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65.遊戯に興じるもの

 例によって、目覚のきっかけは、強烈な渇きだった。


 首を締め付ける自分の右手を意志の力で下ろし、彼女は夜の到来に安堵する。乾いた眼球に貼り付きそうな目蓋を開きながら、寝台の上で上体を起こす。

 苦痛に満ちた目覚めだったが、周囲に目をやった彼女の唇は、笑みに綻んだ。


 そこにはゼンジロウが倒れていたのだ。


 近い。

 それは、あと数歩で彼女に届く位置だった。


 昨夜この部屋に現れたこの男は、怒りにまかせて彼女に詰め寄ろうとした。

「どういうことだ」

 それは、彼女が彼の意向を無視して、あの小娘にちょっかいを出したから。あの春風とかいうくだらない女にちょっかいを出させたからだろう。

 だが、もちろん、謝罪はしない。男の怒りも、彼女には愉快なものに思える。

 とはいえ、男に不死を与えた「主」に対する不遜な態度を、看過することはできない。

 彼女は唇の端を吊り上げ、この男に「怒り」をぶつけた。

 言葉ではない。声でさえない。それはただ見えない波となって大気を揺らし、近づく男を打ちのめす。

 彼は苦痛に目を閉じた。

 だが、倒れない。悲鳴もあげない。惨めたらしく彼女の寛恕を請うこともしない。

 もう一発。

 呻き、男が膝をつく。

 愉快で、彼女は肩を震わせる。

「ふざけやがって」

 と、男が言う。

 だからもう一発。

 男が憎々しげに彼女を睨みながら、倒れ伏す。

 もう一度。

 さらにもう一度。

 男があげた顔には、それでも怒りが残っていた。

 

 それが腹立たしくて、もう一発。

 それが嬉しくて、もう一発。

 彼女は楽しくなっていた。

 やがて朝が来て、自身が「眠る」まで、彼女は動かなくなったゼンジロウに、打擲を与え続けた。



 日が昇れば、吸血鬼は動けない。

 陽光に当たれば、不死性は失われ、不死身の肉体はぼろくずのように滅びる。

 だが、それでも、この男は動いたのだ。それがこの距離の意味するものなのだ。

 もちろん、ここに陽光は当たらない。

 だが、空に忌々しい太陽が昇った時間、吸血鬼が見えない太陽に押さえられ、苦悶の眠りについている時間。

 この男は、苦悶に呻きながらも、自らの意志の力で僅かでも前進したのだ。

 昨夜、呪いを与えた絶対的主である彼女から「怒り」を繰り返し叩きつけられた、この下僕に過ぎない男は、それでもここまで彼女に迫ったのだ。

 その精神力に彼女は感歎し、満足する。

 小さな微笑を浮かべ、彼女はその身を霧に溶かし、ゼンジロウを見下ろす位置でその霧を再び肉に結実させる。

 男はすでに目を覚ましていた。

 なんということだ。

 あれほどの「圧力」に対してなお、この男は自分の意思を見失わない。

 自分を吸血鬼にした「主」の意思は、「下僕」にとって絶対だ。その怒りを買うこ

とは天の罰を受けることに等しい。繰り返される「打擲」の前では、自らの怒りなど

吹けば飛ぶように軽いものでしかない。

 それなのに。

 横になった男は、昨夜と同じ視線で彼女を射殺そうとしていた。

 久しぶりに感じる心の躍動を、彼女は愛おしく思う。

 実際、この数日は、久しぶりに世界にさざ波が立っていた。

 永遠に続く苦痛に満ちた平穏。

 渇きと倦怠にはちきれんばかりの絶望。


 それが。


 今や彼女を憎む男がいる。


 自らの意思で彼女に対峙し、彼女と永遠を刻める意思を持った男がいる。


 そして、敵の登場。

 すべてが愉快なゲームのように配置されている。

 まるで彼女を退屈させないように。


 だから。

 彼女は幸せだった。


 彼は怒っている。

 彼女は怒っている。

 下僕のくせに主に歯向かう身の程知らずに、彼女は非常に腹を立てている。

 そして同時に、彼女は喜んでいる。

 自我を崩壊させるほどの渇きに平然と耐え、彼女を睨み続ける強靭な精神力の持ち主が目の前にいることに。


 ゼンジロウが昨夜味わった恐怖と不安を彼女は知っている。

 もちろん、そのままではおかない。

 今夜、彼女はその小娘を屠るだろう。

 同時に、ゼンジロウは、自分を狙う追っ手を返り討ちにする。


 相手は不死の肉体を滅ぼす方法を知ったという。

 そのことを告げた時、ゼンジロウは怖れてはいなかった。

 身の毛もよだつ不死を手に入れたのだ。

 今更死など怖れるほどのものではない。


 何を怖れる?


 炎か。

 それは信仰によらない浄化の力。


 人間にとって、それは、熱と光にすぎない。

 だが、この呪われた身には、過剰なまでに圧倒的な殲滅のわざになる。

 だから、その存在は常に感じられる。


 だが、だからこそ。

 呪われた身には、その存在は常に感じることができるのだ。

 距離を無視して。


 光と熱にすぎぬ存在を、明確な脅威として。

 そして、明確な……刃として。


 ならば。


 彼女は嗤う。

 そして、下僕に教える。


 単純なこと。

 触れられぬものを消す方法を。

 彼女を睨み、憎む、彼女の……愛すべき……下僕に。


 下僕は笑った。

「なんと単純な、くだらない話だ」

 彼女も笑った。

 最後の夜。

 その始まりに、主は下僕とともに嗤った。


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