74.美雪
二階に上がった美雪は、自分の部屋を片付けた。
今日の彼女は暇だ。彼女の客から、今夜は家を抜けられない旨連絡があったのだ。
あるいは、ここ数日の恋歌の騒ぎに巻き込まれた自分にも、面倒な噂が広まっているのだろうか。
その可能性は否定できない。楼主の苛立ちが募るわけだ。
とはいえ、今夜に関しては、自由な時間は、美雪にとっても都合がいい。
美雪や恋歌にとっての今夜の一番の問題は、どうやって今夜一晩、吸血鬼を退けて生き残るか、だ。
懐の小さな十字架を布の上から触る。それは彼女の一番の武器なのだ。
一緒に触れた細く固い棒。春風の銀の簪。
「そういえば銀の武器は有効だって言ってたっけ」
美雪は呟き、これは後で恋歌に渡してあげようと思った。
鋭い簪は凶器にできるかもしれない。信仰を武器にできる自分より、恋歌の方が武器を必要としているだろう。
部屋の片づけはすぐに終わった。
今の美雪には、専属のカムロがいるし、彼女はこまめに部屋の片づけをしてくれている。
それでも、美雪の神経の細かい部分が少女の仕事のアラを見つけてしまう。本当は、アラというほどではないのだろう。だが、櫛の置き方。鏡台にかけた覆い。自分がつい先日までカムロだった時のやり方を思い出してしまうのだ。だから勿論、直すのは「そっと」だ。少女の片づけが間違っているわけではないし、手抜きをされているわけでもない。
小さな手直しを終えてから、彼女は階下に降りてみた。
そこで美雪は、カムロが何か楽しげに話しているのに気付いた。
桜泉楼一階。大勢の客や部屋を持たない遊女が食事をとり、酒を飲む。もちろん、「二人でやるべきこと」は、奥の部屋で順を待って行うことになるのだが。
人が集まる場所には、更に人が集まる。
特に用事のない遊女たちも、暇を持て余すと、ここで話に花を咲かせるのだ。珍しい光景ではない。
だが、カムロや遊女たちを集めた中心にいるのが姉女郎の楓なのを見て、近づかない方がいいかな、と美雪はきびすを返した。
皆に好かれる姉女郎。
それはつまり、いつでも騒ぎの中心にいるということでもある。
人目を引くのを忌避する美雪にしてみれば、距離を置きたい相手ということでもある。もちろん、嫌いというわけではない。むしろ好きだ。自分の姉女郎なのだし。面倒見もいい。話していて楽しいし。そして目下のものには優しい。
そう。好きだ。
が、今は話したい気分ではなかった。
美雪は、人垣から出てきたカムロの一人に声をかけた。
「何してるの?」
美雪の口の堅さには定評があるから(そりゃ、命賭けて鍛えてきた筋金入りだもの)、カムロたちも大抵の噂話を話してくれる。
「賭けをやってるんです」
「賭け?」
「はい」
賭の内容はこうだ。
桜泉楼の恋歌太夫を、高村晋輔は生きている間に抱くことができるか。
六対四で今のところ高村晋輔の童貞(?)は今夜中に失われることが予測されている。多少性格と挙動に問題はあるが腕だけは立ちそうな侍が、一大通過儀礼を目前にむざむざと殺されはしないだろう、というわけだ。相手は美貌の太夫。ぶらさげられた餌は、男を死にものぐるいにさせるくらいには大きい。
というわけで、賭は、桜泉楼だけだなく丸山遊郭全体に広まり、普段なら賭にのらないような者をも巻き込んでいるという。
可哀想に、と美雪は思った。だが、楓は妹女郎の不運を憂うこともなく、珍しい話題を楽しんでいるようだった。
そして、その目が妹女郎を見つけた。
「こっちに来なさいよ、美雪」
大声で楓が呼ぶ。
美雪はため息をついて、姉女郎のところに歩いていった。
輪の中に入ると、楓は楽しそうに訊いてきた。もう美雪が詳細を聞いたのがわかったのだろう。説明もせずに、いきなり訊いてきた。
「あんたものる?」
「いや、あたしは……」
「のんなさいよ」
と、楓は美雪の腕を引いた。
「今のところ、あのお侍が本懐を遂げる方に賭けてる人が六対四で多いわ」
高村晋輔にとって「本懐を遂げる」とは敵を討つことのはずなのだが、楓はそんなこと考えていないのだろうな、と美雪はため息をついた。楓には見せないように、胸の中にそっと吐息を落とす。だが、美雪の、そして恋歌の姉女郎だけあって、楓は美雪のため息に気付いた。
「自分だけいい子ぶってもダメだからね。話を聞いた以上、あんたも賭けに参加するのよ。で、参加したらもう共犯だからね」
堪えきれない笑みを顔からあふれさせながら、楽しそうに楓は美雪に詰め寄る。
閉口しながら、美雪は頷いた。
「まぁ、いいですけど」
「で、どっちにする?恋歌の処女は今日失われ、江戸から来た侍は男になるか?」
「恋歌はともかく、高村様が女を知らないとは……」
「知らないに決まってんじゃないのよ」
楓はケラケラと笑いながら、手を振って美雪の疑問を一蹴した。
「あの暗くてくそまじめな顔が女を知ってる顔だと思う?」
わっ、と笑い声があがる。
そんなのわからないじゃない、とは美雪も言わなかった。まあ、多分、楓のいうとおりなのだろう。
「どっちにするのよ」
「今夜は……多分、できないんじゃないかな」
鬼と対決するのだから、そんな余裕はないだろうと美雪は考えたのだが、勿論、楓はそうはとらなかった。
「意外と冷たいね、美雪。あのお侍も今夜限りの命だと思っているんだ」
「そうじゃないけど」
「そう考えてる奴も少なくないけどね。だから賭けが成立してる」
楓はさらりと言った。
「美雪」
そう自分を呼ぶ声に、美雪は振り返った。
楼主だ。
「ありゃ、邪魔が入ったわね」
と、楼主にも聞こえる声で、楓はしれっと言ってのける。
楼主も賭けの話を聞いているのかもしれない。
話題の中心にいる楓のはしゃぎ過ぎには慣れているのだろう。
それもまた、楓が人気のある太夫である理由の一つだった。楼主も今さらそんなことで責めはしない。
「行っておいで。話が終わったら、またおいでよ」
楓も笑顔で美雪を手放した。
「美雪」
「はい」
もう一度楼主が呼ぶ。恋歌なら思い切りいやな顔をするのかもしれないが、美雪はそんなことはしない。そもそも、廓の女が好き嫌いを顔に出していたら商売にならない。そんなのが許されるのは、よほどの美貌を誇る恋歌みたいな奴だけだ。それに、どれほど相手に悪感情をもっていても、それを隠すくらいのことは美雪には造作ない。隠すことなら、美雪は得意だった。
そう思っていた。
「ちょっと来い」
「はあい」
美雪はいつものように笑顔を顔に張り付けると、楼主の後をついて楼主の部屋へと向かった。楼主は何も言わず、美雪の笑顔もぎこちないながらも維持し続けていた。
それは楼主が胡坐をかき、美雪に座るように勧めたときも変わらなかった。
彼が要件を言うまでは。
「美雪、お前がキリシタンだという奴がいるそうだ」
と、楼主は言った。




