2-3-25 終章 | 生きていた女王
あなたは覚えていないかもしれない。
かつてこの国に、アーゼラという名の女王がいたことを。
彼女は大いなる魔法によって、世界に秩序をもたらそうとしていた。
王座ではなく、魔法によって統べる──それが彼女の選んだ道だった。
だが、最終段階の儀式において、何者かの干渉が入る。魔法陣の根幹が歪み、流れていたはずの魔力が逆巻いた。
異物。
明らかに外部から差し込まれた、闇の術式。
それは破壊ではなかった。
上書き。
円環構造の外縁に、異系統のコードが強制接続される。黒い線が節点へと侵入し、既存の術式に干渉する。
一本接続されるたび、魔力位相が反転する。
順循環は逆流へ、安定式は競合状態へ。
暴走ではない。
制御権の奪取。
アーゼラは即座に解析を走らせた。
外部術式の構造を読み取り、切断点を探る。
だが──多すぎる。
侵入経路が指数的に増殖していく。
節点から節点へ。
補助環へ。中枢演算部へ。
整然と配置されていた幾何学は、瞬く間に可読性を失った。
絡まり合う黒い線。
分岐。再結合。再侵入。
回路図は、もはや“塊”だった。
その瞬間。
一本が、彼女の足元へ伸びる。
術式内部に留まっていたはずのコードが、
物理位相へと滲み出す。
空間が軋む。
黒い線は、ぬるりと床を這った。
──ありえない。
術式は概念層に存在するはずだ。
実体を持つはずがない。
だが、それは彼女の足首に絡みついた。
冷たい。
違う。
温度ではない。
“存在そのもの”が侵食される感覚。
振り払おうとした瞬間、二本目。三本目。
腕に、胴に、喉元に。
理論が追いつかない。
切断式を構築するより早く、
黒い線は増殖し、束となり、塊となる。
絡まり、捻じれ、締め上げる。
整然たる魔法陣は、煮崩れた麺のような黒い塊へと変貌していた。
引きずられる。
魔法陣の中心へ。
ずる、と。
音がした気がした。
それは暴走ではない。
転移でもない。
捕食。
当時の魔法使いたちはこの禁術を、正確に定義することができなかった。
構造は解読不能。
理論体系にも分類不能。
ゆえに、ただその外観だけをもって名付けた。
──スパゲッティコード。
だがその名の軽さとは裏腹に、それは女王アーゼラを、生きたまま世界から放逐した。
焼けるような痛み。引き裂かれる魂。
世界が崩れ、光が断ち切られ、彼女は存在そのものを剥ぎ取られる。
ただ一人、永遠の亜空間へ。
◇ ◇ ◇
どれほどの時間が過ぎたのか、分からない。
秒が永遠に感じられ、永遠が瞬間に溶ける。
境界のない空間。
音も色も温度もない虚無。
その中でアーゼラは、かつて高潔で冷徹だった自分が、少しずつ崩れていくのを感じていた。
浮かび上がるのは、断片化した記憶。
剣を向けた敵。
忠誠を誓った臣下。
そして、最後に視界に映った“裏切りの気配”。
それらは幻のように現れては消え、彼女の精神を削り取っていく。
女王としての輪郭が、溶ける。
「私は……誰……?」
声に出したのかどうかも曖昧だった。
それは言葉というより、存在の残滓だった。
疲労と空虚が重くのしかかる。
もはや抗う力も尽きかけた、その時。
空間に、亀裂が走った。
闇を裂く、白い光。
次の瞬間、強烈な引力が彼女を捕らえる。
抗う間もなく、身体が引き寄せられ、裂け目の向こうへと放り出された。
◇ ◇ ◇
「──!」
衝撃。
湿った地面に叩きつけられ、肺から空気が抜ける。
森の匂い。
冷たい土の感触。
現実だ。
だが立ち上がる力はない。
魔力は枯渇し、肉体は衰弱しきっている。
視界が滲む。
「おい……まだ生きてるか?」
落ち着いた、低い声。
重たい瞼を押し上げると、短い黒髪の青年が立っていた。
異国風の衣装。その背後には、見慣れぬ魔法陣。
円環と古い文字列が絡み合う構造。
それは彼女の知る魔法体系とは明らかに異なる──だが、どこか懐かしい。
青年は迷いなく彼女を抱き起こす。
支える手から流れ込む魔力は、荒々しさのない、澄んだ波。
「無理に動くな。休め」
彼の指先が紋様を描く。
淡い光が編み上がり、粒子となってアーゼラを包んだ。
癒しの魔法。
だが洗練された現代魔法とは違う。
もっと古い、原型に近い術式。
──レガシー魔法。
その名が、かすれた意識の奥に浮かぶ。
この世界は何だ。
私はどこへ落ちた。
問いは浮かぶが、思考は長く続かない。
「今はそれ以上考えなくていい」
青年の声が、静かに届く。
魔法の光が、削れた肉体をゆっくりと修復していく。
だが心は、まだ亜空間の闇を抱えたままだ。
狂気と正気が、薄氷の上で揺れている。
それでも、彼の存在が、小さな灯をともしていた。
「《アマテラス》の加護があらんことを」
その言葉に導かれるように、アーゼラは目を閉じる。
久方ぶりの、安らぎ。
深い闇ではなく、静かな眠り。
彼女が再び目を覚ましたとき。
それが、女王アーゼラという存在の──
新たな舞台の始まりとなる。
第三部につづく。
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