81.最後の夜 2
たぶんあれから一刻は経った、と恋歌は思う。
その間、高村晋輔に茶を振る舞ってみた。
で。
すぐに引っ込めた。
振舞う側にももてなされる側にも、そんな余裕がない。間が持つはずがない。あまりに不毛な時間だったので、綾羽に片づけさせたのだ。
用意されていた簡単な(太夫の初夜のための食事としては質素と言っていい)膳を並べさせ、今は、恋歌が高村晋輔に酒を注いでいる。
深雪は帰って来ない。
高村晋輔に酒を注ぎながら、恋歌はそのことばかり考えている。
本格的な審問を受けているとするなら、きっとこれでもまだ早い時間なのだろう。だが、特例の略式のお調べたと聞いて、恋歌も晋輔も、深雪がすぐにでも帰って来られると思ってしまったのだ。
もちろん、聴取が終わっても、すぐには帰って来られないのかもしれない。融通を利かせてくれた者がいるなら、そいつに対して饗応が必要だろう。深雪がもてなし役を務める酒席くらい用意されているはずだ。
だから、遅いのかもしれない。
そう。
それだけのことかもしれない。
だが。
そうではないかもしれない。
簡略化した、というのは嘘で、実は深雪を油断させるための罠なのかも知れないのだ。
そう考えると、恋歌は、じっとしていられなくなるほど心配になる。
晋輔に相談したくなる。晋輔に「大丈夫だ」と言ってもらいたくなる。
だが、綾羽が恋歌の声を待っている状況で、深雪がキリシタンである話を堂々とするわけにはいかない。
恋歌は心を余所にさ迷わせたまま、高村晋輔に酒を注ぐ。
表面的には別のことを話題にしながら。
「晋輔は……お酒は強いほうなの?」
「そうでもない」
もはや何の抵抗もなく侍を呼び捨てにする恋歌に、今更驚きも苛立ちも出すことはなく晋輔が答える。
「だから、この辺でやめておいた方がいいだろう。飲みすぎて後のことに差し障りが出ては困る」
「後のこと、ね」
遊郭で遊女に酒を注がせながら男が考える「後のこと」なんてひとつしかないはずだが、もちろん高村晋輔が考えているのは違うことなだろう。そのことに異議を唱えるつもりはないが、丸山一番という美貌に自惚れてきた恋歌には、やはり面白くない。
美雪のことばかり考えていた頭で、不快な感情を意識してしまうほどに。
もちろん、そのことで腹を立てて見せるなんて、ますます恋歌には面白くない展開だから、顔には出さないが。
それでも、苛立ちもはため息になる。
高村晋輔は不思議なものを見る目を向けてきたが、彼も恋歌のため息の意味を問うことはなかった。
ちょうど、恋歌のため息に合わせたように、雨戸が揺れ、音をたてたのだ。
風。
雨戸がガタガタと大きく音を立てる。
「大丈夫なのかな」
「何が?」
「雨戸よ。強い風で倒れたりしないのかしら」
どうでもいいけど。
自分の声に力がこもっていないのを自覚する。だが、高村晋輔がそれを指摘することもなかった。
「大丈夫だ」
「本当?」
「このくらいならな」
「……なんで、あんたにそんなことがわかるのよ?」
「わしが直したからな」
唇を尖らせる恋歌に、高村晋輔はこともなげに答えた。
「え?」
「ここの楼主に言われて、わしが直しておいた」
「……いつ」
「昨日」
「いつ、そんな時間があったのよ」
「お前が、乙名のところに行った後だ」
恋歌の詰問に、高村晋輔は困ったように答える。
「時間があるなら仕事をしろ、と言われてな。飯を食わせてやっている分、しっかり働けと」
「さすが楼主……」
人使いの荒さは半端ない。
「でも。ますます心配かも」
そうつぶやいた恋歌に、晋輔は少し不快そうに眉をひそめる。
「大丈夫だ。楼主に言われて、下にあった長い板を打ちつけておいた。釘も短いものしかなかったが、その分少し多めに打っておいたぞ」
高村晋輔は少し不快そうに答える。
「でも、不器用そうだし……」
恋歌は反論する。
おしゃべりでは定評のある恋歌は、意識しなくても勝手に減らず口をたたける。
だが、勝手に動いてくれる口とは別に、頭は美雪のことに占められていた。
彼女が帰ってこないことが問題なのだ。
高村晋輔と美雪について話したい。
そのためには。
「綾羽」
恋歌は部屋の隅で控えるカムロに声をかける。
「はい、恋歌姉さん」
「あんた、何も食べてないでしょう?」
「……はあ」
「用があったら呼ぶから、とりあえず下にいていいわ」
もちろん、楼主が綾羽のために食事を用意してくれているはずはない。
カムロたちの食事とは、例えば、恋歌たちの食事の残飯であったり、桜泉楼で賄われた食事の余りであったりする。姉女郎である太夫が最初の客をとろうとしているときに、カムロだけ別室で食事を出してもらえるほど、桜泉楼は甘くない。
だが、恋歌が口を利けば多少の融通はきかせてもらえる、はずだ。
その間に、恋歌は晋輔と内緒話をする時間を作れるはずだ。
そう恋歌は思ったが、綾羽は頷かなかった。
「はい……。でも……」
と、言いにくそうに言葉を濁す。
実のところ、その反応は恋歌には意外だった。
今夜恋歌と共にいるということは、危険を伴う。
ここから離れられるとあれば、綾羽は喜んで階下へ行く、と予想していたのだが。
「どうしたの?」
「あの……楼主が……」
「楼主が?」
なんとなく嫌な予想をしながら、恋歌は問いかける。
綾羽は更に言葉を躊躇ってから、答えた。
「お二人が床に入るまで見届けろ、と」
つまり。
楼主は、なんとしても恋歌の初夜を誰かに押しつけたいのだ。
「……あのくそじじい」
恋歌は低く毒づいた。
それに対して、簡単に聞いてくれたのは、高村晋輔だ。
「床に入ればいいのか?」
と、こともなげに綾羽に問いかける。
「え?」
「わしと恋歌が床に入れば、とりあえず綾羽殿はここから立ち去れるのだな?」
「ち、ちょっと……」
恋歌は慌てて口を挟む。
話す。食べる。そんな簡単なことのように、高村晋輔は「床に入れば」と綾羽に聞いたのだ。
まさか、一緒に布団に入って、本当に「おやすみ」と寝るつもりではないだろうか、と恋歌は疑った。朴念仁もそこまで徹底されると、恋歌としては、この若侍に馬鹿にされているようにしか思えない。
もちろん、綾羽はそんな子供じみた誤解はしない。だから、綾羽は簡単には答えられなかった。
だが、高村晋輔は真面目な表情で続けた。
「ここは危険だ。綾羽殿は無関係とはいえ、奴が無関係だからといって何もしないでくれるとは限らない」
「……それはそうよね」
恋歌もうなずく。
確かに高村晋輔の言うとおりだった。
「いいわ。下に降りて、楼主には私たちが床に入った、と伝えて」
それなら、綾羽を安全な場所に逃がすことができる。自分たちの身も心配だが、無関係な妹女郎を巻き込みたいはずもない。
だが、それでも綾羽は頷かなかった。
「でも、楼主の言いつけにはもうひとつあって」
「……なに?」
「外で声を聞いていて、姉さんが破瓜したら教えろ、と。郭に来ているお客さんにお酒を振舞って、皆で祝うのだとか」
「……やめて」
恋歌は、思わず悲鳴を上げた。
そんなことされたら、どんな顔して皆に会えばいいのかわからなくなる。
頭を抱える恋歌に、高村晋輔は構わなかった。
「わしが恋歌と床入りするためには、まず善次郎を倒さねばならん。それはわかるか?」
淡々とした口調で、彼は綾羽に問いかける。
「……はい」
「恋歌に執着する奴が、わしらが床入りするのを放っておくわけもないだろう。ということは、つまり、綾羽殿は善次郎との戦いが終わるのを、ここで待つことになる」
「……あ」
そう言われて、ようやく綾羽の顔色が変わる。
勝てるかどうかもわからない戦いに付き合わされたのではたまらない。いくら楼主が怖いとはいえ、さすがに本物の怪物と比較できるほどではないのだろう。
「……わ、私…」
「うむ。皆と一緒にいたほうがいい」
高村晋輔は優しく頷く。
恋歌も穏やかに言い添える。
「それがいいわ。楼主には適当に言っておきなさい。私に騙された、とか」
「騙された?」
「そう。私が破瓜したふりをした……声をあげた……とか」
その状況を想像して、さすがに恋歌は頬を熱く感じた。
そういえば、郭が妙に静かだ。普段なら階下で騒ぐ声でうるさいくらいなのに。
もしかして、皆、恋歌の声に聞き耳を立てているんじゃないだろうか。そんな風に考えて、恋歌は本当に顔を赤らめた。
「とりあえず、本当に床に入って見せるか?」
「は?」
唖然とする恋歌には構わず、晋輔は平然とした表情で腰を上げる。
こいつ、本当に床に「入る」だけのつもりだ。
それ以外、まったく何も考えていない。
恋歌は本気で高村晋輔を睨んだ。
屈辱と怒りで、泣きそうだった。
今は、こんなことで怒ってる場合じゃないのに。
だが、悔しくて本当に泣きそうだった。
それが伝わったのだろう。
綾羽が慌てて腰を上げる。
「だ、大丈夫です。わたし、下に降りて、なんとかうまく言っておきます。お二人は布団に入りましたって……」
そう言って、綾羽は立ち上がり、廊下へ出る。
廊下への障子を開ける。
綾羽は障子を開く。
そこに……見知った笑顔があった。
人を不快にさせる笑みがあった。
善次郎が、そこで笑っていた。




