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22.善次郎 その3

 何か急に用事でも思い出したように。

 急に便意でも催したように。

 善次郎は、動きを止めた。

 その目が、自分の胸へと向けられた。美雪の細い腕が触れる胸へ。

 それから、ゆっくり善次郎は美雪を見た。

 驚愕。そして苦痛。

 恋歌には生前でさえ見せたことのない表情が、善次郎の顔にあった。彼は信じられないようなものを見る目で美雪を見た。穏やかだったはずの人生の最後で手ひどい裏切りにあった老人のように。彼は泣き出しそうだった。

「この……よくも……小娘め」

 驚いたのは美雪も同様のようだった。善次郎に触れていた手をおずおずと引っ込める。その手には障子の格子の一部が握られていた。

 細い木で組まれたその先端は無造作に折られ、尖っている。

 あれが突き刺さったの?

 こんな細いものが。この子の弱い力で?

 そうではなかった。

 その細い格子は、善次郎に刺さってはいなかった。

 それは今も美雪の手にある。意識を混濁させて何事か呟く美雪の手の中に。その先端は善次郎の血に濡れてはいない。そして、善次郎の胸に刺し傷はなかった。

 そこにあったのは火傷だった。

 火傷?

 何故?

 燃えているわけでもないのに。

「よくも……俺に……こんな……」

 善次郎はゆっくりと身体を引き、ゆっくりと腕をふりあげた。その先で握られた拳がぶるぶると震えている。善次郎は全身の力をその腕に込めていた。怒りが恋歌への情欲も晋輔への敵意も忘れさせているようだった。

 震えながら善次郎を見上げる美雪は、動くことさえできないでいる。恐怖に青ざめた唇は、意味不明の言葉を紡ぎ、垂れ流している。

 その美雪に向かって、善次郎は拳を振り下ろした。

 動け。

 恐怖の中で、恋歌は自分の体に命じる。

 幸いなことに。意外なことに。恋歌の体は動いた。

 恋歌は美雪を抱き寄せ、彼女の身体に覆い被さった。恋歌の計算では善次郎の拳は伏せた頭の上を空振りするはずだった。しかし、善次郎の拳は微かに恋歌の額を掠めたのだ。

 とはいえ。

 ただ、掠めただけ。

 ただ、それだけだった……はずだ。

 だが、その瞬間、恋歌は脳天に花火でも打ち込まれたような気がした。

 視界が真っ黒に変わり、全身から力が抜けた。

 目は見えない。

 耳は、聞こえているらしい。

 けれど、頭の奥で彼女の知るすべての音が無意味に鳴り響いているような気がした。音が整理されるまでに、少し時間がかかったかもしれない。

「恋歌っ」

 気がつくと、美雪の声が叫んでいる。しかし、その声は恋歌の頭の中で響く騒音の中でえらく遠く感じられた。

 起きなくちゃ、と恋歌は考えた。

 あいつが来る、それだけはわかっていた。

 問題は自分の足がどこにあり、自分の手がどこにあって、どんな姿勢でいるのかわからないことだ。だから、唯一動く唇を恋歌は動かした。

「ちくしょう。あたしはあんたのものになんかならないっ!」

 そう叫んだつもりだったが、実際には嗄れた声が意味の通らないことを囁いただけだった。

 駄目だ。あたしも美雪と同じ様なことを呟いているみたいだと思った。

 瞬間、深い穴の中から出て行くように視界が戻ってきた。それでも自分がどこにいるかわからない。自分の身体で庇ったはずの美雪が、あんなに遠くにいる。右目がよく見えない。頭が熱い。だけど尻は冷たい。床は木みたいだ。そろそろと首を回してみると、立っているにしては視界が低い。

 恋歌は廊下に腰を落としているようだった。

 掠めただけだと思ったが、彼女は善次郎に殴られ、吹き飛んだらしい。

 ここはどこだ。

 右目が滲んでよく見えない。

 手で触れるとぬるっとした感触が手を濡らした。

 血が出てる。

 顔を傷つけられた?

 あたしの自慢の顔に。

 ちくしょう。

 女を殴る奴なんて。

 恋歌は上半身を起こそうとして、既に身体が起きていることに気づいた。彼女は廊下の柱に叩きつけられたようだった。今、背中にしているのは、雨戸らしい。

 何故、誰も来ないんだろう。

 そう思って気づいた。

 廓なんて、毎晩がお祭りみたいなものだ。少しくらいの騒ぎじゃ誰も気がつかない。

 誰か助けて。

 悲鳴をあげたくても、声が出てこない。

 だけど、高村晋輔はまだ動かない。美雪は目を閉じて、何事か呟いている。あたしも戦うことなんてできない。

 助けを呼ばなくちゃ。

 恋歌は床を叩いた。若衆の足音よりも小さな音が聞こえただけだ。

 誰か。

 善次郎は美雪を睨んでいた。

 目を閉じ、何事か呟いている美雪を忌々しげに睨んでいる。

 だが、恋歌の視線を感じたのかもしれない。

 その眼球が動いて、恋歌を捕らえた。恋歌とその視線が交わった。

 善次郎の顔から力が抜けた。

 美雪に対する理由の知れない憎悪が抜け、恋歌に対する情欲が蘇る。

 にたあ、と嫌らしい笑いを浮かべた。開いた口の端から涎が垂れた。足を踏み出し、恋歌の方へと歩いてきた。

 何か。

 ひとを呼べるもの。大きな音を出すもの。

 恋歌は首を回した。

 それがあった。ただ、問題は、恋歌の力で「恋歌の望み通りのこと」ができるか、だ。だけど、若衆はまだここを直していない。不器用な高村晋輔も、まだ手をつけてはいないだろう。

 だから、ここはまだ壊れかけたままだ。

 そうだと信じたい。

 恋歌は拳を前に突きだし、それから渾身の力で腕を振り、身体ごと雨戸に叩きつけた。

 ガタン、と雨戸が敷居から外れた。

 善次郎が驚いたような表情を浮かべた。少し面白がっているようだった。

 雨戸はゆっくりと外ヘと倒れてゆき、そこで濡れ縁の手摺リに当たった。だが、その重心は低い手摺りの上を越えて行き、雨戸は手摺リの上でくるりと回って落ちた。一枚が倒れると、次々と隣の雨戸が後に続いて落ちていった。

 桜泉楼はロの字型をしている。中庭には小さな池があり、その周囲は大きな石で縁取られている。その石の上に、恋歌が叩いた雨戸は落ちた。物凄い音がして、朦朧としていた高村晋輔でさえびくりと震えた。廓の中にいた者はすべてそれを聞いただろう。最初の音に気づかぬ者でも、連続して起こるひび割れた音に気づかぬものはなかった……はずだと恋歌は思った。

「何だ」

「何の音だ」

「何が起きた」

 誰かが叫んでいる。一階から駆け上がってくる若衆の足音。そして二階の部屋からも何人か知っている顔が出てきた。その一人が恋歌の顔を見て、悲鳴をあげた。

 どうする善次郎。

 人目なんか気にしないのか。

 善次郎は笑っていた。

「よくやった。さすがに女だ。助けを求めるのはうまい」

 穏やかに、恋歌を見て、笑っていた。

 その足元で霧が渦を巻いた。

 霧?

 部屋の中で沸きあがるのなら、それは霧ではなく、煙なのだろう。

 けれど、どこにも炎はなく、臭いもしなかった。

 善次郎の体から、霧は沸き出していた。

 日射しの中で氷が溶けて水になるように、彼の体は溶けて霧になろうとしている。

 善次郎は笑っている。

「まあ、いいだろう。俺は忙しくてな。他にやることもある」

 その笑顔が霧に霞み、霧に溶けてゆく。

「物事を楽しむためには準備が必要だ。そのための準備を、俺は惜しまない男だ」

「あんた……」

 唖然とする恋歌の前で、笑みが霧に崩れる。その寸前、笑みが大きく広がり、牙を剥いたのがわかった。

「次に会うときは……」

 その先は聞こえなかった。

 牙だけが恋歌の目に焼き付いていた。

 彼のすべてが霧に変わり、散り、消えてゆく。

 おそらくは彼の声さえもが霧に変わり、暗闇に溶ける。

 恋歌はそれを呆然と見ていた。

 善次郎の姿が完全に消えるころ、視界の隅で高村真輔がようやく身じろぎをするのが見えた。

 結局、二度目の突き出しも不首尾ということになるのだろう。

 しかも、今度は間違いなく、恋歌の客は殺された。

 抱かれたくない、と恋歌は願い、その通りになった。

 だが、どう考えても、これが自分の望んだ形だとは思えなかった。

 恋歌は深く深くため息をついた。

 善次郎は完全に消えていた。

 それから、周囲を見渡す。

 恋歌は四肢に残っていた力をかき集め、高村晋輔や美雪の方へと立ち上がった。

 その足元には善次郎を傷つけた障子の格子が落ちている。

 恋歌が見ることはなかったが、井の字さえ残さずに折れたそれは、×印を。言い換えれば、小さく十字を組んでいた。

これで、二日目が終わりです。


美雪の秘密もわかったところで(わかりましたよね?)、少し更新をペースダウンします。

まず、以前から活動報告に書いていた修正をしたいと思います。

ストーリーに大きく係わる修正はない予定ですが、変更については、活動報告などで記載したいと思います。

また、物語が進んだ部分については、参考文献みたいなものものせようか、と。(同時に、意識的についた嘘については「言い訳」も)


この先の物語については、まだストックはあるのですが、私は書きたいところから書くタイプなので、書けていない(大きな)穴もあります。(物書きとして、ダメかも)

ですので、その辺を書きながらの更新となります。


ここまでで全体の3分の1くらい、かな。

(大まかに、です。ネタにも関わるので概算で)

どうか最後までお付き合いいただけるとありがたいです。

また、コメント、評価などもいただけると嬉しいです。

よろしくお願いします。

(以前、ここで「半分くらい」と書きました。が、間違いがありましたので、「3分の1」に変更します。すみません)

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