2-1-1 序章 | グリムロス帝国
第二部の始まりです。
第一部を読んでいると一層楽しめますので、是非そちらの読了をお勧めします。
ルキウス・ヴァルトラ皇帝は、玉座の前で身じろぎひとつせず思案に沈んでいた。
玉座の間には、焚かれた香のかすかな匂いと、石造りの床から立ちのぼる冷気が満ちている。広大な空間であるにもかかわらず、音という音は吸い込まれ、まるで世界そのものが息を潜めているかのようだった。
天井近くまで伸びる巨大な窓の外には、白一色に染まった雪原が広がっている。遠く、地平線の向こうに連なる山脈は、氷に閉ざされた牙のように鋭く、冷酷に空を裂いていた。その無慈悲な光景は、皇帝の内面を映す鏡でもあった。
「……南方の女王は、もういない」
低く落とされたその声は、独り言のようでいて、玉座の間に立つ者すべてに届いた。
その言葉に応じるように、皇帝の右後方に控えていた参謀、エドリック・スコルニアが静かに頷く。
銀縁の眼鏡の奥で、彼の目は一瞬だけ細められた。理知的で冷静な表情の裏に、計算と確信が折り重なっている。
「はい。女王の急逝は事実です。公式には病とされていますが、王都では既に動揺が広がっています。王権の空白は、必ず混乱を生みます。……今が、最も効率の良いタイミングでしょう」
淡々と語られる言葉は、報告というより判決に近かった。
ルキウス皇帝は、ゆっくりと視線を玉座の間の奥へと移す。
そこには、光の届かぬ影の中に立つ一人の女がいた。
「素晴らしい仕事だ、ナディア」
名を呼ばれ、ナディア・ヴァルシオンは一歩前に進み、静かに一礼する。
特殊部隊を束ねるその女は、軍装を纏いながらも、どこか刺客めいた気配をまとっていた。長い髪は結い上げられ、表情は穏やかだが、その瞳には一切の情がない。
「任務は完遂しました、皇帝陛下」
低く、抑えられた声。
それは誇示でも弁明でもなく、単なる事実の報告だった。
「南方王国の女王は、確実に排除されています。彼女の死により、王都の防衛網は著しく弱体化しました。軍、神殿、評議会──いずれも指揮系統を失い、互いに牽制し合っています。次の段階へ進む準備は整いました」
一瞬、彼女の唇にかすかな微笑が浮かぶ。それは成功の喜びではなく、計画が想定通りに進んだことへの確認に過ぎなかった。
皇帝は満足げに頷き、今度は玉座の間中央に立つ男へと目を向ける。
総司令、ヴォルフガング・アイゼンバルト。
屈強な体躯を持つ彼は、岩のように動かぬ姿勢で皇帝の視線を受け止めていた。軍服の肩章は数々の戦を物語り、その眼差しには、長年鍛え上げられた不屈の意志が宿っている。
「ヴォルフガング。我が帝国の切り札は、すでに動かせるか?」
短い問いに、総司令は一拍置いて答えた。
「はい、陛下。主力兵装『ヴァルク』および『ヘルダル』の各部隊は、すでに展開待機状態にあります。航空戦力として『フェンリス』、『スルト』も調整を終え、間もなく出航可能です」
彼は一切の誇張を交えず、事実のみを述べる。
「これらは単なる兵器ではありません。魔法理論と工学技術を融合させた、我が帝国の結晶です。南方諸国が頼る旧来の魔法体系では、対抗は不可能でしょう」
「素晴らしい」
ルキウス皇帝は、深く玉座にもたれかかり、満足そうに息を吐いた。
「南方の国々は、いまだに“選ばれし魔法使い”や“血筋”といった幻想に縋っている。だが、時代は変わった。力は管理され、量産され、制御されるものだ」
エドリックが口を挟む。
「特に問題視されていた“女王候補”たちも、所詮は未熟な存在です。いかに才能を秘めていようとも、体系化された戦力の前では、単なる個体に過ぎません」
「ええ」
ナディアが小さく笑った。
「守られるべき象徴を失った今、彼女たちはただの子供です。恐怖と混乱の中で、正しい選択などできはしないでしょう」
ルキウス皇帝は、ゆっくりと立ち上がった。
その動きに合わせ、玉座の間の空気がさらに張り詰める。
「南方への一撃は、すでに放たれたも同然だ。鐘は鳴り、歯車は回り始めている」
彼は静かに、しかし確信を込めて言い放つ。
「我ら《グリムロス帝国》の勝利は、もはや結果でしかない。そして──再び歴史の裏側へと沈む国がある」
沈黙が落ちる。
誰一人として異を唱える者はいなかった。
彼ら全員が理解していた。この作戦の真の目的が、単なる征服ではないことを。
それは、かつて繁栄し、魔法の象徴とされた“あの国”を、完全に屈服させ、過去そのものを塗り替えることだった。
ルキウス・ヴァルトラ皇帝は、低く、重い声で最後に告げる。
「──その国の名は……」
彼の言葉は、まだ語られぬ未来へと溶けていった。
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