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第十話:おっさんの新たな狩場

 週明けの月曜日、健志郎は生きた心地がしなかった。

 体は会社のオフィスチェアに座っているが、魂は半分以上、週末のダンジョンに置き去りにされたままだ。会議中の上司の退屈な話も、パソコンの画面に並ぶ無機質な数字も、まったく頭に入ってこない。


 彼は、デスクの下で、誰にも気づかれないようにスマホの画面を何度も更新していた。

 検索キーワードは、『桜ヶ丘ダンジョン 閉鎖』。

 案の定、トップにはいくつかのニュース記事がヒットした。


『桜ヶ丘ダンジョンで謎の高エネルギー反応。ギルドは一時閉鎖し、原因調査へ』

『専門家「未知のモンスター出現か、あるいは違法な魔道具使用の可能性も」』


 記事を読み進めるほどに、健志郎の心臓は嫌な音を立てて脈打った。原因は、間違いなく自分だ。ギルドは、躍起になって犯人捜し、あるいは原因の特定を進めているだろう。桜ヶ丘ダンジョンは、今や日本で最も危険な場所の一つになってしまった。


(あの革袋……もう、諦めるしかないのか……)


 もどかしい気持ちと、安堵にも似た気持ちが、胸の中でない交ぜになる。

 しかし、問題はそれだけではなかった。

 

 左腕の『影喰らい』が、静かに、しかし執拗に、飢えを訴え始めていたのだ。それは、明確な痛みではない。だが、まるで体の中から少しずつ、ぬるま湯のように生命力が抜けていくような、じっとりとした倦怠感があった。

 

 老人の言葉が、脳裏に蘇る。

 

『エサを与え続けなければ、いずれお前さん自身が喰われることになるぞ』


 このままでは、じり貧だ。

 

 健志郎は、トイレの個室に駆け込み、一人、思考を巡らせた。

 ダンジョンには行けない。では、どこで『影』を喰らう?モンスターは、どこにいる?


 その時、健志郎の脳裏に、ある場所が浮かんだ。

 それは、彼が勤める会社が、郊外に所有している古い資料保管倉庫だった。

 創業以来の膨大な紙の資料が眠るその場所は、年に数回、監査の時期にしか人が立ち入らない。中は薄暗く、埃っぽく、そして……そう、ネズミが出るという噂だった。


 ネズミ。

 

 それは、モンスターではない。だが、生命体であり、間違いなく『影』を持っているはずだ。

 ゴブリンに比べれば、はるかに弱く、安全な相手。そして何より、そこは健志郎の「職場」であり、彼が立ち入っても、誰にも怪しまれない場所だった。


(これしかない……!)


 リスクはある。しかし、ダンジョンに潜れない現状、はるかに現実的な選択肢だった。

 野良犬や、野良猫を狩るっていうのも、犬猫好きの健志郎には無理な話だし。


 その日の夜。

 健志郎は、妻の友里に電話を入れた。

 

「もしもし、俺だ。すまん、今日、急な仕事が入っちまって。少し、帰りが遅くなる」

『あら、大変ね。わかったわ、夕飯は温めておくから。あまり無理しないでね』

「ああ、ありがとう」


 電話を切り、健志郎は自分の用意周到さに、少しだけ罪悪感を覚えた。

 

 彼は、会社を出ると、まっすぐには帰らない。一度、近くのホームセンターに立ち寄り、いくつかの道具を買い揃えた。


 強力な粘着シート。

 餌にするためのチーズ。

 暗闇を照らすための。

 少し性能の良いヘッドライト。

 

 まるで、害虫駆除業者のような出で立ちだった。


 夜の九時。

 健志郎は、会社の通用口から、目的の資料倉庫へと忍び込んだ。

 ひやりとした、カビ臭い空気が彼を迎える。スチール製の棚が、巨大な墓石のように整然と並び、天井からは、弱々しい非常灯の光が、長い影を落としていた。


「さて……狩りの時間だ」


 健志郎は、ヘッドライトを装着し、左腕のガントレットを露わにした。

 買ってきたチーズを小さくちぎり、粘着シートの上に置く。それを、棚と棚の間の、いかにもネズミが通りそうな薄暗い通路に、いくつも仕掛けた。

 

 完璧な(トラップ)だった。後は、獲物がかかるのを待つだけだ。


 健志郎は、息を殺し、棚の陰に身を潜めた。

 静寂。聞こえるのは、自分の心臓の音と、どこか遠くで鳴る、換気扇の低い唸り声だけ。


 どれくらい時間が経っただろうか。

 健志郎の集中力が切れかかった、その時。


 チチッ、と小さな鳴き声が聞こえた。

 そして、カサカサ、と何かが床を引っかく音。

 

 来た……!


 ヘッドライトの光を、音のした方へ向ける。

 光の輪の中に、一匹のネズミがいた。艶のある黒い毛並みをした、ドブネズミだ。彼は、チーズの匂いに釣られて、用心深く粘着シートに近づいている。

 

 そして、前足をシートに乗せた瞬間、その動きがぴたりと止まった。


「キィーッ!」


 ネズミは、足に絡みついた粘着物に驚き、必死にもがく。しかし、もがけばもがくほど、体はシートに張り付いていく。

 

 健志郎は、静かに立ち上がると、動けなくなったネズミに、ゆっくりと近づいた。


 ネズミは、健志郎の姿を認めると、恐怖に体を震わせ、必死の形相で威嚇の声を上げた。

 健志郎は、その小さな命を前にして、一瞬、躊躇した。これは、ゲームではない。紛れもない、現実の命だ。


 しかし、左腕のガントレットが、ズクン、と飢えを訴えるように脈打つ。


(すまない……)


 健志郎は、心の中でネズミに謝罪すると、ガントレットを装着した左手で、ネズミの頭を、ためらうことなく鷲掴みにした。

 

 プチリ、と小さな命が潰える感触。

 ネズミは、すぐに黒い塵となって消え、後には、汚れた粘着シートだけが残された。


 健志郎は、すぐに『影の吸収』を発動した。

 スライムほどではないが、確かな量の『影』が、ガントレットに吸い込まれていく。


 そして、彼の脳内に、新たな概念が流れ込んできた。


『俊敏性』『隠密性』『警戒心』……。


「これだ……!」


 健志郎は、確かな手応えを感じていた。

 これを繰り返せば、ギルドの連中に気づかれずに、ダンジョンに潜入するためのスキルを、クラフトできるかもしれない。


 その夜、健志郎は、倉庫にいた十数匹のネズミを、すべて狩り尽くした。

 彼の体は、疲れるどころか、吸収した生命力で、むしろ活力がみなぎっていた。


 

 会社を出て、家路につく。

 深夜の冷たい空気が、火照った体を心地よく冷やしてくれた。

 彼は、自分の左手を見つめた。

 黒いガントレットは、満足したかのように、静かに沈黙している。


(待ってろよ、桜ヶ丘ダンジョン……)

(そして、あの革袋……)


 健志郎の目には、もはや迷いはなかった。

 

 


 そしてこの後、クラフトにより、とんでもない性能のアイテムを創り出すことに成功する。

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