がって行ってしまった。 まるで彼女から逃げるように。
あるいは目に見えない誰かがあの小娘を守ろうとして、あの小娘がそいつに導かれたかのように。
彼女は憤怒の表情でミユキを睨む。
目で射殺そうと視線を研ぎ澄ませる。
まっすぐな視線。
だからこそ、足元で動く「それ」は彼女の視界に入らなかった。
「たすけて……」
不意に彼女の足首が掴まれた。
「っ!」
思わず驚きで身を竦ませる。
この暗闇の中、彼女に気づかれずに動ける者はいない。
それなのに、その男は彼女の目に留まらずに彼女に触れたのだ。
もちろん、それはその男の力ではない。
単に彼女が意識を聖書を唱える娘に奪われていた、というだけだ。
だからこそ、彼女は怒りを滾らせた。
永遠を生きるこの自分が、こんな惰弱な男に怯えたのだ。
「ひ……」
男は彼女のひと睨みに震え上がる。
その男は、昨夜彼女が連れてきた男だった。
ミユキよりも先に血を啜り、ミユキと争わせるべくこの土蔵に放置した男だった。
ミユキの紡ぐ聖句に苦しめられ、あっけなく音を上げ、自らの「親」に救いを求めてきたのだ。
彼女は男を見下ろした。
苦痛に呻き、泣き声をあげ、憐れみを乞う無様な男を。
それは、今の彼女の姿だった。
彼女は拳を振り上げる。
それだけで彼女の怒りは男を打ちのめす。
男は怯え、憐れみを乞うて哀願する。
その惰弱な顔に向かって、彼女は振り上げた拳を躊躇なく振り下ろした。
その瞬間、男の頭部があった場所は赤い霧となって消えた。
彼女は怒りと屈辱に絶叫した。
殺しておくべきだった。殺しておくべきだった。今はあの小娘を殺しておかなかった自分がどうしようもなく腹立たしい。あのときにこいつの血を吸い尽くしていれば、こんなことにはならなかった。
血を吸い尽くしていれば、あいつは死んだ。吸血鬼にならなければ死ぬしかないのだ。
だから、こいつは死んでいたはずだったのだ。
だが、こいつは。
彼女は、こいつが生きながら悪魔の眷属に堕落してゆく光景を楽しみたかった。そのために生物的には生存できる程度の血しか吸っていない。
こいつはまだ生きている。
少女に触れることが恐ろしい。
少女に近づくことが恐ろしい。そもそも、動くことさえできないのだ。
彼女は、蔵の隅にいるあの非力な小娘を恐れている。
一晩かけて、人は吸血鬼へと変わってゆく。
だが、こいつはどうなる。
彼女はわからない。
彼女は知らない。
夜明けまでに、こいつは挫折しないだろう。夜明けまでに、彼女はこのこの娘を支配下に置けるだろうか。
わからない。わからない。わからない。
あの苦痛に耐える少女を前に、また己が精神の脆弱さを思い知らされ、彼女は屈辱に喘ぐ。身動きさえ取れぬほど打ちのめされ、それでも身を震わせる怒りを、彼女はいつまでも味わい続けた。
吸血鬼もの、としてはルール違反でしょうか。
でも、作者的にはクライマックスのひとつのつもりだったり。
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