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35.拉致2

 劇的な登場の割に、本人にはあまり気負った様子はなかった。

 春風を制止し、自分はゆったりした足で歩み出る。それでも、気を抜いているようには見えない。流石に状況はわかってくれているらしい。

「大丈夫か?」

 高村晋輔は例によってあまり表情の豊かでない顔で、恋歌の顔を見た。

 大丈夫ではなかった。

 全然。

 安堵といきなり膨れ上がった感情が爆発して、恋歌は泣き出しそうだった。それは、自分でも今まで気づかぬうちに抱えていた不安だった。

 不安だった。怯えていた。もちろん、それは知っていた。見知らぬ男たちに拉致され、命を脅かされていた。怯えないはずがない。

 それでも、その強さは恋歌自身が意識していないほどだったらしい。

 打ち着せない恐怖。不安。それらを消してくれた安堵。感謝。

 それを全部押し殺し、恋歌はひとつだけ訊いた。

「なんでわかったの?」

「道を行く人が騒いでいた」

「……そう」

 確かに人目をはばからない凶行ではあった。

 恋歌は長崎では有名な部類にはいるだろう。誰もが郭に来るわけではないが、それでも恋歌が通りを歩いていれば、声をかけられることも、後ろ指を指されることも多かった。

 直接郭で会ったことがなくても、「あれが桜泉楼の……」という噂を聞いたことがある者は少なくないのだろう。

 だから、恋歌が嫁御盗みにあえば噂になってもおかしくなかった。そもそも楼主のものである遊女を嫁御盗みにするなんて、ありえないことであるはずから。

 それでも、誰もが助けてくれるわけではないだろう。

 ありえないことだからこそ、眼前で行われているその凶行が危険なことだとはわかる。「ありえないこと」を実行する決意を固めた男たち。そいつらは、長崎の常識も郭の規律も無視する事に決めたのだ。つまりはっきりと罪を犯す覚悟を決めた者たちだ。

 中途半端な好奇心や子供のような正義感で顔を突っ込めば、自分まで危険な目に遭うかもしれない。そう思えば、生半可な覚悟では動けなくなる。

 知っていても、誰もが動いてくれるわけではない。

 誰もが敵陣まで乗り込んで助けに来てくれるわけではない。決して。

「……ありがと」

 それでも自分では淡々とした口調を心がけて、恋歌は礼を言った。

 いや、と高村晋輔は首を振る。別に気負うこともなく。

 彼は太刀を抜いていた。

 抜いた太刀をそれでも構えず、右手一本で持ったまま春風を冷ややかな目で見据える。

「仲間、なのだろう?」

「……誰が?」

 嘲りを口元に浮かべ、春風は問い返す。

「恋歌とお前が、だ」

「そんな風に見える?」

 おかしそうに春風は笑う。

 縛り上げた恋歌の隣で。

 小太刀を握りながら。

「……いや。見えないな」

「だよね」

 春風は苦笑いして頷く。

 それから恋歌に向き直る。

「良かったね。あんまり変なこと訊くから、あんたの青餅、どうにかなっちゃったのかと思ったよ」

「……別にあたしの青餅じゃないし」

 恋歌はなんとなく目を伏せて答える。

 だから、恋仲を意味する青餅という関係を否定された高村晋輔がどんな顔をしたのか、恋歌は見るこことはできなかった。

「そうなんだ。青餅じゃないんだ」

 春風は笑う。

「そうだよね」 春風は笑顔で問い返す。

 だが、自分で発した確認を求めるような問いかけに、気に障ることがあったらしい。春風の顔に苛立ちがよぎる。怒りが影を落とす。

「そうだよね。好意を向けてくれる男なんて、あんたには掃いて捨てるほどいるよね」

 そりゃ、そうだ。

 はっきりとした憎悪を目にたぎらせ、春風は、自分の言葉に自分で頷く。

「あんたは綺麗だものね。桜泉で、丸山で一番だものね。男の好意なんて今更ありがたみもないよねぇ」

「……なによ、それ」

 もはや隠そうともしない敵意。

 打ち消そうともしない憎悪。

 そして、抑えようともしない悪意に曝され、恋歌は言葉を失う。

「いやな女」

 春風は吐き捨てる。

「死んじゃいなさな」

「そうはさせない」

 高村晋輔は足を踏み出した。

 まだ、太刀を構えてはいない。

 無造作に足を踏み出す。無造作に恋歌に近寄ろうとする。

「お前の好きなようにはさせない」

「私の好きなようにさせてもらうわ」

 春風は宣言する。

 小太刀を恋歌の咽喉に突きつける。

 高村晋輔は足を止めた。

 春風の口元に笑みが深く刻まれる。嘲笑という類の笑みだ。

「善次郎は?」

「え?」

 高村晋輔の口から出た無視できない名前に春風は動きを止める。彼女が唯一無視できない男の名前に、彼女はつい高村晋輔の顔を見てしまう。

 もちろん、それは彼女にとって訊かれたくないことだからだろう。そして、高村晋輔はまっすぐにそこを問うてきた。

 春風がはっきりとした怒りを表情に浮かべる。

 つい先ほど恋歌がつついて春風を怒らせた話題だ。

 今度こそ激昂して刃を振り回さないか、正直、恋歌は気が気ではなかった。だが、一度は恋歌を殺そうとした春風の動きは止まっている。成り行きを見守るしかない。

「善次郎はこのことを知っているのか?」

 そんな恋歌の心配に気づいてはいないのだろう。高村晋輔は、表情の乏しい顔で春風に問いかける。

「……このことって何よ」

「お前がしようとしていることだ」

 高村晋輔は、また一歩踏み出す。

 春風ははっきりと気圧されていたが、後ずさりはできない。縛り上げた人質のそばから引き離されるわけにはいかないのだ。

「……あんたに関係ある?」

 高村晋輔は答えない。

 春風の声が裏返った。

「あんたは善次郎の敵でしょう。あいつを殺せればいいだけでしょ?」

「もちろん、そうだが……それだけでいい、というわけにもいかない。恋歌を放せ」

 ふざけるな、と春風は毒づく。

「お前なんて善次郎に殺されてしまうんだ」

「例えそうだとしても、殺されるのはわしだけのはずだ。その娘は放せ」

「ふっざけるなあっ」

 春風は怒鳴った。

「どいつもこいつも、私を馬鹿にしやがって。なんで恋歌ばかり。なんで通りすがりにみたいなお前まで恋歌を助けようとする。お前は関係ないだろ?引っ込んでろ。邪魔するなっ」

 春風の怒声は悲鳴に近かった。

「殺せっ」

 春風が命じ、男たちがゆっくりと動き出した。

 高村晋輔はゆっくりと彼らに向き直る。

 太刀は構えていない。それでも、その小柄な身体に緊張感がみなぎっていることは、恋歌にもわかる。

 そのとき、男たちの背後で力強い足音が聞こえた。

「どけっ」

 野太い声が吼える。

 同時に、左右に広がる男たちの間をこじ開け、大柄な男が金棒のような太刀を振り上げながら飛び出した。



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