33.二つ名
結論からいえば、誓詞血判はそれほど大仰なものではなかった。
楼主が予め連絡していたせいだろう。血判の準備はしてあり、恋歌への質問と訓戒もそれほど時間はかからなかった。
誓詞血判は出島や唐人屋敷に入る遊女が毎年一度づつ義務付けられているもので、それほど珍しい手続きではない。
何と言っても恋歌は日本行き太夫だったのだし、廓の常識は弁えている。もちろん、出島の規則は知らない。出島での振舞い方も、出島での禁忌も知らない。だから、初めて出島入りする遊女たちに対する指導は手際よく行われた。
恋歌はそれを要領よく覚え、それほど時間をかけずに切り上げることができた。
「まあ、気を落とすな。出島も悪いところではないし、出島に入った女たちの中にはむしろオランダ人の方が優しいから、と望む女も多いんだ」
「はい」
履物に足を入れる恋歌に、乙名は優しく声をかけた。
恋歌が阿蘭陀行になった経緯を聞いている乙名は、気落ちしている恋歌を慰めようとしてくれているらしい。
恋歌にしてみれば、出島行きには別の目的もあるから、それほど気は落としていなかった。順番は違うが、いい機会ではあった。こうなったのは高村晋輔のせいか、と思いたくなるほど。
結局、一番堪えたのは、乙名の最初の一言だった。
「おお、来たな。鬼の花嫁」
と、乙名は開口一番に言ったのだ。
「なんですか、それ?」
「いや、お前、そんな風に呼ばれているんだそうだな」
「……誰が言ったんですか」
「それは、わしが言っちゃいかんだろ」
そう言って、乙名は笑った。
噂を聞いていたのだろう。
にこやかな笑顔のまま、乙名は自分の聞いた恋歌の呼び名を口にしたのだ。
「なんでも、桜泉の恋歌を抱こうとする男は、鬼に嫉妬されて殺されるのだという話らしいな」
そんな渾名が広まっていたのか。
がっくりと力が抜けた。
鬼の花嫁。
本当に泣きたくなるような二つ名だった。
意気消沈しているのは、そのせいだったのだが、乙名は降格されたことを恋歌が気にしているのだと最後まで思っている。可哀想だと思ったのか、乙名は笑顔のまま声をかけた。
「わしも男だ。本当なら一番乗りもいいなと思ったんだがな。殺されたのではあわん。まあ、出島の中でオランダ男が無事にお前を抱いたら、わしもそのうち桜泉に行かせてもらうよ。楼主に宜しく言っておいてくれ」
恋歌は笑った。
ぎこちなかったと思う。
本当なら、例えば楓なら、もっと艶やかに笑うのだろう。
お越しいただける日を楽しみにしています、とか適当なことを言いながら。
恋歌にはできなかった。
それでも唇の端を吊り上げ、頭を深く下げた。
果たしてこの引きつった唇で、自分は笑顔に見えるのだろうか、と思いながら。
踵を返す。
廓へと足を向ける。
日は大きく傾いていた。
ゆっくりと影が広がってゆく。
ゆっくりと。
気づかぬくらいゆっくりと。
いつもなら、そんなに日没を気にするようなことはない。
なんと言っても、夜は恋歌たちが一番稼ぐ時間なのだ。
もちろん、そのためにこそ、夜に恋歌たちが外出することは少ない。
遊女が廓の外に出るということは、稼いでいないということなのだ。なんといっても女に会うために客は廓に来るのだ。そして、客が求めることはすべて廓の中にある。
もちろん、カムロの時代、姉女郎や客の使いに出されることはあった。
飲み食いする大抵のものは郭で用意されるが、それでも馴染みの客との間で街の名物の話でも出れば「カムロに買いに行かせよう」ということになる。
楓は蕎麦が好きで、気心の知れた客が相手だと郭の外にある蕎麦を買うように,ねだった。
もちろん、蕎麦の代金などたかが知れている。
他の遊女が無心してくるものに比べれば「ただ」に等しい。
だから、男たちは喜んで楓に蕎麦をおごる。
おかげで恋歌は蕎麦屋で顔なじみになり、やたら博識なオヤジとも知り合いになった。
郭の中に篭っていることに比べれば、恋歌は「お使い」は嫌いではなかった。むしろ、気分転換にと積極的に使い走りの役を買って出た。
そういう恋歌にしてみれば、こんな時間はまだ日中と言っていいくらいだ。
心配なことなど何もない。
普段ならば。
だが、今日はそうは言っていられない。
夜になれば、また恋歌は襲われるかもしれない。
鬼であれ、幽霊であれ、活動するのは夜だけだ、と相場が決まっている。昼間は夜行性の獣のように、どこかで眠っているのか。それともそこにいても見えなくなってしまうのか。
その辺はわからないが、今のところ善次郎もその習いに従っているようだから、日中にはあまり心配しないでいられる。だが、夜になれば動き出すのだろう。それこそ夜行性の獣として。
恋歌の足も自然と早足になった。
もっとも、と恋歌は考える。
今まで鬼が出たのは廓の中だけだ。
始めは地下。
それから恋歌の部屋で二度。
見ていた人間は多くはなかった。
いくら夜だったとはいえ、少なくとも衆人環視の中では出てはいない。
早く桜泉楼に戻らねば、と思う一方、廓に戻るということは危険な場所に戻ろうとしているだけかもしれない。
あるいは、本当はこのまま出島に入った方がいいのかもしれない。
いっそ、楼主にそう言えばよかっただろうか。
乙名のところで誓詞血判をしたら、そのまま出島に行く、と。
そうすれば楼主も喜んだだろうし、あるいは恋歌も安全なのかもしれない。なんといっても、蘭館にいるのは切支丹ばかりなのだ。
……いや、駄目だ。
外には美雪も高村晋輔もいる。
美雪は善次郎を傷つけたとはいえ、善次郎はその後反撃に転じようとしていたはずだ。恋歌があのとき雨戸を倒して廓を騒ぎにしなかったら、美雪だって殺されていたのかもしれないのだ。まして高村晋輔の刀は、あの鬼に何の痛痒も与えていない。
自分だけ安全なところに引きこもるわけにはいかない。
まして、そこが本当に安全かどうかも分からないのだし。
自分が廓に帰りたいのかどうかもわからないまま足を進めていたとき、不意に恋歌は肩を掴まれた。
反射的に振り返った。
顔が三つ並んでいた。
もちろん、それぞれの顔にはそれぞれの首があり、体があった。三つ首の人間がいたわけじゃない。そんなに珍しい連中ではなかった。
いつのまにこんなに近くまで近付かれたのだろう。
あまり知らない顔だった。
正直、知らないことを残念に思わずにすむ顔だった。三十から四十過ぎだろうか。男が四人、焦点の定まらぬ目で恋歌を見ていた。
「何か御用ですか?」
恋歌の問いに、その顔のひとつが表情を変えずに口を開いた。
「よめごぬすみ」
と。
「……嫁ご盗み?」
恋歌は訊きかえす。
「よめごぬすみ」
と、別の男が言った。
恋歌は苦笑する。
私を、嫁ご盗みに?
「桜泉の恋歌」を知らないのか。
「嫁ご盗み」
と、三人の声が重なった。
「いや、私、桜泉楼の太夫ですよ。そういうのはダメ」
嫁ご盗みは、もともと本人もこっそり同意した上で、略奪の形を取る求婚方法だ。
その理由は金のなさであったり、親の反対であったりする。それらの「障害」を略奪の形を取ることで、なし崩し的に嫁に迎えようとする。つまり、単なる拐かしではないのだ。
大手を振って堂々と、ではないにせよ求婚の形なのだから、遊女を盗んでも意味がない。遊女はどこまでも楼主のものだから、遊女は求婚を受ける権利さえない。だから、嫁ご盗みの対象にはなりえない、はずだ。
それを知らないなんて、長崎の者ではないのかも知れない。
恋歌は苦笑いを浮かべていた。
だが、男たちは恋歌の苦笑に気づいたそぶりさえ見せなかった。
背後から手が伸びてきて、恋歌の肩を掴んだ。
5人目の手だ。
恋歌が振り払うと他の男たちが腕を伸ばしてきた。
「やめて」
誰もやめない。
恋歌の抵抗や注意を押さえつけるというより、それらに気づいた様子さえなく、彼らは無表情に手を伸ばしてくる。
「やめて。人違いよ」
恋歌は暴れた。
ようやく常識知らずの「田舎者」に対する苦笑いを、得体の知れない男たちに対する恐怖が上回った。
こんな。
長崎の街中で。
天領長崎で。
もう何人いるかわからない男たちは、次々と恋歌の服を掴み、恋歌の体を押さえ込んだ。
「誰か……」
叫ぼうとした口を塞がれる。
唇に触れたその指を強く噛んだ。必死だった。噛む力に加減などしなかった。指を食いちぎってもおかしくないほどだったが、その手に込められた力は怯まなかった。
「よめごぬすみ」
と、その手の主が言い、その声に苦痛も怒りも感じられない不気味さが、逆に恋歌の身体から力を奪った。
ぞっとした。
怯んだ恋歌の身体を、男たちは抑えつける。不器用な手が、それでも要領よく彼女を縛り上げる。
ちょうどそこに手際よく到着した籠に、恋歌は押し込められた。
「やめて……っ」
叫ぼうとした瞬間、誰かの放った蹴りが恋歌の腹にめり込んだ。
激痛に呼吸が奪われる。止められた息と苦痛が、恋歌の意識を刈り取った。
視界が暗転する。
寸前、男たちの背後に知った顔が見えた。
冷ややかな視線。無表情と見紛うほどの静かな怒りと、微かに歪んだ唇が示す嘲り。
春風だった。
なんで。
問い掛けは言葉にならなかった。そのまま恋歌は意識を失った。
以前書いた「参考文献」、活動報告のほうに載せました。
興味のある方は見てみてください。
素晴らしい著作です。
で。
それを本作で全然生かせていない作者です。
みっともない言い訳もあったりして。
よろしければ評価・コメント等いただけると嬉しいです。




