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34.拉致

 腹が痛かった。

 まず、感じたのはそれだった。

 同時に、ああ、目覚めたくないなあ、と思う。目覚めてもいいことなんてない、と感じる。ろくでもない状況にあることをぼんやりと思い出す。

 そして、記憶が蘇る。思い出したくもないことまで、すべて。

 起きたくない。

 痛烈にそう思った。

 ここはどこだろう。

 波の音が強い。

 海にまで迫った森のどこか。

 思い当たる場所がいくつかあったが、あまり考えたくなかった。

 本当に目覚めたくなかった。

 でも、起きないと、事態はもっと悪くなってゆく。目を開かないわけにはいかなかった。

 そもそも、恋歌の意識が戻ったことは、すぐに相手の気づくこととなっていた。

「起きたんだね?」

 春風が見透かしたように訊いてきた。

 悪事を見透かした岡引きのように嬉しそうだった。後ろ暗いことをしているのは、相手の方なのに。

 それに、寝たフリをしたところで誤魔化せるとも思えない。恋歌は仕方なく目を開いて声の主を見た。

 春風はその視線を正面から見て笑っていた。


「やっぱりね。そうだと思ったんだ。狸寝入りなんて、狡い女」

「大勢で一人の女を襲うより狡いとは思わないけど……」

「そういう誤魔化し方がまた狡い」

 春風が笑う。恋歌は笑えずに仏頂面で言葉を返す。

「その言葉、そっくり返すよ」

「あっはっはっ。ラチがあかないねぇ」

「……なんでこんなことするの?」

 笑う春風にやはり笑顔は返せずに、恋歌は押し殺したような声で訊いた。

 自分はきっと春風に好かれてはいないだろう。

 その自覚は恋歌にもあった。

 だが、だからといって、ここまでされるようほど嫌われているとは思っていなかった。これは好き嫌いで済まされることではない。

「頼まれたのよ」

「頼まれた?」

 これは嫁ご盗みじゃない。

 単なるかどわかし(誘拐)だ。捕まれば重罪だ。誰に頼まれればここまでのことをするのだろう。

 女が罪を犯すとなれば、真っ先に思いつくのは「男」だ。

 春風にそれほど深い「青餅」がいるとは聞いたことがなかったが、だからといって、春風にそんな男がいないと断言することも出来ない。もちろん、春風の思い人に自分がそこまで恨まれる覚えなど、恋歌には思いつかなかったが。

「誰に?」

「あんたも知ってる人だよ」

「だから、誰よ」

「善次郎」

 と、春風は言った。

 その名前は、恋歌の意表をついた。

「あいつに会ったの?」

「私の青餅よ」

 春風は鼻で笑う。

「青餅……春風の?」

「何か問題でも?」

「いや……全然……」

 問題どころか、それが本当で善次郎の興味が恋歌から春風に移っているのだとしたら、恋歌にしてみればこれほどありがたいことはない。それにしては、この現状は恋歌にとってありがたみを感じられる状況ではなかったが。

 そもそも、単純に二人を祝福するにはどうしても確認しなければならないことがある。

「あいつが春風の青餅なのって……いつから?」

「いつって?」

「あいつ、私を抱こうと桜泉に来た初日に……」

「別に、あんたより早く知ってたってわけじゃないよ」

 恋歌が春風の男を横取りしたわけではない。

 では、春風が恋歌の客を掠め取ろうとしたことになる。

 けれど、もちろん、恋歌が問題にしたいのはそこではなかった。

 恋歌の突き出しより後に春風が善次郎と知り合ったというのなら。

「それって……」

 つまり、善次郎が鬼に殺されてから、ということだろうか。

 それはつまり。

「……あいつの正体知ってるよね?」

「鬼?」

「知ってるのに、あいつのお先棒を担ぐの?」

「鬼だもの」

「は?」

「私は強いものの味方をするの。そうしたら私も強くなれるから」

「強くなれるって?」

「あんたには関係ない」

「そんなことないと思うよ」

 恋歌は自分の体を見下ろしながら答えた。春風に縄で縛られて身動きのとれない自分の体を。

「十分に関係あると思うけど」

「ないよ」

 それまでの、場違いなくらい明るい口調から急に冷ややかになった声が答えた。

「あんたには関係ない」

 自分が捕らえた女に、自分の凶行の理由が関係ないと答える女。

 何故、関係ないなどと言えるのだろう。

 その答えにはひどく残酷な答えしか用意されていないような気がして、恋歌は考えるのをやめる。考えるのをやめようとする。

 けれど、知りたくもない答えを、春風は無情に告げる。

「これから死ぬ人間には関係がない」

 その答えに驚きはなかった。

 それでも、黙って受け入れるにはいかない言葉だ。

「私、死ぬつもりはないんだけど」

「死ぬつもりのあるやつなんて、いないよお」

 恋歌の答えを聞いて、春風はげらげらと笑った。

「死は」

 と、春風は言う。

 諭すように。

 あるいは、宣言するかのように。

「望んで与えられるものじゃないわ」

 偉そうに言うわりに、それは当たり前のことだった。

「死は否応なく押しつけられるものだよ」

 それが天のコトワリというものなのだろう。

 普段死について考えていない恋歌だって、それはわかっている。だからといって、人の手で死を押しつけられることを納得できるはずもない。

「今回は私の手で押しつけてあけるよ」

「遠慮しとくわ」

 ぶっきらぼうに言う恋歌に、いちいち反論する必要を認めなかったのだろう。春風は鼻で笑っただけだった。

 その反応には恋歌も驚きは感じない。

 同意の有無に関わらず強制すること。それが押しつける、ということなのだろうから。

 春風は、とても楽しそうに笑っている。

 そのことに恋歌は違和感を感じた。

 これは、晋輔の言っていたことと違う。

「これ、善次郎は知ってるの?」

「もちろんよ」

 春風は笑った。

 その前に短い間があった。

 それは、反射的に浮かんだ忌々しげな表情を打ち消すための時間だった。

 それを恋歌に見透かされた自覚があったのだろう。春風はすぐには言葉を繋げなかった。

 だから、恋歌も口を噤み、春風の目を見つめた。

 相手の弱みを自分が知っているということ。春風の親玉である善次郎は、恋歌をこの場で殺したいと願っていないこと。

 恋歌は春風を見つめ、その自覚を春風の心の奥に刻み込み、彼女に自制すべきだという警告を与える。

 春風は笑った。

「あんたって、本当にイヤな女ね」

「……」

「あんたはどうしても私の邪魔になる。どうしたって、私はあんたを放ってはおくわけにはいかないんだわ」

 藪蛇だったらしい。

 善次郎という弱点を恋歌に抉られること。それが春風にとってどれほどの屈辱であるかを自分は理解していなかったのだ。

 そのことが恋歌にもぼんやりとわかった。

 危機感がぼんやりと形作られてゆく。

 ぼんやりとした危機感が、刃の形を取り差し迫ったものへととぎすまされてゆく。

「始めから殺すつもりだったけど。いいわ。すぐに死んでしまいなさい」

 そう言って、春風はどこに隠し持っていたのか、短刀を取り出し鞘から抜くと、そのまま鞘を放り投げた。

 手に残った短刀の刃はよく研がれ、冷たく光っていた。

 その持ち主の目と同じくらい冷たく。

 憎悪は殺意に塗り変わる。

 危機感は恐怖になって膨れ上がる。死への恐怖心が恋歌の心を塗りこめる。

 恋歌は後退しようとする。だが、手足を縛られた状態では逃げることは無理だ。

 闇は深くなり、もはや「夜」という区分を与えるのに、誰も躊躇わないほどだった。

 春風は歩み寄る。

 その背に。

「やめておけ」

 聞いた声が、しかし、聞いたことがないほど厳しい口調で告げた。


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