94.最後の夜(美雪) 15
大丈夫だから。
と、男は言った。
どこかの土蔵のような暗闇。
その壁に背中から叩きつけられ、男は崩れ落ちる。背中や後頭部を強打して、動けなくなってもおかしくない。
それでも男は身を起こす。
美雪の非人間的な力で突き飛ばされ、壁に叩きつけられながらも、男は軽々と身を起こした。
「ダ、イジョウブ……ダカラ」
牙を剥き、欲望に顔をゆがめながら、男は美雪を落ち着かせようとした。必死に口を開き、言葉を紡いだが、男の声はひどく聞き取りにくかった。牙が口を閉じるのに邪魔になっているせいもあるだろう。だが、それ以前に、男の顔から何かが失われてゆくのが美雪には見えた。
何か。
美雪に対する微かな心遣い。
血をすするということに対する嫌悪。
一言で言えば優しさのようなもの。
それらすべてが失われていた。
しかも、失われたのは、それだけではなかった。それは優しさなどという中途半端なものではなかった。彼の心からはすべてが失われていた。すべての記憶。感情。理性。皆、荒々しい欲望に押し流されてゆく。
それがわかる。
それは美雪自身も感じていることだからだ。
男は知性そのものを失おうとしているのだ。
もう少しで癒されるはずだった渇きを美雪に妨げられ、男の欲求不満は限界を軽く超えてしまった。強烈な渇きを癒そうとする欲望だけが頭にあり、それ以外のことは考えられなくなっている。
自分の浅ましさを見せつけられ、悲鳴を上げた分だけ、美雪は出遅れている。だが、そんな遅れもすぐに失われ、自分も男の後を追おうとしていることを美雪は理解していた。
堕ちる。
助けて。
美雪はすすり泣き始めた。涙は出てこなかった。それでも彼女は嗚咽を漏らし、肩を震わせ始めた。
男は近づいてきた。
呪いにとらわれ、堕ちた、浅ましい鬼が、彼女に向かって手を伸ばした。
病にかかって狂った犬のように、よだれを垂らし、眼を赤く濁らせながら唸っている。 美雪はその男の名を知らなかったが、もしその名を呼んだとしても、男にはそれが自分の名前だとはわからなかっただろう。男はすでに、数刻前まで刻んできた彼の人生のすべてを忘れてしまっていた。彼に妻子がいて、彼らが命乞いをしてもこの男にはもう相手が誰かわからなかっただろう。あるいは、相手の悲鳴が命乞いであることさえ理解できなくなっているのかもしれない。
美雪は、男に対して、嫌悪と同情を感じた。だが、それもまた圧倒的な渇きの前に押し流されてゆく。
咽喉が渇いた。
本当に渇いた。
目の前の男を屠れば、この渇きも少しは癒されるだろうか。
ああ。
堕ちる。
堕ちてしまう。
助けて、恋歌。
美雪は、友人であった身勝手な少女を思った。
彼女ならこんなときどうするのだろう。
あの無愛想な侍なら、こんなときなにができるのだろう。
わからなかった。こんな渇きの中では、彼らでさえ無力に堕ちてゆくしかないはずだ。
恋歌。
本当にそうか?
本当に恋歌は堕ちてゆくか?
血への飢えの前にはどうでもよくなりつつあることを、美雪は必死で想像した。肉親と幼くして離れた美雪にとって、あの我儘な友人だけは大切な規範だった。
何かがあった。
圧倒的な渇きの欲望の中、微かに残った小さな記憶が彼女の中で訴えかけていた。
それが何か、美雪にはわからない。
本当はどうでもいいようにも思う。
だけど。だけど。
思い出せ。
美雪の中の何かが、それを必死で訴えかけていた。
同時に 思い出す前から、美雪は感じていた。
きっと、それは本来、どうでもいい記憶なのだ。
それは些細で。
ささやかで。
日常的で。
どうということのない。
ありふれた出来事なのだ。
それでも。
今の美雪にとって、それはどうしても必要で大切な言葉なのだ。
そう。
言葉だ。
恋歌の言った言葉。
おそらくは何の気なしに放たれ、受け止めた美雪も何の気なしに記憶の底に沈めた。どうでもいい、日常的で、些細な……けれど、きっと大切な言葉なのだ。
咽喉が渇く。
きっと、その記憶は渇きを癒さない。むしろ咽喉を潤わせるための妨げになるだろう。
だけど。
思い出せ。
本能か、理性か、何かが金切り声で主張している。
今は、それが何よりも大切なことなのだ。
恋歌は。
我儘な少女だ。
美雪にとっては大切な友達ではあるが、それでも春風が嫌うのも、正直少しわかるような気がする。
美雪には笑ってしまうような、可愛いとさえ言えるような我儘も、春風には「桜泉一番の美貌」を笠に着た傲慢さに見えたのだろう。
それは誤解だ。
と、美雪にはわかる。
確かに恋歌には我侭な一面がある。おそらくは誰もが持っている程度に。あるいはそれよりもほんの少し多く。
だが、それと同じくらい優しい面を持ち、それと同じくらい正しい良識を、正義感を持っている。
ただ、あの美貌のせいで、その優しさも良識も、単なる傲慢だと逆に誤解されてしまうのだ。
あの強情な……
強情。
そうだ。
美雪はその記憶を見つけた。
それは予想通りの記憶だった。
つまりどうでもいい出来事だった。どうでもいい記憶だったのだ。
ささやかで、つまらない、くだらない、ありふれて、意味のない、日常の一こまだった。
あまりにありふれていて、それは意味もなく繰り返されていた。意味がないからこそ繰り返され、積み重なり、それでも薄っぺらなできごととして、日々の記憶の中に沈められていたのだ。
どうでもいいこと。
でも、忘れてはいけないこと。
例えば。
つい数日前、善次郎との初夜に高村晋輔が闖入してきた翌朝。
噂を流した犯人を調べるために、恋歌は綾羽を質問攻めにしようとした。
その綾羽を庇う美雪を睨む恋歌にも、美雪は平静と笑顔を保っていた。
あのとき、恋歌は言ったのだ。
「強情」と。
例えば。
今度の記憶は逆だ。
「オランダ行き」の立場を利用して、出島のオランダ人から耶蘇教の情報を調べようとした恋歌。
その恋歌に翻意を促した美雪に、恋歌は応じなかった。
だから、このときは美雪が恋歌に言った。
「強情っぱり」と。
それに対して恋歌の答えは。
「あんたには言われたくない」だった。
つまらない。
なんてつまらない記憶。
だけど、それは今の美雪には大切なものだった。美雪はそれを理解していた。
幕府が決めた法も、世の中が暗黙のうちに認めている法も無視しようとしながら、自らの決めた法にだけは忠実たろうとする友人こそが、この発狂しそうな渇きの中で美雪の記憶に残っていた。激流の中で掴んだ岩にしがみつくように、美雪は友人の記憶にすがった。
耐えがたい渇きと飢えの激流の深層。
荒れ狂う欲望の激流の底に沈む、静かに輝く記憶。
記憶の奥底で微かに光る友人の記憶を、美雪は必死で求めようと手を伸ばした。
あの我が儘で傲慢な少女が屈服する姿を、美雪は想像できなかった。
その恋歌に美雪は「強情」と呼ばれたのではなかったか。
そうだ。
美雪は、恋歌に何度も「強情」と呼ばれたことがあった。恋歌自身が強情であることを指摘した美雪に、「あんたには言われたくない」とまで言わせた美雪。
美雪には何かがあったはずだ。
「強情」と呼ばれるほど強く信じる何かがあったはずだ。
美雪は、自分でも気づかぬうちに、唇を開いた。
赤く染まった視界に、男が迫ってくるのを見ながら、美雪は心の底から突きあがってくる強烈な感情と情熱に身を任せる。
そして、唇が勝手に紡ぐ言葉を、口にする意味さえ考えることなく、暗闇に解き放った。
眼前の怪物が悲鳴を上げる。
だが、それ以上にひび割れ、醜い悲鳴が自分の口からあふれ出すのを美雪は止めることができなかった。




