63.出島にて6
商館長の執務室は取り立てて大きくはなかった。
机と椅子があり、いくつかの調度品が配置されてはいるが、むしろ質素な様子でさえある。もちろん、そのひとつひとつが日本人に見慣れたものとは趣が違っていて、恋歌には目新しくはあった。
カピタンは執務机に座ると、正面に恋歌と小百合を座らせた。
スヴェンはいない。
彼はこの部屋には入らず、恋歌たちをここまで案内すると、彼女たちに扉を開けて中へ入れ、それからカピタンに一礼して去ろうとする。彼には一緒に来てもらってふざけた雰囲気を纏ったまま、場を明るくしてくれればと願っていた恋歌は、慌てて彼の手を掴もうとしたが、彼は扉の外で恋歌たちに手を振ると扉を閉めた。
「座りなさい」
閉ざされた扉の前で立ちすくむ恋歌の背に、カピタンは声をかけた。
小百合が低い声で通訳し、恋歌はこの人工島における責任者を振り返った。
トーマス・ファン・ラヘー。
大柄で赤ら顔の紅毛人。いや、顔が赤いのは酒を飲んでいたせいかもしれない。
「改めて見ると、確かに美人だ。こうして話す機会を得られて嬉しい」
小百合はそう彼の言葉を通訳した。
彼が執務机の前の椅子を指し示し、恋歌たちは言われたとおりに座る。
「スヴェンから聞いたよ」
カピタンは笑顔だった。
ただし、スヴェンと同じ、うっすらとして消えそうな笑み、だ。
真意のわからない笑顔。
「彼の話では、私が話を聞いた方がいい、ということだったが?」
それは、恋歌の意見ではなかった。
だが、ここでそれを指摘しても話はいい方向には進まない。
恋歌は少し頭の中を整理してから、ゆっくり話し始めた。
長崎の町に血を吸う鬼が現れたこと。
自分はそれに狙われていること。
だから、オランダ人にその対抗策を聞きたいのだということ。
カピタンは恋歌のたどたどしい話し方と小百合の通訳を遮ることなく、最後まで沈黙を守り続けた。
さして長くもない話が終わっても、カピタンはすぐには口を開かなかった。
机の上で両手の指を組み、穏やかな笑みを浮かべたまま、恋歌を見つめた。
目を伏せ、あるいは視線を天井に向けたりもしたが、その笑みが消えることはなかった。
やがて、彼は答えではなく、質問で返事を返した。
「何故、君は出島に来た?」
小百合に通訳された問いかけに、恋歌はその質問の真意を図りかねた。
男に抱かれに来たくせに、余計な質問をして仕事をさぼるな、とでも言いたいのかと考えたのだ。
だが、カピタンの表情にこちらを責めるような厳しさはなかった。
悪意はなく、他意もなく、ただ世間話でもするような気軽さだ、と恋歌には感じられた。その言葉を直接には理解できなくても、彼の穏やかな口調に叱責は感じられなかった。
「それは……仕事だったし……でも、吸血鬼について知りたいと……」
「我々なら、吸血鬼について知っていると思ったのだね。だが、何故そう思ったのだ」
「何故?」
再び、何故、の問いかけ。
やはり恋歌にはその真意がわからない。
小百合の顔を見るが、小百合も何の説明をくれるわけでもなかった。
困惑する恋歌に、カピタンは言葉をつづけた。
小百合は表情を消して、その言葉を通訳する。
「何故、オランダ人なら吸血鬼を倒す術を知っていると考えた?」
「そりゃあ、世界で貿易している人たちなら、私たちの知らないことでも知っていると……」
「知っていると考えた、か?そうだろう。それは自然な話だ」
カピタンは小百合の通訳を勝手に引き取り、問い返す。
そして、その答えを待たないまま結論を出し、自分の中の応えに頷いた。
「ありうる。うん。それはありうる話だ。
鎖国している日本人より、我々の方が世界の情勢にははるかに詳しい。その知識の中の一つに吸血鬼の倒し方があってもおかしくない」
彼は納得した。
自分の感じた疑問はすべて氷解したとばかりに頷いた。
それから、眉を寄せて言葉を続けた。
だが、と。
「だが、それなら何故、君たちは堂々とそれを聞きに来なかった。何故、君たちはそれを日本人の前で聞かない?」
「それは……」
また、何故、だ。
だが、それは聞くまでもない、当たり前のことだった。
一般の人間がオランダ人と会話することは出来ない。
その例外が遊女であるとはいえ、堂々と聞きにくることはできない。
なんといっても、この国では耶蘇教は禁制なのだ。
そう頭の中で当然の説明を組み立てた恋歌は、相手の言おうとしていることを理解した。
……しまった。
「日本人に聞いてもわからない。だからオランダ人に聞く。それならわかる。だが、君は、日本人の前ではその問いを発しなかった。何故だ?」
「それは……」
それは、日本人に聞かせてよい問いではない、と恋歌自身が考えたからだ。
恋歌自身が「誰にも知られてはいけない秘密の存在」を抱えていたからだ。
しまった。
恋歌は最初の一歩を間違えた。
カピタンは静かな口調で言葉を続ける。小百合はそれを同じように静かな口調で訳し続けた。
「スヴェンは、あんな男ではあるが、意外に聡い男だ。仕事も出来るし、目端も利く。
商館員として得がたい人材である」
くそ。
あのチャラチャラした感じに騙された。
恋歌はほぞを噛んだが、もう遅い。
笑顔を消した恋歌に、それでも穏やかな笑みを浮かべながら、カピタンは続ける。
「私たちは吸血鬼と対峙するのに、信仰を盾にする。神を信じる心こそが、吸血鬼を退ける最大の武器だからだ。十字架。聖水。聖句。だが、それらは信仰がなければ意味がない。
逆に、信仰は悪魔に対する最大の武器だ。神を心から信じる者は、その信仰心を盾に悪魔と対峙できる。
それは吸血鬼であっても変わらない。
だが。
君たちは何故、それを知っている。
誰が君たちにそれを教えた」
「……」
答えていいのか?
恋歌は言葉を失う。
動揺を見せるわけにはいかない。平静を装う表情の奥で、自分が相手に与えた情報と与えるべき情報を整理する。
同時に、カピタンの顔色が変わる理由を考える。
吸血鬼は十字架に弱い。
今の恋歌はそれを知っている。
耶蘇教の信仰が鬼を退ける強い武器になる場面を、その目で見てきた。
だから、実は美雪と同じ神を信じているというオランダ人に教えを請いに来た。
だが、そのこと自体が、目の前のオランダ人に教えてしまったのだ。
恋歌が背中に隠したはずの隠れキリシタンの存在を。




