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87.最後の夜 8

 泣き声が聞こえる。


 泣き声?

 それとも獣の鳴き声だろうか?


 いや、やはり「人」の泣き声だ。

 静まり返った郭の中、何者かの泣き声がたゆたっている。


 郭で泣くのは、多くの場合、女だ。

 遊女にフラられた男が泣いているなどという場合も間々あるが、本当に悲痛な泣き声は、やはり女の咽喉から振り絞られる。


 だが、それは男の声だった。

 野太い男の声だった。

 男の声が、しかし、子供のように泣いているのだ。

 

 美しくはない。

 儚くもない。

 同情さえ誘わない。

 だが。


 おおおおん。おおおおおおん。


 声はゆっくりと近づいてくる。


 同時に近づいてくる音は、多分足音なのだろう。


 ひどく重く、そして濡れた足音だった。

 川にでも浸かったか。土砂降りの雨の中でも歩いてきたのか。そんな感じの足音だった。

 あるいは。

 そいつ自身が今、血にまみれているか、だ。


 そしてそれはまた、何かを引きずるような音でもあった。

 ずるずると何かを引きずり、引きずられたものがゴトゴトと硬い音を立てる。


 声は近づいてくる。

 階段を昇る。

 泣きながら。

 何かを引きずりながら。


 それが何か恋歌は推理しようとして、できない。


 聞いたことのある声の主を思い出そうとして、できない。


 ただ。

 それは近づいてくる。

 人を不安にさせる泣き声と。

 人を苛立たせる足音を引きずり。


「ぼうっとしてるなっ」

 高村晋輔が叫び、恋歌はわれに返る。まだ気づいていないらしい晋輔に、足音への注意を喚起すべきか躊躇う。だが、目まぐるしく動き回る彼に余計なことは言わないほうがいいのかもしれない。


 だが、恋歌が何に気をとられたのか、善次郎にはわかったのだろう。

 恋歌に視線を向けると、面白くなさそうに笑った。


「頼んだわけではないんだがな。

 まあ世話女房、とでも言うのか。色々気の利く女だ。

 頭がよくて。

 頭が良すぎて可愛げはないが」


 なんのこと?この足音がその女だというの?

 恋歌は眉をひそめる。

 善次郎はその表情に気づいて、説明を重ねた。

「あの小娘を捕らえた女だ。俺の……親玉であり、俺を殺した下手人であり、生き返った俺の親、とも言えるかもな」


 それはつまりあの最初の吸血鬼のことなのだろう。

 恋歌は理解する。

 だが、この泣き声はどうしたって女のものには聞こえない。


 だが。

 では、この聞いたことがあるような声は。


 善次郎は更に続ける。

 止めを刺すように。

 笑って。

「つまりお前の仲間のあの小娘と俺とは兄妹ということになるか」

「……っ」

 それはつまり美雪も鬼の仲間になってしまったという意味だった。

 だが、この声は、少なくとも美雪のものではない。

 もっとも、そんな可能性を考えてしまうこと自体、恋歌は嫌悪する。そう考えてしまう自分を憎む。

 美雪が鬼になる?そんなはずがあるか。そう言い返したい。

 ぶっ殺してやる。そう怒鳴りつけたい。

 なのに言葉が出ない。

 いつもなら自分でも嫌になるくらい湧き出してくる悪態が言葉にならない。ただ、善次郎への憎しみが固化し、咽喉の奥で恋歌の息を奪う。

 

 耳の奥に善次郎の笑い声が聞こえる。足音も次第に近づいてくる。

 嫌らしい。憎らしい。品のない笑い声が恋歌の耳から侵入し、恋歌のことを汚す。恋歌の体に善次郎の視線と嘲笑が粘りつき、恋歌を毒してゆく。

 

 太刀を振るう晋輔が、ちらりと階段の方向に視線を向ける。

 ようやく彼も、あの奇妙な泣き声に気づいたのだ。


 あんな足音を恋歌は知らない。あんな泣き声を恋歌は覚えていない。

 それが誰かはわからないが、この声の主を恋歌は好感をもって受け入れることは出来ないだろう。


 気をつけて、晋輔。


 言葉には出来ず、しかし、恋歌は心の中で晋輔に警告する。


 足音は近づいている。

 それは決して好ましい存在ではない。


 だから、気をつけて。


 そう恋歌が思ったとき、不意に障子から「棒」が突き出された。


 棒。

 

 恋歌はそう思った。

 長い棒が、いきなり障子を破って突き入れられたのだ、と。


 棒には先端に刃がついていた。


 槍ではない。

 その刃はもっと長かった。


 長巻?

 だが、その刃につけられた「棒」の長さは長巻の比ではない。


 そもそも、男の泣き声はまだ障子のすぐ外、という距離ではなかった。飛び道具でもあればともかく、少し眺めの槍などが届く距離ではないはずなのだ。


 だから、恋歌はそこまで怯えていなかった。

 だから、晋輔はそこまで警戒していなかった。突然の攻撃に、晋輔は完全に不意を突かれたのだ。

 だから、その「棒」は晋輔の足を掠めた。


 

 貫かれたわけではない。死に至るような深い傷ではないはずだ。だが、単なる掠り傷、というようなものでもなく、寡黙な晋輔が、呻き声をあげて体勢を崩す。

 なんだ、この「武器」は。

 目を見張る恋歌は、しかし、瞬時にいくつかのことを見て取る。


 違う。

 それは。


 それはごく普通の太刀で。


 それを。


 長い「棒」が、掴んでいた。


 長く。

 真っ赤に塗れて。

 同時に細い紐が縒り合されたような棒だった。人間の血肉で出来た棒だ。

 つまりは、それは「腕」なのだ。

 人の手ではありえないほど長い血まみれの腕。それが障子を突き破り、晋輔を傷つけ、虚空で静止している。

 

 おおおおおおおん。


 足音が近づく。

 泣き声が近づく。

 同時に、その太刀を持つ「腕」が旋回した。


 突き刺さった障子の格子をへし折り、枠組みごと敷居から引き剥がし、逸れた刃が晋輔へと迫る。

 その速度は速くはなかったから、今度は晋輔はなんなくその刃をかわす。足の痛みはあったのだろうが、晋輔は畳に転がるようにして、その刃を避けた。

 刃の下にもぐりこむ事で、その異様な斬戟をやり過ごして、晋輔は体勢を立て直す。


 そして、外された障子の向こうに、そいつはいた。


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