第三十一話:英雄の代償
絶望。
健志郎の目の前に立つ「将軍」級のモンスターが放つ威圧感は、その一言に尽きた。
これまでに戦ってきた、どの敵とも次元が違う。オーガの巨体も、フォージ・グレムリンの狡猾さも、この絶対的な存在の前では、まるで子供のように感じられる。
しかし、健志郎は一歩も引かなかった。
彼の背後には、恐怖に震える娘がいる。守らなければならない、世界で最も大切な宝物が。
「うおおおおおっ!」
健志郎は残された全ての力を振り絞り、全力の攻撃を仕掛けた。
背後からは、『影の兵士』たちが現れ、将軍へと襲いかかる。
両腕には、黒曜石のように鋭い『影の刃』を形成する。
全力の猛攻。しかしそれは、巨大な岩山に小石を投げつけるようなものだった。
将軍は迫りくる影の兵士たちを、まるで邪魔な虫を払うかのように、その手に持った巨大な戦斧で薙ぎ払った。
影の兵士たちは、一撃で塵と化す。
そして、健志郎が放った渾身の斬撃も、将軍が構えた鎧の腕に、キン、という甲高い音を立てて、いとも簡単に弾き返された。
「なっ……!? 全く、通じないだと?」
健志郎が驚愕に目を見開いた、その隙を、将軍は見逃さなかった。
巨体からは想像もつかないほどの速度で、戦斧が横薙ぎに振るわれる。
健志郎は、咄嗟に『影の盾』を最大強度で展開したが、それも無駄だった。
ゴシャアッ――という、嫌な音。
盾は、ビスケットのように粉々に砕け散り、衝撃は健志郎の全身を覆う『影の仕事着』を襲った。スーツは激しくひび割れ、健志郎の体は、壁際まで吹き飛ばされた。
「がはっ……!」
口から、血の混じった息が漏れる。肋骨が、数本は折れただろうか。内臓まで揺さぶられるような、強烈なダメージ。もはや立ち上がることさえ、ままならない。
(ここまで、か……)
薄れゆく意識の中、健志郎は娘の顔を思い浮かべた。すまない、凛。パパは、お前を守れなかった……。
将軍が、ゆっくりと、とどめを刺すために近づいてくる。
その、絶望的な瞬間だった。
健志郎の脳裏にサラリーマン時代の、ある記憶が蘇った。絶対に無理だと思われたプロジェクト。連日連夜の徹夜。それでも、最後の最後、納期ぎりぎりで奇跡のようなアイデアが閃き、逆転した、あの日の記憶。
(諦めるな。最後まで、足掻け)
健志郎は、残っている最後の力を、左腕のガントレットに、ただ一点だけに集中させた。
それは、もはやクラフトと呼べるような代物ではない。ただ、純粋な『影』のエネルギーを、槍のように尖らせただけの、原始的な一撃。
健志郎は、地面を這うようにして、将軍の足元に転がり込むと、その渾身の一撃を、上に向けて放った。
万に一つ、十万に一つの奇跡だったのかもしれない。
将軍が、健志郎を見下し、完全に油断した、その一瞬。
黒い槍は、将軍の屈強な鎧をすり抜け、その兜の隙間、頬をわずかに、かすめた。
シュッ――という小さな音。
将軍の頬から、一筋、黒い血が流れ落ちた。
時が止まった。
将軍は、信じられないといった表情で自らの頬に触れた。そして、その指先についた血を見て、その目に、初めて驚愕の色が浮かんだ。
この、取るに足らない虫けらが、この自分に傷をつけた。とでも思っている表情。
その時だった。
遠くから甲高いサイレンの音が、急速に近づいてくるのが聞こえた。ギルドの到着だ。
将軍は、健志郎とサイレンの音とを、交互に見比べた。
そして、冷徹な計算の下、一つの決断を下す。
「グルオオオオオオオオオッ!!」
彼は、天を突くような、しかし攻撃的ではない威厳に満ちた咆哮を上げた。
それは、この場にいる、全てのモンスターに向けられた「撤退」の号令だった。
その咆哮に、校庭で暴れていたモンスターたちが、一斉に動きを止め、命令に従うように次々とゲートの中へと引き返していく。
将軍は健志郎の姿を、その目に焼き付けるかのように、侮蔑と、ほんのわずかな興味を込めて一瞥すると、自らもゲートの中へと消えていった。
そして、ゲートはその役目を終えたかのように、急速に収縮し、跡形もなく消滅した。
嵐が、去った。
後に残されたのは、破壊された校庭と、呆然と立ち尽くす人々、そして、ボロボロの体で、かろうじて息をしている一人の英雄。
健志郎は、ひび割れだらけのスーツを解除した。
漆黒の戦闘服は影となって消え、ただの「パニックに巻き込まれただけの父親」へと戻った。
彼は、ふらつく足で、娘の元へと駆けつけた。
「凛!無事か!?」
「パパ……!」
凛は涙を浮かべながら、健志郎の胸に飛び込んできた。健志郎はその小さな体を、力の限り強く抱きしめた。
「よかった……本当に、よかった……」
安堵も、束の間だった。
家路につくため、校門から出ようとした、その時。
「待ちなさいっ!」
鋭く、そして氷のように冷たい声が、彼を呼び止めた。
そこに立っていたのは、ギルドの制服を着た部下たちを率いた、Aランク探索者・リンだった。
彼女の目は、もはや何の感情も映さず、ただ、獲物を見定めるように、健志郎だけを見つめていた。
「あ、あの…我々は、ただの一般人で…」
健志郎は、いつものように、情けない父親を演じようとした。
しかし、リンは、その言葉を遮った。
「また会ったわね。あなたには、いくつか聞きたいことがある。あの黒いヒーローが消えた場所に、なぜ、あなたがいたのか」
その言葉と共に、リンの部下たちが、健志郎の両腕を、左右から力強く取り押さえた。
「な、何をするんですか!やめてください!」
「〝次に会う時は、あなたを捕まえる時よ〟。私の予言が的中したわね」
「パパ!」
凛の、悲痛な叫びが響く。
しかし、抵抗も虚しく、健志郎は愛する娘の目の前で、ギルドへと強制的に連行されてしまうのだった。
大切にしてきた平穏な日常が、今、音を立てて崩れ落ちていく……




