64.出島にて7
恋歌は、間違えた。
ただ、世界で通商するオランダ人の知識を借りたいのなら、恋歌は臆することなく堂々と聞けばよかった。耶蘇教については何も知らない「普通の」日本人であるのなら、それはおかしなことではない。
だが、恋歌はそれをしなかった。
無理もない、と自分で思う。
恋歌は、美雪が吸血鬼善次郎を信仰の力で退ける光景を見た。だから、恋歌は吸血鬼に抗する力と耶蘇教の信仰を同一のものとして考えたのだ。
美雪の信仰を世間に明かすわけにはいかない。
だから、恋歌は隠れ、他の者に聞かれない状況を作り、他の者には聞かれたくない話としてあの商館員に問うた。
それはつまり「日本人として聞いてはいけないこと」を聞こうとしていると相手に教えた。「恋歌を唆した誰かは普通の日本人の知らないことを知っている」、とオランダ人たちに教えてしまったのだ。
だが。
それはいけないことなのか?
切支丹同士は助け合うものではないのか。
恋歌には、その前提が判断できない。
もちろん、美雪は保証はしなかった。保証はできなかっただろう。そもそも美雪はオランダ人と会話したことがないのだ。
それでも、自分と同じように慈愛に満ちた神を信じる者同士は、イザとなれば助け合える、と彼女は信じていたように思う。
恋歌が切支丹と係わり合いになることを諌めてくれながらも、オランダ人が拒絶することは想定していなかった。
恋歌も、だ。美雪と同じ信仰を持つ人々なら、美雪と同じような優しさがある、と信じていた。不覚にも。
「結論から言えば、吸血鬼は、君が考えるようなものに確かに弱い。だが、我々がそれを提供することは出来ない」
答えは……拒否。
いや、これは拒絶だ。
恋歌は、顔色が今度こそ誤魔化しようもなく顔色が変わるのを自覚した。
だが、駄目だ。
ここで引くわけにはいかない。
緊張と恐怖に咽喉が干上がるのを感じながら、恋歌はかろうじて口を開く。
「待って……」
「構わない。待ってあげよう。ゆっくり話しなさい。
だが、答えは変わらない。
私が提供できる時間は、君があきらめるための時間だ」
「……待って。
教えてください」
声が震える。
体が震える。
何故だろう。
寒いのだろうか。
こんなに体が震えるなんて。
きっとそうだ。とても寒い。
だって。
怖い。
「必要なの。どうしても必要なの。
その答えを待っている人がいて……私も必要としてる。……ううん。私が一番必要としてるのかも」
「必要……かね?」
カピタンは、今度は恋歌のとぎれとぎれの言葉を小百合が逐一通訳するのを聞いてから短い問いを発した。
「必要なんです」
「そうかね?」
「……どういう意味?」
「私はその点について大きく疑念を感じている。君は、本当は、そんな答えを欲しているのではない。吸血鬼の滅ぼし方など、本当は私が提供する必要もない。
違うかね?」
「……なによ、それ。何の話よ」
相手の言う意味を計りかね、恋歌は眉をひそめた。
だが、カピタンは、恋歌の問いには答えなかった。
沈黙。
静かに恋歌を見つめ。
だが、恋歌の言葉を待つのではなく。
恋歌にどんな感情も向けることなく、静かにカピタンは時間を流した。
やがて。
ひどく穏やかな口調で語りだした彼の言葉を、小百合が通訳した。
「…我々はこの国に商売をしにきた。信仰を広めるためにではなく。
だから、たぶん、私は君たちの役には立てないだろう。
帰りなさい。
せめて。
今回だけは、私の推測は誰にも話さないでいてあげよう」
「私たちに死ね、というの?」
「死ぬ、ことがあり得るのか?」
「だから、何の話よ?」
恋歌は小百合の顔を見たが、小百合は恋歌から目を逸らし、彼女の考えを隠していた。
小百合はわかっている?
カピタンが言いたいことを、彼女は理解しているのだろうか。
恋歌はこのオランダ人の代表者に拒絶された。
それは理解できる。
だが、この違和感はなんだろう。いや、不快感と言ってもいい。
何か、自分たちの会話はひどく噛みあっていない、と恋歌は感じた。
「カピタンは鬼の話を信じていないわ」
小百合が恋歌の方を見ないようにしながら、囁くように小さな声で言った。
「え?」
「カピタンは信じていない。あんたが切支丹で、耶蘇教のことを知りたがっているか、助けてほしがっているか。たぶん、この人はそう考えているのだと思う」
「……違うわ。私は本当のことを言ってる」
「……そうね」
「わかるんなら、あんたからも言ってよ!私が嘘なんか言ってるわけじゃないって」
「たぶん、無理だと思う」
「なんで!?」
「さっき、言ったでしょ?」
「……何を?」
そう問い返した恋歌は、しかし、つい今しがた小百合に通訳されたのカピタンの言葉を思い出した。
……我々は商売をしに来た。信仰を広めるためにではなく。
それは、彼らの信仰がどのようなものであれ、この国の権力者とその点で争うつもりはない、ということだ。
苦しんでいるキリシタンを助けるより、表面的に日本の役人の歓心を買いながら通商を維持することを優先するということだ。
つまり、必要があれば、あるいは商売に必要なければ、この国のキリシタンを見捨てることも厭わないということなのだ。
「……なによ、それ」
「帰りなさい」
「……待って。あの子は信じていたわ。キリシタンは助け合うはずだって」
小百合の通訳に対して、カピタンの返事には間があった。
「あの子、とやらが誰であるかを私は聞かない。私は何も聞かなかった。だから、せめて役人に通報することはしないであげよう」
「教えてくれるだけでいいのよ」
「私は二度断った。君の唇から三度同じ問いが発せられたら、私は役人を呼びに行く。それが私のこの島での仕事だ」
彼は沈痛な表情を維持していたが、謝罪の言葉は出てこなかった。
恋歌は口を開いた。
おそらくは答えを知っていそうな異国人を前にしておきながら、何も得ることなく帰ることはできなかった。
息を吸う。
……教えて。知らないままでは、私は帰れない。
そう言おうと、息を吸う。
心を強く固める。固めようとする。
「……」
だが、その言葉は出てこなかった。
カピタンが見ている。穏やかで優しそうに見えるこの男が、しかし、ただ優しいだけの男ではないことを恋歌は感じた。
美雪のことを考える。
彼女には秘密がある。
彼女はこの国を敵に回しているのだ。
いや、この国の権力者たちを、だ。
本当は美雪自身は優しい女だ。誰かを傷つけたり、権力者に刃向ったりするような性格ではない。ただ、その彼女の信仰を認められない連中がいる、というだけの話だ。
だが、その連中が彼女の信仰を知れば、彼女は捕えられる。
彼女の家族も。
あるいは彼女と同じ村のたくさんの信者たちが。
そして拷問を受ける。
恋歌はその状況を想像して震え上がる。
駄目だ。……そんな責任、私にはとれない。
だが、このまま手ぶらで帰ることもできない。
この男の意思を強引に変えることはできないだろうか。
だから、恋歌は高村晋輔のことを考える。
彼は言った。
「刀を突き付けてでも聞き出してやる」と。
恋歌は刀を持っていない。この大柄な異国の男を素手で組み伏せられるはずもない。
恋歌は周囲を見渡す。
食器がある。
陶器のとっくりがある。
それらは、割れば凶器になるかもしれない。それを突き付ければ、カピタンに命令できるだろうか。
「やめておきなよ」
低く、押し殺したように小百合が言う。
「あんたみたいな女が紅毛人に勝てるわけないよ」
「……」
それはそのとおりなのだろう。
スヴェンほどではないが、このカピタンも大柄な男だ。
きっと、スヴェンと同じように、体に巻きつけられた布団の端に重りとして横たわった女を寝台から転げ落とせる力を持っている。
初めから短刀でも懐に忍ばせていたのならともかく、何の準備もないまま、いきなり周囲のものを凶器に代えて襲おうとしても、この大柄な異国の男を屈服させられるとは思えない。
「帰りなさい。それが君たちにとって唯一の選択肢だ」
そう優しく微笑んだカピタンが、実際には自棄になった遊女が他の商館員たちに話しかけないように監視することを考えているのだと恋歌にはわかった。
……失敗するなんて。
出島に入れる阿蘭陀行にまでなりながら、何も得ることなく、手ぶらで帰ることになるなんて。
今夜、再び鬼は現れるだろう。
それを万全の態勢で迎え撃ってやれる、とつい先ほどまで信じていた。
太陽が世界を照らしている間の自信は、夕闇とともに薄れ、外の暗くなった今ではひどく心細い。
それでも、「火」に弱いことだけは間違いがない。
それと美雪の信仰があれば、絶望的な状況ではないはずだ。
恋歌はそう思ったが、今ではすべてが悪い方向へ転がってゆく予感が、恋歌の体を震わせていた。
恋歌はもう一度カピタンを見つめる。
彼の翻意が必要だった。
だが、それはもはや望めない。
「表門まで送ってあげよう」
そう言ってカピタンは立ち上がり、恋歌と小百合を部屋から出した。
人の姿のない出島の通りに出る。
それから、恋歌と小百合を先に出し、表門へと歩かせる。
トーマス・ファン・ラヘーは限りなく薄くなった笑みを口の端にのみ残し、恋歌に告げる。恋歌はそれを振り返ることなく聞いた。
「桜泉楼の恋歌を出島が呼ぶことは二度とないだろう。今日のことを我々は忘れる。君も忘れ、郭での仕事に励みなさい。君の幸運を祈っている」
さようなら、と小百合がカピタンの通訳を結んだ。




