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17.「夜」の始まり

 昨夜、恋歌は善次郎との閨を邪魔された。

 鬼に。

 それ以前に高村晋輔に。

 恋歌はあの時、腹を立てた。

 せっかく身請けされる機会を潰された、と。

 でも、今ならわかる。

 今なら思い出せる。

 恋歌は、安堵していた。善次郎との夜を邪魔されたこと。好きでもない男に抱かれずに済んだこと。自分の意志によらず、「一人前の遊女」にならずにすんだこと。

 恋歌は安堵していた。

 そして、一度経験してしまったから、恋歌はもう嫌がってしまっているのだ。

 廓に入ったときから、男に買われることが幸せなのだと教え込まれた。いい客がつけば廓での生活は楽なものになる。いい客に身請けされれば、ずっと幸せな人生を送れる。そう恋歌は教えられ、そう信じてきた。

 だけど、恋歌は一度経験してしまった。

 嫌なことから逃げられること。

 楼主とやり合うこともなく、遣り手に叱られることもなく、何より廓での常識に逆らうこともなく、不本意な相手との閨を過ごさないですむ夜を。

 自由な夜を経験してしまった。

 だから、恋歌は嫌なのだ。

 恋歌は気づいた。恋歌は知った。

 そう。私はこの男に抱かれたいと望んでいない。

 でも、どうすればいい?

 確かに恋歌は嫌がっている。

 でも、だからといって、嫌だとは言えない。

 それこそ、今更、なのだ。

 この夜のために、籐衛門は莫大な金を払っている。

 それは恋歌が一生郭で働いたところで、返せる額ではない。

 あるいは、他の客なら太夫として我侭を通すこともできるのかもしれない。

 気位の高い太夫が、客の無作法にへそを曲げ、席を立ってしまうことも、ままあることだ。そんなときの男は文をしたため、贈り物をして、機嫌を取り直す。あるいはその場で障子越しに太夫に寛恕を請うこともある。もちろん、男はいい笑いものだが、それもまた郭の風物詩でもあるのだ。

 だが、籐衛門は他の並みの客とは違う。

 冗談ではすまない金と笑いものにはできない客。

 それが今、恋歌を望んでいる。

 恋歌はそれを受けたのだ。

 今更逃げられるはずもない。

 だから。

 だから、恋歌は逃げられない。

 籐衛門が口を噤む。

 穏やかな笑みを口元に湛え、穏やかな目で恋歌を見つめる。

 あるいは穏やかさを装った視線。

 


「どうした?」

 籐衛門が見詰めていた。

 穏やかな笑顔。

 だが、恋歌の肩を抱くその手に少し力が加わる。

 恋歌は抗わない。

 抗ってはいけない、と知っているから。

 籐衛門の穏やかな笑顔。

 その笑顔は余裕なのだろう。

 同じような遊女を抱いてきた場数が見せる余裕。

 恋歌の動揺も怯えも籐衛門にはすべて見透かされている。

 すべてを見透かした上で、籐衛門は躊躇う恋歌を抱こうとしている。

 仕方がない。彼にはその権利がある。

 恋歌には逆らえない。

 そもそも恋歌はどうなればいいと思うのだろう。

 籐衛門に抱かれたくない。

 では、誰になら抱かれていいと思っているのだろう。

 郭の若衆の顔がいくつか浮かぶ。

 あり得ない。

 楼主の顔が浮かぶ。

 あり得ない!

 思わず噴出しそうになる。

 そして。

 高村晋輔の顔が浮かんだ。

 彼の顔は悪くなかった。

 彼が剣を構えた姿勢は美しかった。

「どうした?」

 籐衛門の顔が間近にあった。

 その目が少し険しくなっている。

 その理由がわからず当惑している恋歌の頬を籐衛門の手が撫でる。

 その指が恋歌の頬を拭う。

 そして、恋歌は自分が涙を流していたことに気づいた。

「あ……あたし……」

「噂は聞いたぞ。あの侍と何かあったのか?」

 あの侍?

 それは勿論、高村晋輔だった。

 あの噂。

 楓が流した無責任な噂だ。

 恋歌が高村晋輔と「どうにか」なったと疑っている。

 馬鹿馬鹿しくて、恋歌は吹き出した。

 酒を口に含んでいなくて良かった。籐衛門の顔に吹きかけてしまうところだった。

 だが、その笑い声が嘘ではなく、本当におかしくて笑っていることが籐衛門にもわかったのだろう。

 籐衛門の視線から険しさが消える。

 そのことに安堵して、恋歌は問いかける。

「あんな噂、信じてるんですか?」

「いや…」

「私、昨夜初めて彼に会ったんですよ?一度だけ。しかも、彼はその時、刀を振り回してました。とてもそんなべたべたする様な雰囲気になる時間はなかったです」

「もちろんだ」

 当然わかっていた、とばかりに籐衛門は頷く。

「あんな噂、信じるはずがないだろう」

 だが、そこで大きく息を吐いた。

 籐衛門は目に見えて安堵していた。

 だが、それを認めることは矜持に障るらしい。

「商人がいちいちくだらない噂に踊らされていたら、商売にならないだろう」

「そうですね」

「そうだとも」

「そうですよね」

 安心したことでまた大胆さをも取り戻したらしい。

 再び恋歌の肩に回された手に力が入る。

「落ち着いたか?」

 落ち着いてなんかいない。

 だが、引き延ばしたところで答えは同じだ。

 逃げられない。逃げてはいけない。

「大丈夫です」

 恋歌は頷いた。

 この答えは間違っていない。

 だから。

 恋歌は立ち上がる。

「床の用意をしてきます」

 籐衛門は鷹揚に頷き、恋歌を手放した。


  *


 襖を開けると、すでに布団は敷いてある。

 二組。隙間なくぴったりと並んでいる。

 今更、「床の用意」も何もないのだが、こうするものだと楓には教えられた。

 女が先に行き、男を待つための言い訳。


 幾重にも重ねた着物をすとんと落とし、一枚だけを残す。

 脱いだ着物は簡単にたたむ。

 そうして籐衛門を待とうとしたとき、襖が開いて、籐衛門が入ってきた。

 待つ間もない。

 せめて、もう少し待てないのか。

 つい零れそうになる溜息を、そっと胸の中に落とす。

 籐衛門は笑っていた。

 たぶん、恋歌も笑うべきなのだろう。

 だが、笑えなかった。

 いや、笑えた。

 唇をゆがめ、目じりを下げてみれば、笑顔に見える。

 それが本当の笑顔であるかなんて、籐衛門は考えようとしない。

 慌てたフリをして、恋歌は布団の脇に座る。

 三つ指を突いて頭を深く下げる。深く。深く。

「よろしくお願いします」

「おう」

 しゃがれたような恋歌の声に、籐衛門は満足げに頷く。

 頭を下げた恋歌の前に籐衛門は立つ。

 ……もう一度。

 籐衛門は恋歌よりぞんざいに衣を脱ぎ捨てる。

 ……もう一度、誰かこの夜を邪魔してくれないだろうか。

 恋歌はそんな風に考える。

 また、誰かこの襖を開けて、恋歌を救い出してくれないだろうか。

 ありえない。

 恋歌はそれを知っている。

 だから、籐衛門が抱きしめてきたとき、恋歌は目を閉じ、体から力を抜いた。

 籐衛門は布団をめくり、足を入れた。そのまま大きく布団をめくり上げ、恋歌を招く。

 よし、と恋歌は心の中で頷く。

 覚悟は決めた。覚悟は決まった。もう大丈夫だ。

 恋歌は籐衛門の隣にするりと滑り込んだ。そして目を閉じ、籐衛門を待つ。

 そこから先は気配と音と肌触りでわかる。

 籐衛門は、恋歌を抱きしめ、その胸に顔を埋めた。

 恋歌は彼を抱きしめる。そうしろ、とかつて遣り手に言われたとおり。

 そして。

 恋歌は待つ。

 彼がしてくることを。

 彼は、恋歌の顔の外に手をつき、上体を支えた。

 恋歌は待っていた。

 彼がすることを何でも受け入れなさい、と楓に言われた助言を思い起こしながら。

 恋歌は待ち続けた。

 だが、籐衛門は恋歌の「上」で恋歌を見下ろしたまま、動こうとしない。

 恋歌は待つのが苦になった。

 だから、うっすらと目を開き、そっと籐衛門の顔を見上げる。

 籐衛門の顔は、歪んでいた。


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