第七話:影を喰らう者
夕暮れのオレンジ色が、街を茜色に染めていた。
健志郎は桜ヶ丘ダンジョンの入り口に、再び立っていた。前回、ここから逃げるように走り去った時とは、何もかもが違っていた。
彼の左腕には、ジャージの袖に隠された黒いガントレットが、心臓と呼応するように、微かな脈動を刻んでいる。
健志郎は、覚悟を決めてダンジョンへのゲートをくぐった。ひんやりとした空気が、彼の高ぶる神経をわずかに冷やす。
ダンジョンに入ってすぐ、彼は最初の獲物と遭遇した。
通路の先で、ぷるぷると震える青い影。スライムだ。
以前の彼ならば、ここで踵を返していただろう。だが、健志郎は、ゆっくりと左手の袖をまくり上げ、黒光りする『影喰らい』を露わにした。
スライムが、こちらに気づき、ゆっくりと向かってくる。
健志郎は、腰を落とし、戦闘の構えを取った。もちろん、そんなものは完全に自己流だ。学生時代に見たボクシング漫画の記憶を、必死に手繰り寄せる。
「喰らってやる……!」
健志郎は、自分を鼓舞するように呟くと、地面を蹴った。
スライムとの距離が一気に縮まる。彼は、ほとんど無意識に、黒いガントレットを装着した左腕を、力いっぱい振り抜いた。
ブヂュッ!――
鈍い、水気の多い音が響いた。
健志郎の拳は、スライムの体をたやすく貫通していた。ゲル状の体液が飛び散るが、ガントレットのおかげで、健志郎の手に不快な感触はない。
スライムは、数回痙攣したかと思うと、その場に溶けるように崩れ、消滅した。後には、いつも通りの青い石――スライムコアが一つ、転がっているだけだった。
「……倒した」
あまりにも、あっけない幕切れ。
恐怖の対象だったはずのモンスターを、自分がいとも簡単に倒してのけた。
健志郎は、自分の左手を見つめた。力がみなぎる感覚は、気のせいではない。
その時、健志郎は老人の言葉を思い出した。
『そいつは腹ペコなんだよ。ありとあらゆる『影』を喰らいたがっている』
健志郎は、スライムが消滅した場所に意識を集中した。そして、心の中で強く念じる。
(喰え……!『影喰らい』!)
すると、信じられない光景が目の前で繰り広げられた。
スライムが消えた場所から、ゆらり、と陽炎のような、黒くも見える影が立ち上ったのだ。それは、意思を持っているかのように、健志郎の左手へと吸い寄せられ、ガントレットの紋様に、シュウウ……と音を立てて吸収されていった。
同時に、健志郎の脳内に、新たな感覚が流れ込む。
それは、スライムの持つ本質。『弾力性』『粘着性』『流動性』といった、概念的な情報だった。そして、ごくわずかだが、ガントレットから生命力がフィードバックされ、体の疲れが少しだけ和らぐのを感じた。
これが、『影の吸収』。
健志郎は、興奮で震える指を抑えながら、次の段階へと進んだ。
『影の具現化』。
(何を創る……?)
頭の中には、吸収したばかりの「スライムの影」がある。その特性は、『弾力性』と『粘着性』。
健志郎は、サラリーマンらしい、実用的な発想を巡らせた。
(そうだ。会社のデスクで、いつも転がって失くしてしまうクリップ。あれをまとめておく、ちょっとしたトレイのようなものは作れないか……?)
彼は、左手のガントレットに意識を集中し、手のひらを上に向ける。そして、思い描いた。
「粘着性のある、小さな受け皿」を。
すると、ガントレットの手の甲の紋様が、再び黒く光り始めた。そして、健志郎の手のひらの上に、まるで黒いインクが染み出すように、影が集まってくる。影は、みるみるうちに形を成し、数秒後には、手のひらサイズの、黒いゲル状の物体が出現していた。
それは、健志郎がイメージした通りの、縁が少し盛り上がった、小さなトレイだった。
彼は、おそるおそる、右手の人差し指でそれに触れてみる。
ぷにぷにとした感触。そして、表面には、ポストイットほどの、弱いが確かな粘着力があった。これなら、クリップや画鋲を置いても、転がり落ちることはないだろう。
「できた……本当に、できたぞ影の具現化!」
健志郎は、童心に返ったように、声を上げて喜んだ。
これは、魔法だ。紛れもない、自分だけの魔法。
彼は、創り出した「シャドウトレイ」を、念じて消滅させると、次なるエサを求めて、ダンジョンの奥へと足を進めた。
自信は、人を大胆にさせる。
以前、命からがら逃げ出したゴブリンの縄張りまで、彼は躊躇なくやってきた。
すると、通路の先で、一体のゴブリンが壁を背にして座り込み、何かをむしゃむしゃと食べているのが見えた。
今度は、逃げないぞ。
健志郎は、物陰に隠れることなく、堂々とゴブリンの前に姿を現した。
ゴブリンは、侵入者に気づくと、キーッと甲高い威嚇の声を上げ、手に持った棍棒を握りしめて立ち上がった。
ゴブリンが、雄叫びを上げて突進してくる。
振りかぶられた棍棒が、風を切って健志郎の頭上へと迫る。
健志郎は、冷静だった。彼は、迫りくる棍棒の軌道を冷静に見極めると、左腕のガントレットを盾のように掲げた。
ガギンッ!!――
木と金属がぶつかる、耳障りな音が響き渡る。
ゴブリンの棍棒は、ガントレットに当たった瞬間、まるでガラスのように粉々に砕け散った。対するガントレットには、傷一つついていない。
武器を失ったゴブリンは、呆然と立ち尽くしている。
健志郎は、その隙を逃さなかった。
一歩前に踏み込み、がら空きになったゴブリンの胴体へ、ガントレットを装着した拳を、深々と叩き込んだ。
「グェッ……!」
ゴブリンは、くぐもった悲鳴を上げると、糸が切れた人形のように、その場に崩れ落ちた。そして、数秒後には、黒い塵となって消えていく。
健志郎は、再び『影の吸収』を発動した。
今度は、スライムの時よりもずっと濃く、大きな「影」が、ガントレットに吸い込まれていく。同時に、脳内に『筋力』『凶暴性』『棍棒の硬度』といった、力強い概念が流れ込んできた。
ガントレットに喰わせたスライムの影と、ゴブリンの影。
二つの異なる素材が、今、彼の内にある。
(この二つを組み合わせれば、一体何が創れるんだ……?)
健志郎が、新たな創造への期待に胸を膨らませた、その時だった。
ダンジョンのさらに奥から、カツン、カツン、という足音が聞こえてきた。
一つじゃない。二つ、三つ……いや、それ以上だ。
それは、先ほどのゴブリンとは比べ物にならないほど、統率の取れた、重い足音だった。
どうする?
今日の成果は十分だ。一度、退くべきか?
いや、しかし、この高揚感と、ガントレットの渇望が、もっと先へ進めと彼を煽っている。
健志郎は、ゴクリと唾を飲むと、足音が聞こえてくる、暗い通路の先を、じっと見据えた。




