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62.出島にて5

 決してお目にかかることもないと諦めていた丸山一番の美貌とされる遊女。その口から聞かされた言葉に、スヴェンは不快そうではなかった。むしろ気に入った遊女ときちんとした会話ができると喜んでいるようにさえ見えた。


 ヴァンピール。

 と、スヴェンは笑顔で言った。

 それが吸血鬼のことらしい。


 笑顔。


 ちょっと困ったような顔。

 困っている。

 だが、だからと言って、本気で拒絶するような度合でもないのだろう。

 柔らかな苦笑を浮かべ、恋歌の顔を覗き込む。

「吸血鬼?」

「はい」

「吸血鬼が現れる?」

「……はい」

 小百合の通訳に、恋歌は頷く。

 それを見て、スヴェンは更に笑った。


 ふと、恋歌は気づいた。

 これは、子供が幽霊を怖れて便所にいけないときに、大人が見せる顔だ。

 もちろん、幽霊がいないとは言えない。あるいはそれは確かに暗闇に潜んでいるのだろう。夜に待ち構えているのかもしれない。

 だが、暗闇の気配すべてが、恐ろしいものであるわけではない。

 一見幽霊だと思われるもののほとんどは勘違いだ。例えば風。あるいは猫や鼠の気配。

 そもそも、そんなことを気にしていたら、大人は生きていけない。多くの場合、夜には布団の中に潜ってじっとしていれば、朝には気配も恐怖も消えてしまう。

 だから、気にしても始まらない。

 これはそういう笑顔だった。

 あんまり本気にしてはくれていないのかもしれない。


 だが、それでも恋歌が望んでいるのは信用ではなく、答えだった。

 だから、子供をあやすような相手の態度にもへそを曲げることなく、恋歌は微妙な笑顔を維持して言葉を待っていた。それに応えてスヴェンは続ける。

「……吸血鬼が苦手とするものといえば、やっぱり太陽。日光に当たると灰になってしまう、とされている」

 小百合がそう訳し、恋歌は納得する。

 太陽。

 だから、夜にしか出ないのか。

 だが、そもそも夜にしか出ない鬼に日光を当てるのは無理だ。

「それから、大蒜≪にんにく≫がだめだ、とも聞く」

 大蒜?

 それは初耳だった。いいことを聞いた。

「しかし、何と言っても……」

 早口で通訳する小百合が言葉を止める。

 それは、スヴェンが言葉を止めたからでもあった。


「……スヴェン?」


 スヴェンは固まっていた。

 天井を見あげ、不意に言葉を止めた。

 ここ数日、誰かのそんな表情を見たときには、大抵ある人物が突然現れてくる。

 思わず恋歌はスヴェンの視線を追ったが、さすがに天井に善次郎は現れなかった。

 小さく安堵した恋歌を、スヴェンは黙って見つめ、微笑む。

 静かに微笑んでいる。

 けれど、恋歌は気づいた。その微笑は消えてしまいそうなほどに薄くなっている。

 その値踏みするような視線で恋歌を見つめたまま、スヴェンは動きを止めている。


「……どうしたの?」

 恋歌はそっと彼に寄り添い、甘く問いかける。

 だが、スヴェンは答えなかった。

 恋歌は彼にのしかかるように体を乗せ、顔を近づける。

「ねえ……んっ」

 質問を繰り返すことはできなかった。そのとき、不意にスヴェンは起き上がったのだ。

 体を覆っていた布団をめくり、その重りになっていたはずの恋歌を事もなげに跳ね上げる。

「ちょっ……」

 っと、待て。

 そう文句を言う間もなく恋歌は転がり、寝台から落ちた。


 スヴェンは立ち上がった。

 

「ったあ……」

 恋歌は寝台の下からスヴェンを睨みつける。

 腰を打った痛みに顔をしかめ、立ち上がった異国の男に怒りをぶつけた。

「ちょっと。起きるなら、そういってくれないと」

 自分の体重で相手を押さえつけようとしていたことは口に出さず、恋歌は抗議した。

 小百合は落ちた恋歌を見て笑っていた。

 その小百合が通訳しなくても、恋歌が文句を言っていたのはわかったのだろう。スヴェンは発音のおかしな日本語で謝罪した。

「ああ、ゴメンナサイ」

 立ち上がった彼は、床の上の恋歌に手を差し伸べる。そうして、恋歌の手を取ると、彼女の体を軽々と起こした。

 続いて言った彼の言葉は、恋歌にはわからなかったが、ひとつだけわかった単語を含んでいた。

 カピタン、だ。

 小百合が通訳する。

「カピタンのところに行こう……って言ってる」

「え?」

「カピタンの方が詳しいからって……」

「詳しいって……」

 せっかく二人に、いや、三人になったのに。

「知っていることを教えてくれればいいって言って」

 恋歌は言い、小百合はそれを訳したが、スヴェンは恋歌に向けて首を左右に振った。


   *


 居住空間のある倉庫に向かった時も感じたことだが、本当に人がいない。

 もともとオランダ船が入港しておらず、人がいない時期であることに加え、人気の遊女を迎えて、ほとんどすべての人間がカピタン部屋に籠ってしまっているらしい。

「滅多に入れない場所だから、入り浸ってるの?」

「カピタン部屋に?」

「そう。特別な客を迎えた時にしか入れないんでしょ?」

「え?商館員は食事はあそこで食べるんだよ」

 しれっと、小百合は答える。

 さっきと言っていることが違う。

 カピタン部屋に入る恋歌に「さすが桜泉の恋歌だね」なんて言ってたのに。

 どうやら恋歌は、このやたら出島に慣れすぎたカムロにからかわれたらしい。

「あんた、タチ悪い」

「なにが?」

 しかも、覚えてもいない、ときた。

「まったくタチ悪い」

 と、恋歌は呟いた。


 トーマス・ファン・ラヘー商館長は、まだ部下たちと歓談中だった

 数人の遊女が彼らに交じって酒を注ぎ、笑い声をあげている。


 スヴェンは、恋歌を入り口に残して、カピタンのそばに近寄った。

 体調を崩して寝室に戻った部下が戻ってきたことにカピタンは驚き、笑顔を浮かべた。

 優しそうな男だった。

 だからといって御しやすい男だとは限らない。

 一介の遊女が出島の商館長相手に何ができるのか、という話ではある。

 だが、少なくともいきなり高圧的に振る舞われるよりは気が楽だ、と恋歌は思った。

 そのカピタンはスヴェンの話を聞いて、軽く眉をあげる。

 少し驚いた様子ではある。だが、笑顔を消してしまうほどではない。

 大丈夫。

 彼はきっと話してくれる。

 彼は美雪の仲間なのだ。

 恋歌はそう信じることにした。

 カピタンはやがて笑顔で近づき、執務室に来るように彼女を誘った。


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