76.美雪2
2014/1/23 誤字など訂正。
投げ文には、確かに意味がある。
美雪はそれを、強く感じていた。
美雪は口が堅い。
自分でも自信がある。それは自他共に認める美雪の長所であるはずだった。
当然だ、と自分で思う。
何と言っても、美雪には決して明かしてはならない秘密がある。命を懸けで秘密を抱えて生きてきた「筋金入り」なのだ。
秘密を守ることには自信があった。
強情、と恋歌に言われたっけ。
もっとも、それを言うなら、美雪も恋歌に同じ言葉を放ったことがある。返事は美雪が恋歌に対して思ったことと同じ言葉だった。
「あんたには言われたくない」だ。
あれは去年のことだっけ。いや、つい二三日前にも言われたのだ。
それを思い起こし、美雪は小さく笑った。
そのことに自分で驚き、その笑みはさらに深くなった。
びっくりした。まだ、こんな風に笑える余裕があるなんて。
「どうした?」
前に座る楼主が振り返る。
乙名の家。
急遽設けられた取り調べのための部屋。
いるのは美雪。そして楼主に乙名。
そして、特別に呼ばれた役人が二人。
わざわざ乙名の家で調べてくれること自体、珍しいことだ。彼らが本気で美雪を疑っていないことを証明している。同時に、桜泉楼の楼主が役人に鼻薬を効かせられる影響力の持ち主であることも。
笑い声を上げたつもりはなかったが、美雪が笑う気配を感じたのかもしれない。
美雪がうっすらと笑みを浮かべているのを見て、笑う余裕があるのなら、と楼主も安堵したのだろう。彼の口元にも笑みが浮かんだ。
「大丈夫。キリシタンの疑いなどすぐに晴れる。誰も本気で疑ってやしない。どうせお前の人気に嫉妬したどこぞの女の嫌がらせに決まってる」
楼主はそう言って笑った。
それは、役人たちにも聞かせるつもりだったのかもしれない。乙名も楼主の言葉に同意するように、笑顔で頷いている。
そうだ。
どうせ本気で疑われているわけではない。
シラをきることなんて簡単だ。
自分の信仰を隠すことなんて簡単だ。
秘密を守るなんて簡単なはずだった。
「桜泉楼抱遊女美雪 耶蘇教信徒に付 御取調べ戴きたく御座候」
石を包んだ紙にそう書かれ、乙名の家に投げ入れられたという。
当然、乙名は目の色を変えた。
だが、長崎で大量のキリシタンが狩られたのはずっと昔だ。
おそらくキリシタンは皆狩られてしまったか、禁制の宗教を信じるなどという面倒なことはせず、ひっそりと棄教したのだろう。
今さら、それも丸山遊女が禁制の耶蘇教を信じているなんて。
ばかばかしい。
乙名はほとんど信じてはいなかったが、それでも無視することはできなかった。
彼はとりあえず桜泉の楼主に話を入れ、役人立会いの下、確認のための審問を行うことにしたのだ。
楼主も、乙名も、本気で美雪を疑ってはいない。
いつものようにシラを切れば、簡単に帰れるだろう。
美雪は周囲の雰囲気からそう感じていた。
だが。
投げ文には意味がある。
美雪はそのことも重く感じていた。
当たり前だが、ここでは誰も酒など口にしていない。廓の雰囲気とは全く違う。
実は、出張ってきた役人のために、別室に簡単な酒席が用意されているが、この部屋にまでその匂いが漂ってくることはない。
すぐに終わる。
そう思うからこそ、この時間だけは厳しい雰囲気を守ろうとする。
笑みは浮かばない。酒が唇を濡らすこともない。
「お前はキリシタンか」
それは簡単な質問だった。
これまでも幾度も問われ、否定してきた問いだ。
答えは決まっている。それ以外の答えは死を意味するし、隠れた組織の崩壊を意味する。
いいえ。私は総安寺の門徒です。
物心ついたときから刷り込まれた生きるための嘘が、いつものように口をつきそうになる。
それで終わる。
それで帰れる。
簡単なことだ。
だが、それを頭の中に蘇った鮮烈な記憶が制止した。
牙。
紛れもない悪魔の眷属。
いいの?
信仰は、今や決して手放すことの出来ない武器だ。
「どうした。答えろ」
退屈そうに役人が聞きなおす。
彼にとっての興味は別室に用意された酒席に移っている。
この流れでいけば、彼等に酌をするのは無罪放免された美雪になるだろう。いきなり閨を望むのは無理としても、桜泉の人気遊女に酌をされるのは、誰もが羨む役得だ。
だから、簡単な問いに簡単に答えれば、それで終わる……はずなのだ。
美雪の答えは決まっている。
違います、だ。
それは、役人の彼にとってもそうなのだろう。
キリシタンであると認めることは拷問と死を受け入れるということだ。かつて雲仙、島原で死んでいったキリシタンたちは、それを受け入れたが、「隠れた」キリシタンはそれを逃れたのだ。
だからこの質問には、今生きている者なら誰だって「違う」と答える。
逆に、この程度の簡単な質問で嘘をつけなければ、今頃この国のキリシタンは根絶やしにされている。
嘘であろうが、本当であろうが、ここの答えは否定しかない。彼にもそれはわかっていたし、美雪にもそれはわかっていた。
「お前はキリシタンか」
違う、と答えれば絵踏みが待っている。
イエスと聖母の顔を踏む。
何度、それを繰り返しただろう。彼女の足は、幾度、彼女の主の顔を踏んだだろう。
それは許される、と教えられてきた。
そう教えられなければ踏めなかった。
けれど。
いや。
それでも。
だけど。
もし、踏み絵を拒んでいたら、彼女の仲間たちは誰も生きてはいないし、そもそも彼女は生まれてさえこなかっただろう。
生きるための嘘。その嘘を許してもらえると信じて、彼女たちは踏んできた。
この弱い自分たちを主は許してくださる。
でも。
今、屈服しようとしているのは。
彼女が頭を下げようとしているのは、悪魔の手先だ。
それに屈服してなお、神様は彼女を天国に迎えてくれるだろうか。
投げ文に意味はある。
それは、彼女の信仰に対する挑戦なのだ。
ひどい、と美雪は思う。
どうして彼女がひとりでこんな問題に立ち向かわなければならないのだろう。
わからない。
死者は蘇る。もはやそれは明白だった。死者はよみがえったのだ。
ただし、その「奇跡」は悪魔の手によってなされた。
もちろん、神の子は蘇る。だが、それは美雪たちを恐れさせているものとは、まったく異なる力によるものだ。その力は美しく完全なものであるはずなのだ。
だからこそ、美雪の言葉で鬼は退いた。
その力は紛れもない真実の力だ。
ここで同じ言葉を言えば、目の前の役人どもも逃げ惑うだろうか。
駄目だ。目の前にいるのは人間で、オラショで悲鳴をあげたりはしない。目を光らせ、美雪たちをあざ笑い、捕らえ、苛んで殺すだけだ。
「こら」
役人の声に苛立ちが混じっている。簡単な質問への返答に躊躇する美雪に対して、疑念が頭をもたげているのだ。顔を伏せた美雪の背を、後ろから他の男が足蹴にする。
強くではないが、撫でるような力でもない。
「どうした美雪。さっさとお答えせぬか」
楼主も、意外な成り行きに困惑している。
そうだ、否定しろ。
美雪自身が自分の躊躇を押さえつけようとする。
彼女は背中で縛られた手を握り締めた。怒りのためではなく、恐怖のために。
ここで彼女が信仰を口にしたら、彼らは目の色を変える。
酒席はなくなり、終わりのない拷問が始まる。
自分はそれに耐えられるだろうか。
大丈夫だとも。
だが、本当に?
キリシタンに対する容赦のない責め苦は子供のころから聞かされてきた。
おしゃべりな子供が気を許して外部の者に秘密を漏らさぬよう。恐怖は徹底的に心の奥にまで叩き込まれた。それはただひとつの目的のためだった。
見つかるな。ひたすら隠れろ。そして心を隠せ。
そのために骨の髄まで染み渡らせられた恐怖だった。彼らの薫陶のお陰で、彼女はこの歳まで生きてこられた。あの高村晋輔にオラショを聞かれるまでは誰にも秘密を漏らさなかったし、誰に疑われたこともない。
けれど、隠れるための武器としては有効だった恐怖心は、今、役人の前で彼女の心を簡単にへし折ろうとしている。彼女の微かな勇気を砕き、示すべき信仰の強さを溶かし、彼女をただ怯えるだけの小娘に貶めている。
仕方ない。
だって、彼女は怯えるだけの小娘なのだ。それだけの存在でしかない。彼女にそれ以上を期待するほうが無理なのだ。
「私は……」
彼女は俯く。
「ただの遊女です」
「そんなことは知っている」
正面の役人が嗤った。
「で、そのただの遊女はゼズスを信じているのか。それともいないのか」
「私は……」
「私は?」
美雪は答えに窮している。
そのことだけで、美雪は自分を責める。
死にかけた春風が、悪魔の不死性を善次郎に求めたとき、美雪は春風の恐怖を否定した。
生にすがろうとする春風を理解はしていたが、悪魔に屈することが魂を汚すことだと知る美雪には、悪魔の下僕になり下がってまで死を忌避することを許すことはできなかった。
あの気持ちは間違っていない。
死をも恐れぬ信仰は、確かに美雪の中にもある。
あの瞬間、紛れもなくあった。
今だって、美雪の心の奥底には、確固とした信仰がある。美雪はそれを感じている。
けれど。
例えば、美雪がここでキリシタンであることを否定するとどうなるだろう。
確かに彼女はここから解放される。だが、あの鬼を相手に大切な武器を手放すことになる。信仰のない彼女など、巣から落ちた雛鳥よりも無防備だ。彼女は死に、悪魔の手により蘇る。その魂は鬼のものとなり、彼女は天国への道を失うのだろう。
ダメだ。そんなのはダメだ。
でも。
ここでキリシタンであることを肯定したら。
彼女は信仰を確固とした武器に変える。あの吸血鬼を退けることができるのかもしれない。
でも、そうして勝ったとして、そこに待っているのは何だ。
役人の手による捕縛と拷問と死。
しかも、それは彼女だけにとどまらない。
家族の顔を思い浮かべる。
彼女を女衒に売った父や母。けれど、美雪はそれを恨んだことはなかった。他にどうにもならなかったのだと理解している。廓にいる娘のほとんどは、そのことに傷つきながらも両親を恨めずにいる。
家族が助かること。
それに安堵する心があるのも確かなのだから。
彼らが拷問を受けることを望んではいない。まったく望んでない。
何のために戦う。
信仰を守るために。魂を守るために。
でも。
彼女は勝てない。
限りなく続く拷問に耐え抜く自信は、それほど彼女には無かった。
いや、仮に耐え抜いたとしても、その拷問を家族に味あわせたいわけが無かった。父は、母は、耐えられるだろうか。兄は。妹は?弟は?
駄目だ。
あの子達をそんな目にあわせるわけにはいかない。
彼女がここで否定すれば、家族は助かる。
その後、彼女は鬼に勝てるだろうか。
わからない。
でも、勝てなかったとして。
彼女が鬼に殺され、鬼として蘇ることになったとしても。
家族は助かる。
今、ここで自分がキリシタンであることを明かし、信仰を守って、あの鬼をうまく倒すことができたとしても。
そんなのは一時のことだ。
鬼は倒せば終わりだが、役人は次が来る。一生、彼女はキリシタンとして追われる。捕らえられる。そしていずれは棄教させられる。同じだ。
しかも、彼女の兄弟も。両親も。そして同じ村に住む同じ信仰を持つものたちも。
皆、狩られて殺されてしまう。
美雪はそれに耐えられない。
そんな地獄を、自分の手で引き起こすことはできなかった。
美雪については、もう敗北が決まったようなものだ。
では。
答えは。
「答えは」
ついに声に苛立ちをこめ始めた役人が、棒で美雪の体を小突いた。
伏せた美雪の胸に、着物の隙間から棒の先端を押し込む。そして胸の先端を探るように動かした。下卑た笑い声が美雪の頭上から降り注ぐ。
湧き上がる怒りと屈辱を表情に出さないようにしながら、美雪は答えた。
「私は。私は総安寺の門徒です。キリシタンではありません」
ふむ。
面白くなさそうに役人が頷く。
予想された答え。驚くようなこともない。
「では、こちらへ来い。絵を踏んでもらう」
美雪は顔をあげた。
どんな顔をしているか、自分でわからなかった。
だが、取り調べの男たちが特に目をむくようなこともなかった。
きっと平静を保っているのだろう。
男たちの言うとおりに彼女は立ち上がった。
男たちの案内に従って、彼女は絵踏みの部屋へ行った。
そして、
男たちの指示通り、
彼らの前で、
聖母マリアとその子の顔を。
踏んだ。




