16.「遊女」その2
善次郎の死を、「遊女」は見たわけではなかった。
結局のところ、それはただの噂話でしかない。
そもそも見た者がいたわけでもない。噂を聞いた者の中でも、信じているのは半分程度というところか。もちろん、信じていないからといって、善次郎が消えた理屈を説明できる者がいるわけでもないのだが。
それでも、彼女は信じていた。
彼女にとって、「死」は特別な出来事ではない。それは普段はあまり見えないけれど、いつでも彼女のそばにあり、潜み、いつでも簡単に、容赦なく牙を剥く。
誰もが知っているそのことを、彼女もまた知っていた。あるいは、長崎に住む他の連中よりも強く。
彼女の生まれた土地では、あの年、死は彼女の肩を掠めていったのだから。
この長崎に来れたことが、彼女を死の顎から救ったのだ。
いや。
救われたわけでもない、か。
死は掠め、一度は彼女から遠ざかったように思われた。
だが、死は諦めない。
どれほど死から逃れようと、どれほど死を遠ざける努力をしようと、死はいつか必ず人に追い付き、人を捉える。
例外はない。
彼女はそのことを忘れない。
だから。
彼女は容易に信じることが、感じることができた。
善次郎という得体の知れない男が、得体の知れない怪物に殺されたのだということを。
だって、人が死ぬなんて、よくあることだから。
誰かが今日の昼ご飯は食べたと言ったら?
そりゃ、間違いかもしれない。嘘かも知れないし、勘違いかもしれない。食べてないかもしれないさ。
でも、疑う理由もない。
誰も、疑う手間さえ費やさないだろう。
飯を食うなんて、疑うほどのことではないのだから。
死ぬことが疑うほどのことではないのと同じように。
だから。
だから、あの男は死んだのだろう。
彼女は善次郎が郭の暖簾をくぐったときに、ちらりとその顔を見た。別に会話をしたわけでもなかったし、目が合ったわけでもなかった。
だからもちろん、そんな男の死を悲しんでいるわけでもない。
同情なんて、するはずもない。
そもそも、そいつは人殺しらしい。人を殺したのなら、自分の命が失われることも理解できるだろう。できたはずだ。
死ぬということがどういうことなのか。
彼女はため息をつき、階段をのぼる。
死は楽しいものではない。
それが他人事であろうと、楽しいものにはなりえない。
人殺しの悪党がその報いを受けたのであろうと、彼女はそれを祝う気にはならなかった。
千鳥は……じゃなかった、恋歌にとっては祝うどころか、せっかくの客を失ったのだからとんでもない痛手だったろう。
楼主が恋歌に当たらないであげてくれるといいのだが、と今朝「遊女」は、恋歌のために願い、その望みが叶えられる可能性がひどく薄いことを思って、再びため息をついたものだ。
可哀想に。
と、恋歌を思った。
まあ、結局、同情するようなことにはならなかったわけだが。
そこは丸山一とも言われる容姿だ。彼女が思うようなことにはならなかった。
わかってる。
恋歌と「遊女」は同じではない。
「遊女」は決して容色に優れてはいなかった。
客が勝手に集まってくることもなかった。
それでも。
目当ての敵娼に先客がいたり、特に目当てがいなかったりする客は彼女に割り当てられることもある。
それを割り振る遣り手や若衆に彼女はつねに心遣いを忘れなかったから、彼女は比較的そういう「おこぼれ」を貰えることも多かった。
そんな客でも、客は客だ。
「遊女」は彼らと話し、煽て、煽り、そして、抱かれた。
彼女は努力した。
酒を注ぐ時も、客の愚痴を聞く時も、もちろん、閨の中でも。
だから、客を失うことの辛さもわかる。
自分の努力が否定されることの辛さも理解できる。
彼女自身が経験したことだから。
……こんなに精一杯やっているのに。
……自分はすべてを投げ出しているのに。
……自分にとっての最高の笑顔と最高の話術と何も隠さぬ肢体を与えているのに。
それでも。
そのすべてを、彼女のすべてをゴミくずのように放り捨て、客は彼女の手からすり抜けてゆく。遣り手の計らいで回してもらえた客も、目当ての敵娼が空けば、たちまちそちらへと戻る。
もっとひどいのは、「目当て」がいなくても、他の女を摘んでみようとする奴らだ。
その屈辱。
虚しさ。
彼女は知っている。
それでも。
仕方がない、と彼女は思う。思える。
ここで生きてゆくというのは、そういうことだ。
ただ生きていけるだけでありがたいことなのだ、ということを彼女は知っていた。
いつか訪れる死を、一日一日先延ばしに出来る幸福。
それこそが幸福なのだ。
だから、彼女だって幸福だと言える。客がいなくたって、生きていけるのなら、そんなに不幸だとは言えない。それだけで幸せなことなのだ。
とはいえ知っている。もちろん。
死から逃れ続けることは出来ない。
だから、善次郎という男がどんな男かは知らないし、別に興味もないが、皆が死んだというのなら、おそらく死んだのだろう。
どうせ死んだのだろう。
自分が逃れ続けている死を、その男はかわしそこなったということ。
ありきたりの現実。
それだけのこと。
驚くことはない。
不思議なことなんて、何もない
「遊女」は、自分の部屋の障子を開いた。
何も驚くもことなどない、と思っていた。
では。
「よお」
部屋の中のこいつは。
目の前で嗤っているこの男は誰だ。




