第2話 不幸
非常口の扉が閉まる音が、静かな屋上に響いた。
俺はしばらくその扉を見つめていた。
やがて立ち上がり、扉とは反対の方へ歩き出す。
屋上の縁にはフェンスが張られているが、ところどころ剥がれていて、もうほとんど役目を果たしていない。
——面白い人だったな
あんな考え方をする人がいるんだ。
小さな幸せのために生きる。
——俺も、そんなふうに思えたら
夜風が静かに吹き抜ける。
剥がれたフェンスのそばに立ち、俺は空を見上げた。
赤い満月。
その周りには無数の星が瞬いている。
――人は死んだら星になる。
紬の言葉が頭の中で静かに響いた。
死後、あんな風に世界を照らせたら、それはさぞ幸せだろう。
「……俺も、星になれるかな」
そして俺は、静かに一歩を踏み出し、闇夜に体を投げ出そうとした
その瞬間だった。
ガンッ!!
大きな音に振り返る。
そこには、息を切らした紬さんが立っていた。
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「はぁっ……はぁっ……」
屋上の扉を開けた瞬間、私は息を呑んだ。
零が今にも落ちそうな場所に立っていたからだ。
自殺しようとしている、直感的にそう思えた。
階段を全力で駆け上がってきたせいで息が苦しい。
零は戸惑ったような顔でこちらを見ている。
「……何してるの?」
呼吸が落ち着くより先に声を絞り出す。
零はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた?
「……何で」
「?」
「何で戻ってきたの?」
「……勘」
「は?」
我ながら意味不明だと思う。でも本当にそうだった。
ドアノブに手をかけた瞬間、このまま帰っちゃいけない気がした。
ここを離れたら絶対に後悔する。
そんな嫌な予感がしたのだ。
「何となく、嫌な感じがしたのよ」
零くんは小さく笑った。
「やっぱ君、面白いね」
だけど私は笑えなかった。
「……死ぬ気?」
自分でも分かるくらい声が震えていた。
「そうだよ」
「何で?」
「生きる意味がないから、かな」
「それ、どういうこと?」
「言葉のままだよ。人間なんていずれ死ぬ。いつか終わるのに、生きる意味なんてないだろ?」
「そうじゃなくて!」
思わず声を荒げる。
零くんは首を傾げた。
「そうじゃなくて?」
「それで何で死のうってなるのよ! いつか死ぬから必死に今を生きるんじゃないの?」
「それに何の意味があるの?」
零くんは静かに言う。
「必死に生きようが、怠惰に生きようが、どんな生き方をしても結局は死ぬのに」
「なんでそう思うの? そう思うくらい辛いことがあったの?」
でも零は答えなかった。
「何のために生きるかなんて私にも分からない。苦しいこともあるし、大変なことだっていっぱいある」
一度息を吸う。
「でも、それと同じくらい楽しいことや幸せなことだってある。……それじゃだめ?」
「確かに、それでもいいかもしれないね」
「だったら――」
「でも、それじゃ納得できない」
零が私の言葉を遮る。
「勘違いしないで。俺は幸せになるために死ぬんだ」
「どういうこと? 死ぬのが幸せなんて意味分かんない!」
「紬さんは、なんで死ぬのが良くないって思うの?」
「そんなの悲しいからじゃない」
おばあちゃんが亡くなったあと、私は毎日泣いていた。
夜もなかなか眠れなかった。
玄関で迎えてくれる姿。
いつも使っていたミシン。
一緒に入ったお風呂。
家のどこにいても、おばあちゃんの思い出があった。
それに触れるたび、もう二度と会えないんだと思い知らされた。
「人が死ぬことを不幸っていうけど、それは残された人にとってだよね」
零くんが言う。
「そんなことない」
私は首を振った。
「死んだ人にだって、いろんな想いや未来や大切な人がいるもの」
おばあちゃんだって、きっともっと生きたかったはずだ。
「死んだ人も、残された人も、死ぬことは不幸よ」
「それなら、君のおばあさんは今不幸かい?」
「……っ」
零の言葉が、鋭い針のように胸に突き刺さった。
「紬さんは言ったよね。死んだら星になるって。他にも天国に行くとか、生まれ変わるとか。人は死後に幸せを見出そうとする」
何も言い返せなかった。
だって私だって、おばあちゃんが不幸になったなんて思いたくない。
「俺はこの世に生きる意味を見出せなかった。だから辛いことも、悩むことも、楽しいことも……全部終わりにしたい」
そう言って、零くんは少しだけ寂しそうに笑った。
「だから、ごめんね」
今日何度目かになるその表情。
どこか諦めたような、全部を置いていくような顔だった。
そして、零くんは私に背を向けた。
――今から死ぬのだと、その背中は語っていた。
毎日のように、自ら命を絶つ人がいる。
ニュースで聞くたびに、胸の奥が重くなる。
悲しいような、苦しいような感情。
ただ、どうしようもなく嫌だった。
知っている人に、自殺なんて絶対にしてほしくない。
でも――私は零くんのことを何も知らない。
好きなものも。
嫌いなものも。
悩んでいることも。
今までどんな人生を歩いてきたのかも。
何ひとつ分からない。
だから、私が何を言っても。
それはきっと、上っ面の言葉にしかならない。
何か言わなきゃ。
そう思うのに、言葉が出てこない。
でも、やっぱり私は零くんを死なせたくない。
言葉で説得するのは無理かもしれない。
だったら――
零が一歩を踏み出す。
それと同時に私も走り出した。
言葉で説得できないなら、ぶん殴ってでも止めてやる。
左手で破れたフェンスの端を掴み、右手を落ちていく零へ伸ばす。
届け。
届いて。
指先が触れる。
そのまま強引に手首を掴んだ。
「っ!」
腕に凄まじい重みがかかる。
見下ろすと、零くんが宙にぶら下がっていた。
「何で!」
零が叫んだ。
「紬さん、離して! 君まで落ちる!」
「うるさい!」
私はさらに力を込めた。
フェンスが嫌な音を立てる。
「俺は死にたいんだ! でも紬さんは違う!」
「だからうるさいって言ってるでしょ!」
髪が風に煽られる。
「いいから早く掴まれ!」
「何でそこまでするんだよ!」
零は、信じられないといった顔をしていた。
「分かんない!」
私は叫んだ。
今日会ったばかりのような人だ。命の危険があってまで助けるほどの仲じゃない。
でも、目の前で死のうとする人に手を伸ばすのはそんなにおかしいのだろうか。
「分かんないって、そんな理由で――」
「私には生きる意味も理由も、あなたが死のうとする理由も、何も分からない!」
腕が痛い。
それでも手は離さない。
「でも、生きることが好きなの!」
零の目が見開かれる。
「毎日学校行って、勉強して、友達と遊んで、美味しいもの食べて!」
腕が痛い。
苦しい。
それでも叫ぶ。
「そんな毎日が好き! 理由なんてない!」
零が黙る。
「あなたがしてるのはただの逃げ!」
私は涙混じりに叫んだ。
「理由をつけて、生きることから逃げてるだけじゃない!」
零くんは何も言わなかった。
ただ、私を見上げる。
その瞳がわずかに揺れた気がした。
そして――
今まで力なくぶら下がっていたその手が、私の手を握る。
その手には、確かな力が込められていた。
しかし、その瞬間。
ギシッ。
フェンスが大きく軋んだ。
私も零も同時に顔を上げる。
金属が悲鳴を上げていた。
「……っ」
それでも私は離さない。
「紬さん、離して!」
「嫌!」
さらに大きな音が鳴る。
ギシッ、ギシギシッ――。
そして。
バキンッ!!
耳をつんざく音と共に、フェンスが根元から折れた。
「あ――」
私たちの体が夜の闇へ投げ出される。
風が全身を叩いた。
強烈な浮遊感。
私は仰向けのまま空を見る。
赤い満月。
その周りで輝く無数の星。
……綺麗。
場違いな感想が頭をよぎった。
ふと、幼い頃の記憶が蘇る。
おばあちゃんと並んで星を見上げた夜。
『人は死んだら星になるんだよ』
優しい声が聞こえた気がした。
「……おばあちゃん」
私は空へ向かって手を伸ばす。
けれど、その手が届く前に星は見えなくなった。




