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18.「夜」の始まり2

2014/11/14 誤字など訂正。

 恋歌が目を開いたとき、籐衛門の口元は奇妙に歪んでいた。

 笑ってる?

 恋歌は善次郎の笑みを思い出し、口の中に嫌な味が広がるような感触を得た。

 まさか、こいつもあの手の男?

 そう考えて、恋歌は思い直した。違う。多分、これは勝利の笑み。あたしを遂にモノにできるという征服感。

 そんな顔で見下ろされるのは、いい気分ではなかったが、どんな気分で女を抱こうが金を払った者の勝手だ。それくらいは恋歌もわかっている。仕方がないと思って諦めることにした。だから、もし、籐衛門がその表情のまま、恋歌に視線を落としたら、恋歌は黙って目を閉じて身体の力を抜くつもりだった。

 だが、籐衛門は真っ直ぐ前を睨んだままだった。凍てついたように動かない表情と姿勢。

 本当に笑っているのか?

 緩んだ口元と頬。

 そして、目尻。

 確かにその表情を分類すれば「笑顔」とされるだろう。だが、少なくとも、恋歌には彼が何かを楽しんでいるようには見えなかった。

 恋歌は、カムロ時代に楓から聞いた騒動を思い出した。

 男を迎え入れていた女の体が、いきなり痙攣を起こしてしまったのだ。そうなると、男は抜けられなくなってしまうらしい。

 男女は、体を重ねたまま動けなくなった。

男は痛みに悲鳴を上げ、しかし、妻帯者だった彼は郭の話題になるのを恐れ、穏便にことを始末する事を望んだ。医者を呼ぶ呼ばないで大騒ぎになった。

 その結果、彼は悲鳴を上げながら「医者はだめだ」と騒ぐことになった。

 結局、彼は医者によって救われ、郭は笑える話題として、彼を肴にし、以来、彼は郭には来なくなった。

 そのときの男の表情を、もちろん、恋歌は見たわけではない。

 けれど、女にのしかかった男の奇妙な表情。

 少なくとも、恋歌自身の経験したことのない事態だと想像したのだ。

 だけど、と恋歌は流石に理解する。

 あたしはまだ何もされてない。と恋歌は自分がまだ着物を着たままでいるのを確認する。だから、あれはない、はずだ。

 では、ぎっくり腰?

 こちらの方はありそうだった。

 しかし、恋歌の口がそれを問うことはなかった。

 恋歌にも籐衛門の表情が何かわかったのだ。

 恐怖。

 恋歌は視線を自分の枕元に投げた。白い霧のような靄が、恋歌の顔の上を横切った。その靄の向こうに二本の足が見えた。土足で、誰かが恋歌の枕元に立っている。誰かがいつの間にか、恋歌の部屋に入ってきていたのだ。

 また!?

 恋歌は当然のように昨夜の騒動を思い出す。

 閨を迎える男女の枕元へのいきなりの闖入者。

 では、善次郎の役は、今日はこの籐衛門が引き継いだのだろうか。

 だとしたら、こいつは一体、誰を殺したんだろう、と恋歌は一瞬本気で疑った。

 ……確かに、誰かに邪魔して欲しいとは願ったけど。

「許し難いな」

 しかし、頭上から振ってきた声を聞いたとき、恋歌は反射的に上半身を起こした。とたんに、覆い被さっていた籐衛門と頭をぶつけ、二人してうめき声を上げる。

 くすくすと闖入者は笑った。

「いかんな、籐衛門。いかんぞ、恋歌」

 恋歌は額を押さえた手の間から、そいつの顔を見上げた。見る前から、それが誰かはわかっていた。そして、床入りをしないですむように、という自分の望みが叶ったにもかかわらず、自分がまったく喜べそうにないということも理解していた。

「言っただろう。お前は俺のモノにするって」

 善次郎の顔は青白かった。横になったら、十人か十人とも彼を死体だと断言しただろう。目の前に立っている姿を見ても、そいつが生きているとは信じられなかった。それでも善次郎は青ざめた面を恋歌に向け、口元だけで笑みをつくってみせた。目は笑っていない。しかし、他の男に抱かれようとしている恋歌を咎めているわけでもなかった。

 彼は嗤っていた。

「お前が……善次郎か。よくも出てこれたな」

 籐衛門が笑顔を繕いながら訪ねる。彼のような商人はいかなる場合でも、立場を忘れることはない。相手が人殺しの場合にはなおさらだろう。

 その彼に向かって、善次郎は一歩踏み出し、腰をかがめて、手を伸ばした。

 反射的に籐衛門が身を引き、後ずさろうとする。だが、籐衛門が下がるよりも早く、善次郎は彼の頸を無造作に掴み、持ち上げた。

 昨夜、彼自身があの鬼にされたように。

「ぐっ」

 籐衛門の口から言葉が途切れる。悲鳴に近い息が、のどの奥から微かにこぼれた。

 もちろん、彼は抵抗した。彼は善次郎の腕を掴み、自分の喉から引き剥がそうとしていた。見ている恋歌にもそれはわかった。籐衛門の足は畳から離れ、見えない階段でも駆け上ろうとしているかのようにばたついている。だが、善次郎には籐衛門の必死の抵抗に気づいた様子がなかった。彼は腰も落とさず、片手だけで、籐衛門の身体を持ち上げていた。

 平然と。

「いいんだ、籐衛門」

ぞっとするような猫なで声。ゆっくりと首を振ってから籐衛門に頷いてみせる。

「いいんだよ。いいのさ。お前のせいじゃない。悪いのは、この娘だ。狡賢くて、小憎らしい、愚かな娘さ。そう思うだろう?」

 籐衛門は答えない。答えられない。

 籐衛門は息もできないのに、善次郎はどんな答えを期待したのだろう。

苦しげにもがく籐衛門の首を片手で吊ったまま、善次郎の目が再び自分を捉えようとする。恋歌はその前に少しでも彼から離れようと後ろ向きで下がった。

「何故逃げる、恋歌。逃げることは罪を認めることだ。そうだろ?自分が悪いことをしたとわかっているんだな?自分が悪い娘だと知っているんだな?そうだ。そうだとも悪い娘だ。罰を与えてやらねばならんな、恋歌」

やばい。

 こんな奴を野放しにしておいちゃ駄目だ。

善次郎が足を踏み出した。恋歌が尻を畳に擦りながら必死に後退する距離を、一歩で詰めてきた。籐衛門の首を右手一本で支えながら。

 籐衛門の顔は土気色に変わりつつあった。

「恋歌、俺から逃げられると思ったのか?俺を馬鹿だと思っているのか?女のくせに。男を馬鹿にしたらいかんということを、教えてやらねばならん。そうだろ、籐衛門」

 籐衛門は答えなかった。

「籐衛門?」

 善次郎は右腕にぶら下げた男の顔を見た。白目をむいた男の顔は、もう何の反応も見せなかった。ただ、その口からこぼれた泡が、善次郎の腕を濡らしている。善次郎が眉をひそめて指を開くと、籐衛門の身体は不意に重みを取り戻したように、畳に落ち、体重にふさわしい音をたてた。首が異様な方向に曲がっていたが、善次郎も恋歌も興味を示さなかった。恋歌は自分のことで精一杯だったし、善次郎も恋歌のことしか考えていなかった。

「お前には色々なことを教えてやる。頭の悪いお前でも、身体に覚えさせれば忘れはすまいよ」

 善次郎は嗤った。

 歪んだ男が歪んだ笑みを浮かべる。歪んだ笑みに、唇を開く。大きく。

その唇の奥で、あるはずのないもの、少なくとも昨夜まではなかったものがぎらりと凄んだ。

「そんな……」

 恋歌は息を飲んだ。

 紛れもない。善次郎の口からは二本の牙が突き出ていた。

 部屋への現れ方。肌の色、そして牙。恋歌は善次郎がもはや生きた人間ではなくなったことにようやく気づいた。

目の前に立っているのは、善治郎ではない。そいつは人ではなく、鬼そのものだった。

昨夜まで善次郎であった鬼が、顔を近づけてきた。血走った目が恋歌の身体を舐めまわし、大きすぎる牙を生やした口の端から、涎が溢れていた。

 鬼は飢えていた。

 あたし、そんなに美味しそうなのかな、と恋歌は思った。

 こういう場合は……

 恋歌はどうするべきか知っていた。悲鳴だ。それが一番いい。悲鳴をあげて、逃げ出すこと。じっとしていたら、絶対に駄目。

 それはわかっている。なのに声が出てこない。

 駄目だ。

 声を上げなくては。

 悲鳴でもなければ、客を入れた遊女の部屋に入ってくるような奴はいない。恋歌はそう思う。日本中探したっているものか。

 声が聞こえてきたのは、そのときだ。

 また、あの若衆の声だった。

「またですか、お客様?困ります。困りますよ。待ってください!」

 恋歌は善次郎も、その声を聞いていることに気づいた。恋歌へと身を乗り出していた善次郎は、いつの間にか穏やかな表情を取り戻し、背筋を伸ばしていた。彼は、恋歌には聞こえない音楽でも楽しんでいるかのように、目を閉じ、首をゆっくりと揺らした。

 大股で誰かが歩いてくる。早足で廊下を進む足音が近づいてくる。そして、恋歌の部屋の前で止まった。

「冗談じゃないですよ。怒られるのは、俺なんですからね!」

 若衆の悲鳴とともに襖が開き、小柄な侍は再び二組の太刀を携えて、部屋の中へと入ってきた。

「やはりここに来たか。善次郎」

 高村晋輔は静かに言った。

 恋歌は彼の方に走り出しながら、叫んだ。その声が明るんでいるが自分でわかった。安堵と嬉しさで声が弾んでしまうのを、恋歌は止めようがなかった。

「あんた一体、あたしの部屋をなんだと思ってるの!」

 それでも、恋歌は、なんとか怒ったようなフリをしてみせる。

 高村晋輔は困ったような顔で恋歌を見て、すまんと謝った。

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