21.善次郎 その2
晋輔がようやく立ち上がっている。恋歌も立ち上がった。開け放たれた障子の向こうには若衆はいなかった。楼主でも呼びに行ったのか。
恋歌は嗤う善次郎を見据えたまま、少しづつ廊下の方へと動いていった。
「あれ……」
声が聞こえたのは、その廊下の方からだった。若衆が帰ってきたのか。違和感を覚えながら、反射的に声の方を見る。
「……」
運の悪い子。それとも間が悪い子なのかしら。
というのが、恋歌の感想だった。
声の主は美雪だった。
これで昨夜と同じ面子が揃った。揃ってしまった。
どこまでもこの前と同じことを繰り返すのだろうか。だったら、三人とも助かるはずだと、恋歌は思いたかった。
美雪は、服を乱した恋歌が開いた障子から見えるような位置にいることに驚いていた。
「あの、あたしの客がこっちにきてるかも……と思ったんだけど」
「誰?」
「あの…お寺の……」
こいつか。
死んだ坊主を、恋歌はげんなりしながら見下ろした。
こいつは、おそらく鬼など信じていなかったのだろう。
だから、鬼を退治することも亡霊を成仏させることも考えていなかった。
だから、何の準備もしていなかった。
ただ、自分には買えない太夫の閨を覗くだけで楽な小遣い稼ぎができるつもりだった。そして、どうせなら、そのままここで女を抱こうと考えたのだ。
……ホントに碌な男がいない。
「恋歌?」
「ここには、あんたの客になるような男はいないよ」
死んでいたら、客になんてなりようがないからね。
恋歌が言うと、美雪は部屋に入っては来なかった。
彼女は既に感じていた。
明らかに異常なことが起こっている。美雪はそういうことには鋭い娘だった。
そして善次郎が見えた瞬間、美雪は息を吸い込んだ。すべてを悟った顔だった。高村晋輔もこのくらい物わかりがいいといいのにね、と恋歌は思った。
「いろんな人が来てる。美雪も知ってる人が何人も」
晋輔の身体に再び力が舞い戻ってくるのを見ながら、恋歌は美雪の問いに答えた。
高村晋輔の動きは、やはり少し乱れていた。まだ完全に立ち直っていないのかもしれない。それでも彼の動きは速かった。弾けるように畳を蹴り、一瞬で善次郎の直前に移動する。そして、跳躍。
それは、善次郎の目が彼の動きを追うよりも間違いなく速かった。
振り上げた太刀を渾身の力で叩き落す。
今度は善次郎の腕は、邪魔をしなかった。
だから、高村晋輔の刀は、善次郎の頭を真上から叩いた。
刃が鋭いかどうか以前に、太刀はかなりの重量を持っている。頭に叩きつけられれば、どんなナマクラでも頭蓋が割れる。
しかし、どんなものにも例外があるらしい。善次郎は紛れもなく厄介な例外だった。
まるで鉄のかたまりでも殴ったような硬質な音が廓に響き、高村晋輔は衝撃に太刀を落とした。
「くそっ。どういうことだ」
初めて晋輔が悪態をついた。
「頭がかち割られたら死んじまうだろう」
善次郎が笑う。
「俺は死なない。だから、頭もかち割れない」
善次郎が言うことに応えず、晋輔は無言のまま素早く一旦後退する。短刀を抜き、今度は善次郎の首を背後から落とそうとする。
善次郎が再び動き、腕を振り回した。その腕を晋輔はかいくぐった。身体の正面を自分に向けた善次郎の腹に飛び込むようにぶつかった。
善次郎の背から、晋輔の小太刀の切っ先が突き出るのを恋歌は見た。
善次郎の動きが止まった。やがてその身体が晋輔に覆い被さるように、前のめりになる。
「やった」 と、美雪が呟き、恋歌もやったよ、と呟いていた。自分の呟きが、自分で思ったよりも嬉しそうなのに恋歌は驚いた。彼女は、自分がただ怪物が倒れたことだけではなく、高村晋輔が本懐を遂げたことを歓んでいることを感じていた。
「やったね」
恋歌は頬が緩むのを感じながら、足を踏み出した。美雪が部屋の中へ入ってきた。
空気が緩んでいた。
その中で。
崩れ落ちるはずの善次郎の身体が、旋回した。
同時に何か重いものが吹き飛んできて美雪の身体にぶつかり、彼女の足を宙に浮かせた。それが高村晋輔の身体であると恋歌が気づくよりも先に、美雪は晋輔とともに壁に叩きつけられていた。
「美雪っ」
善次郎から目を離しちゃ駄目だ。
そう頭の隅で誰かが(おそらくは自分が)叫んでいたが、恋歌は無視して二人に駆け寄った。
部屋の隅の壁に叩きつけられた二人は障子をへし折っていた。下半分を身体の下に敷き、上半分を頭の上に置いている。
恋歌はその障子を動かし、二人を見た。
高村晋輔は頭を打っていた。意識はないが、死んではいない。息はしている。このままでいれば死ぬこともないような気がする。もちろん、あの怪物がこのまま帰ってくれればの話だ。
美雪は背中を強く打ったらしい。それでも彼女は意識があった。
しゃがれた声で、自分は大丈夫だと言い、恋歌を安心させようとした。その手には無意識に障子の折れた格子を握っていた。大丈夫だと言いながらその手を振るから、恋歌の目を突きそうになった。言葉は出ても、意識はもうろうとしている。その後呟いた念仏はほとんど言葉として聞き取れなかった。
背後で怖ろしい気配が膨れ上がった。恋歌は振り返りたくなかった。
だが、うなじを荒い息が撫でれば、嫌でも振り返らざるをえない。
腹に突き刺さった晋輔の短刀もそのままに、善次郎が牙を剥いていた。
嬉々として、恋歌に顔を近づけ、口を開いている。その端から涎が溢れ、その奥からは甘い腐臭が臭ってきていた。
美雪が恋歌を引き寄せる。
しかし、それで離れた距離など僅かなものだ。善次郎は更に身を乗り出してきた。
美雪の意識はもう完全に朦朧としているようだった。得体の知れない言葉を呟きながら、彼女は善次郎を押しのけようとするかのように腕を突きだした。
美雪は非力だった。
最初からそんなことはわかっている。
高村晋輔は膂力に優れた男には見えなかったが、それでも彼が重量のある太刀で殴ってなお、善次郎はびくともしなかったのだ。非力な女の力で押しのけられるはずもない。
そしてもちろん、彼はそれで押しのけられはしなかった。化け物じみた善次郎の力を止められるわけがない。
にもかかわらず。
不意に、善次郎は動きを止めた。
ちょっと短めですが、切りのいいところですので。




