31.「遊女」5
11/12 誤字等訂正
恋歌と美雪が出てゆくのを、彼女は表情を消して見送った。
それでも二人の姿が見えなくなると、春風という名の「遊女」はため息をついた。
深く。
深く。
深くうなだれ、胸の中の苛立ちを出し切るように息を吐き出す。
美雪のことは、嫌いではなかった。もちろん。
美雪は以前から彼女に気遣いを見せてくれていた。
美雪は、それなりに人気のある遊女だ。恋歌のような突き出しの前からその美貌で名を知られていたカムロでこそなかったが、それにしても穏やかな愛らしさと深い気遣いで、多くの客に望まれている。
美貌で名を知られた恋歌に「抱こうとすると殺される」
などという恐ろしい噂がついた今、ある意味桜泉でも一二を楓と争う遊女かもしれない。
もちろん、そんな遊女を楼主が安売りするはずもなく、たちまち美雪は夜の顔見せから外され、予め約束を入れなければ会えない女になった。
そう遠くない将来、恋歌同様日本行太夫になるだろう、と噂されている。
正直、嫉妬はしている。
勿論、嫉妬せずにはいられない。
美雪は春風の望むものをもっているのだ。
それでも、その怒りは恋歌に対するものよりは小さい。それは、美雪の魅力が努力を主としているからかもしれない。
美雪の訪問だってイヤな気はしていない。
美雪は悪い娘ではない、と思っている。
微熱を感じながらひとり部屋で横になっていると、どうしても気分は落ち込む。
そんなとき、美雪の控えめな笑顔は自分が見捨てられていないと感じさせてくれる。
彼女が頻繁に顔を出してくれることを、春風は素直に感謝している。
少なくとも、美貌という生まれついての特権にあぐらをかいている女とは違う。美雪は気遣いをする女なのだ。
そう思えば、自分の偏狭さを許せるような気もする。
だが。
今日はダメだ。今日はイライラする。
恋歌だけではなく、美雪に対しても苛立ちが募る。
いや、美雪に対してこそ。
理由はある。
あの美雪が。
あの華奢な小娘が、彼女の不死を脅かすかもしれないのだ。
*
今朝、そう善次郎は言った。
まだ陽が上る前ではあったが、すでに夜明けが近いことは感じていた。
それでも、あの時間、春風は眠れていなかった。
気がつくと枕元で霧が渦を巻いていた。
白くはない。むしろ黒煙と言ってもいいような「無臭の霧」。
それが渦を巻き、人の背丈まで立ち上る。そして、その中から善次郎は現れた。
「よう」
彼はそうして、彼女の寝ている部屋に再び現れた。陽気な笑顔で。そして、彼女の顔を見るなり愉快そうに笑い出す。
「どうした。相変わらず陰気な顔してやがるな。今にも死にそうな顔だ」
それはそうだろう。
実際、彼女はといえば、自分がどれほど死に近づいているのかを一晩中眠れずに考え続けていたのだ。陰気にもなるというものだ。
目を逸らす彼女に善次郎は追い打ちをかける。
「どちらが死人かわかりゃしねえな」
愉快そうに笑う善次郎の明るさに、彼女は若干の苛立ちを感じた。しかし、いずれ自分も彼の不死を分けてもらえるのだと思えば我慢できなくもなかった。
彼の不死は自分の不死でもある。そうなれば、彼の不快なほどの明るさもいずれ自分のものになるのだ。
そう。
彼は死なないのだ。
高村晋輔はその不死者に切りかかり、あしらわれて怪我をしたのだという。笑い話だ。恋歌もそうして顔に傷つけられたらしい。
その段階で、春風は楼主の考えがわかった。顔を傷つけられた女を日本行太夫にしておくほど、楼主は甘くない。きっと恋歌は降格されるだろう。
それでも。
恋歌は生き残っている。
高村晋輔も、だ。
自分に刃を向ける男を生かしておくなんて彼女にはわからない。善次郎はそれほど寛容な男ではないはずだ。
恋歌のこともそうだ。
彼は恋歌を望んでいたのではなかったのだろうか。
だから、彼女は恋歌のことを思っていたのだ。
きっと昨晩のうちに恋歌は殺されてしまうだろう。
だから、可哀想だと思っていた。
あんなに若いのに可哀想だ。
あんなにきれいなのに可哀想だ。
まだやりたいこともあるだろう。まだまだ生きていたいだろう。あんなに若いのに。あんなにきれいなのに。あんなに皆に大切にされているのに。
死んでしまうなんて。
ざまあみろだ、と。
あるいは、彼は恋歌に興味をなくしつつあるのだろうか。
だって、彼には私がいるのだから、と春風は思う。
不死の体を手に入れて、永遠に生きる(不死とはそういうことのはずだ)彼には共に不死を手に入れた私がそばにいればいい。
恋歌を殺してしまったら、彼は寂しくなるだろう。
彼女はそう考え、それを自分で否定する。
バカバカしい。
彼女の顔は恋歌の美貌には遠く及ばない。
恋歌を欲した彼の審美眼は、普通の男と同じなのだ。彼女を求めるわけはない。
春風はそれを知っている。忘れてはいけない。忘れることもできない。それが彼女の人生なのだ。手に入らないものを憧れ、妬み、指をくわえて眺め続ける人生。
おそらくそれは永遠の命を手に入れても変わらない。その点に関して、春風は何の幻想も抱いていない。
彼女は永遠に「持たざる者」として妬み続けるのだろう。
それでも。
それでも、今までとは違うこともあるだろう。
恋歌の美貌。
春風は、それを自分にものにすることはできない。
けれど、それを引き裂いてやることはできる。自分の手に入れられぬものを、すべてぶちこわしてやることはできる。
憧れる。妬む。嫉む。そして、捻り潰す。
殺す。殺める。屠る。
憧れたものを手に入れることはできなくても、憧れずにすむように壊してしまうことはできる。
その力をくれるのが善次郎なのだ。
だから、部屋に現れた彼に怯えながらも、それでも彼女は艶笑をもって迎えた。その艶っぽさに彼は興味を示さなかったが、彼女は悔しさを露わにはしなかった。彼の強さこそが、彼女の望むものなのだ。
善次郎の衣に小さな穴が空いていた。
高村晋輔の太刀だろうか。体が不死身でも服はそうはいかないのだろう。
恋歌を殺す時を想像する。最後の抵抗につかみかかってきた恋歌が行灯の台で殴りかかってくる。それは春風の肩に当たる。服は傷つく。あるいは破れる場合もあるかもしれない。だが、彼女は笑って無傷の肌をさらす。
恋歌の愕然とした顔をあざ笑う自分。そんな物語を瞬間的に夢想する。唇が勝手に歪むのを感じた。
春風は手を伸ばし、善次郎の襟に触れた。その手を滑らせ、衣に空いた穴を探る。
空いた方の手で彼の素肌に触れ、撫でる。そっと。けれど淫らに。
やがて、善次郎の腕が彼女の肩を首筋を撫で回す。
そう。これが男の自然な反応だ。それほどの美人でなくても、女の体に触れれば男は男としての顔を取り戻す。どんなに取り澄ました男でも。
彼女は善次郎の腕の力に促されるように彼の体に顔を近づける。その穴に顔を近づけ、穴の向こうの無傷な善次郎の肌を覗き見る。
昨夜彼女がつけた傷はすでに塞がっていた。
春風はそのことを羨ましく感じ、誇らしく思う。それは自分の未来の姿なのだ。
だが。
なんだ、あれは。
小さいが黒く焦げたような痕。
そしてその周囲の焼け爛れたような……
やけど?
まだ新しい。古傷とは思えない。
火傷?
「火には……弱いの?」
弱点があるなんて。
彼女は裏切られたような気がして善次郎の顔を見上げる。
死なない体ではなかったのか。
火なんて。
誰でも最初に思いつくような弱点ではないか。
だが。
「火じゃない」
それが善次郎の答えだった。
「火、じゃない?」
しかし、これはどう見ても火傷だった。
「小娘にやられた」
「小娘?」
恋歌だろうか。
だが、それにしたって…
「じゃあ、そいつに火を押しつけ……」
「違うっ」
善次郎が声を荒らげた。
春風はその声にびくりと体を震わせる。善次郎は、もちろん、春風の怯えになど頓着しなかった。彼は忌々しげな口調で言葉を続けた。
「あのガキは……美雪とかいうあいつは、ただ障子の桟の端を押しつけただけだ」
思い出したのだろう。忌々しげな口調に更に力が入る。
しかし。
「……なにそれ」
「それだけでこの有様だ。もの凄い痛みだった。それこそ焼けた鉄棒でも押し当てられたのかと思ったんだが…」
「何よ、それ」
自分でも気づかぬうちに、彼女の手は善次郎の襟を握りしめていた。声が震える。眉間に皺が寄るのを感じている。視線に刃でもついたように険しさが宿っているはずだ。
「なんであんたが怪我するのよ」
裏切られた、と思った。
不死身ではなかったのか。
刃を弾くことさえできるとこの男は笑ったはずだ。
それなのに。
「美雪ですって?あんな非力な小娘にやられたっていうの?」
善次郎は答えない。
その意味を考えることもなく、春風は呟くように言葉を垂れ流していた。
「なんで?なんで。なんでよ。ふざけないで。ふざけんじゃないわよ。あんた不死身だって言ったじゃない。死なないことにしたって。じゃあ、怪我しないようにしなさいよ」
言葉が止まらない。
苛立ちと怒りと不安が、胸の中で騒ぎ立てる。
善次郎の言うことをきいていれば、彼女は死に怯えなくてすむはずだったのに。
不安が声を震わせる。苛立ちが視線に刃を潜ませる。怒りが容赦のない言葉を勝手に選び、紡ぐ。
「あんな小娘にやられて逃げ帰ったってわけ?何よ、これ。もしかして私を笑わせようとしてる?本当、笑っちゃうわ。ああ、面白い。馬鹿みたい。みっともないったら。大の男が小娘にやられましたなんて、無様だわ。あんた、よく平気な面して私の前に顔を出せたわね。少しは恥ずかしく……」
膨れ上がる怒りを一気にぶちまけた。
そして、そこまでで止まった。それ以上は口にできなかった。
善次郎の大きな手が、彼女の喉をつかんだのだ。
「…っぐ……」
「どうした。もっと言ってみろよ」
「……く…げ……」
言えるわけない。
喉をつぶされて出せる言葉なんてない。
「調子に乗るなよ、女ぁ」
ふざけた調子が善次郎の口調から消えていた。羽村籐衛門を殺した腕力が彼女の首を絞めつける。羽村籐衛門に死を押しつけた残虐さが彼女に向けられていた。
喉から男の手を引き剥がそうとしたが、善次郎の腕は石像のように動かなかった。暴れると足が宙に浮いているのがわかった。
息ができない。
流れを止められた血が頭の中で熱くなっている。
「ああ、そうかもな。不死身じゃねえのかもしれねえな。悪かったよ。おまえを不死身にしてやることもできねえのかもしれねえ。だが、口のききかたには気をつけろ。生かすことはできなくても、おまえを殺すのは簡単なんだぞ」
「……ぐっ…ん…」
ごめんなさい。
そう言いたいのに言葉にならない。
ごめんなさい。
だが、頭の中では逆のことを考えている。
ずるい。こんなのずるい。
話が違う。
死なないようにしてくれるって言ったのに。不死を分けてくれるって言ったのに。
だが、怒りは恐怖の前に萎え、これ以上善次郎を罵ることさえできなかった。
間違えた。
こんな男と交渉しようとしたのが間違いだったのだ。
苦しい。締め付けられた血は頭蓋の中で圧力が高まって、眼球を破裂させそうだった。
涙が頬を濡らす。
血か鼻汁かわからない液体が鼻の穴から垂れている。
バタつかせた足は善次郎を蹴っているが、善次郎には何の痛みも感じた様子がない。
死ぬのか。
自分はこんな男にすがったがために、それでなくても短い命をこんな形で失ってしまうのだろうか。
後悔と惨めさが頭の中にあり、それらを圧倒する怒りが膨れ上がり、頭蓋の中で破裂しそうだった。
ちくしょう。ちくしょう。ちくしょう。
「ううう……」
何も言葉にはならなかった。
けれど、そのとき、不意に喉にかかっていた圧力が消えた。同時に彼女を空中に支えていた力も消え、彼女は床に落ちた。
最初に床に触れたのは確かに足だったが、足にはまったく力が入らなかった。そのまま立つことはできず、放り出されたぼろ布のように崩れ落ち、横たわる。
息を吸わなければ。
喉に力を込めると、潰されていた喉が勝手に咳こんで、更に呼吸の邪魔をする。それでも瞬間的に入ってくる空気は炎のように熱く喉を焼いた。
苦しむ彼女を退屈そうに眺め、善次郎は言った。
「知る必要はあるだろうよ。何故、あんな非力な娘が俺を傷つけられたのか。知って、あの娘にも教えてやらなくちゃな。悪いことをすれば罰を受けるって」
咳は止まらない。
激しい後悔と怒りが渦を巻いた。
こんな男に関わったこと。
ようやく手に入りそうな不死が、紛い物であるかもしれないこと。
そして、それを見せつけた美雪への憎悪が、体の中で燃え盛っていた。




