第1話 幸福
焼き鳥♪焼き鳥♪ランランラン♪
やけに星が見える夜だった。塾の帰り道、私はふと空を見上げた。雲ひとつない夜空に、無数の星々と赤い満月が浮かんでいる。
水守紬は特に星が好きってわけじゃない。でも、この景色は昔おばあちゃんの家で見上げた夜空に少し似ていた。
東京の夜は明るすぎて、星なんてほとんど見えない。けれど、この日だけは違った。
あの頃に迫るくらい、星が近くて、強くて、綺麗に瞬いて見えた。
私はコンビニに寄って、焼き鳥とコーラを買った。
レジ袋を片手に住宅街を抜け、街灯のまばらな通りへ出る。
この時間になると人通りはほとんどない。足音だけが静かな夜道に響いていた。
しばらく歩くと、見慣れた建物が視界に入る。使われなくなって久しい古びた廃ビルだ。外壁はところどころ塗装が剥がれ、窓ガラスの割れた場所は板で塞がれている。
昼間に見れば、ただの寂れた建物。でも私にとっては少しだけ特別な場所だった。
初めてここを見つけたのは数週間前。
道に迷った時、目印を探そうとして屋上まで登ったのがきっかけだ。それ以来、一人になりたい夜はここへ来るようになった。
私は慣れた足取りでビルの裏手へ回る。半開きのまま錆びついた非常口の扉を押し開けると、きぃ、と乾いた音が鳴った。
薄暗い階段を上っていく。一段、また一段。袋越しに伝わる焼き鳥の熱が心地いい。
その熱を感じるたび、なんだか気分まで弾んでくる。
やがて屋上へ続く最後の扉が見えた。私は少し勢いよくドアを押し開ける。
ガン、と鈍い音が夜に響いた。夜風が一気に吹き込んでくる。
誰にも邪魔されない時間。
焼き鳥とコーラを片手に星を眺める、私だけのささやかな贅沢。
――そのはずだった。
屋上には人影があった。
暗さと逆光で顔は見えない。
私より少し背が高そうだということしか分からなかった。
油断していた。今までここで誰かに会ったことなんて一度もない。
人のことは言えないけど、こんな場所に来る人なんて普通じゃない。
心臓が大きく脈打つ。
今すぐ逃げた方がいいんじゃないか。
そう思った時、人影がゆっくりこちらへ歩いてきた。
背筋にぞわりとした感覚が走る。
冷たい水を流し込まれたみたいだった。
呼吸が浅くなる。
逃げなきゃ。
そう思うのに足が動かない。
その間にも人影は近づいてくる。
「こないで!」
私は必死に叫んだ。
「その声……やっぱり紬さんだ」
突然名前を呼ばれて目を見開く。
「え……? なんで名前……?」
「俺だよ」
人影がさらに近づき、その顔が見えた。
「えっと、零くん?」
橘零という、同じクラスの男子だった。
話したことは数回ある程度。
一気に力が抜け、その場にへたり込む。
「はぁぁ……よかった」
「ごめんごめん、驚かせた?」
「殺されるかと思ったわよ!」
安心した反動で少し強い口調になる。
「俺もびっくりしたよ。こんなところに人が来るなんて」
「……で、零くんは何してるの? こんなところで」
私がそう聞くと、零は外の景色へ視線を向けた。
「夜景を見にきたんだ」
「紬さんは?」
「私も似たようなものよ。星を見にきたの。私が星になるところだったけどね」
「根に持ってる?」
「冗談よ」
「確かに凄い星空だね」
零は空を見上げた。
私もつられて夜空を見る。
星がびっしり散りばめられていた。
街灯が少ないせいか、一つ一つがはっきり輝いて見える。
「私もここで見ていっていい?」
「もちろん。でも何で俺に聞くの?」
「一応早いもの順だし、確認しただけ」
私は零くんから少し離れた場所に腰を下ろした。
そしてコンビニ袋を開く。
中から焼き鳥とコーラを取り出した。
「何で焼き鳥? 何でコーラ?」
「ただ星を見るだけじゃ味気ないでしょ」
私は焼き鳥を一口かじる。
香ばしい炭火の香りと濃いタレの味が口いっぱいに広がった。
そこへ冷えたコーラを流し込む。
炭酸が喉を駆け抜けていく。
「……っはぁ」
思わず声が漏れた。
そこで零がこちらを見ていることに気づく。
「何? あんまり見られると食べづらいんだけど」
「学校での印象と違いすぎて」
「そうかしら?」
「もっとお淑やかなイメージだったというか……」
それはつまり、今はお淑やかじゃないということに他ならない。
そりゃあ、学校でこんな姿晒すわけにはいかない。
「はっきり言いなさいよ。つまり私がおっさんみたいだって言いたいんでしょ?」
「いや、そんなことは……なくもないけど」
「あるんじゃない!」
焼き鳥の串を向けながら睨みつける。
零は苦笑した。
「ごめんごめん、でも今の紬さんの方がいいかも」
「……は?」
零くんは少し空を見上げた。
「今みたいに素で楽しそうにしてる紬さん、初めて見た気がする」
「私たちそんなに話したことないと思うけど?」
「紬さんは目を引くからね」
あまりにも自然に言われて、一瞬言葉に詰まった。
私は誤魔化すように袋へ手を突っ込む。
「一本あげる。あなたもこれ食べれば分かるわよ」
焼き鳥を差し出す。
「いいの?」
「一本だけよ」
「ありがとう」
零は小ぶりな一口で焼き鳥を一口食べた。
「……あ、美味しい」
思った以上に良い反応だった。
私の口元も少し緩む。
「でしょ?コンビニにしてはやるわよね」
「これコンビニってまじか!」
自分が勧めたものを評価されて悪い気はしない、鼻が高くなった気がした。
「このために生きてるって思えるわ。」
何気ない一言だったが、零は少し驚いた顔をした。
「……こんなことで?」
「そうよ」
私はもう一口焼き鳥をかじる。焼き鳥からのコーラ。この流れを超えるものなんてそうそうない。
「一日頑張って、そのご褒美に美味しいものを食べる。そういうのでいいのよ」
焼き鳥を軽く振る。
「幸せって、案外こういう小さいところにあるんじゃない?」
零くんはしばらく何も言わなかった。
ただ手に持った焼き鳥を見つめている。
やがて小さく笑った。
「……そうかもしれないね」
その笑顔は、なぜだか少し悲しそうに見えた。
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焼き鳥を食べ終えると、零くんは大の字になって寝転んだ。
「空の大きさに比べたら悩みなんてちっぽけだって言うけどさ。あれよく分かんないんだよね」
夜空を見上げたまま続ける。
「空の大きさと悩みって別の話じゃん」
「……まあ、それはそうかもね」
私も空を見上げた。
「別に悩みが消えるわけじゃないし」
星が静かに瞬いている。
「でも私は空を見ると落ち着くわ」
「どうして?」
「おばあちゃんを思い出すから」
私は少し笑った。
「小さい頃、よく一緒に星を見てたの」
「その時にね。“人は死んだら星になるんだ”ってよく言ってた」
「……よくある話だね」
「そうね、でも子供の頃の私は結構信じてたのよ。今でもそうだったらいいなと思う。」
星空を見つめながら続けた。
「だから空を見ると、おばあちゃんが見守ってくれてる気がして落ち着くの。馬鹿みたいでしょ?」
零くんは小さく笑った。
「そんなことないよ」
そう言ってまた少し悲しそうな顔をした。
その後、私たちはしばらく何も話さず、ただ星を眺めていた。
「……そろそろ帰るわ」
コンビニ袋を手に取る。
「今日は楽しかったわ。じゃあ、また明日」
「……うん。また明日」
私は屋上を後にしようとドアノブに手をかける。
「紬さん」
「何?」
「今日は話せてよかったよ、ありがとう。」
「別に改まって言わなくても」
「それだけ言いたくて、じゃあね」
まただ、またあの悲しそうな顔。
わたしもじゃあねと言ってドアノブを開けた。
楽しいひとときだった。階段を降りながらそう思った。
星を見て、焼き鳥を食べて、少し話しただけ。
それなのに不思議なくらい心が軽い。
零くんとは今までほとんど話したことがなかった。
だからだろうか。
変に気を使わず、素の自分で話せた気がする。
おばあちゃんのこと。
自分の人生観。
普段なら友達にもあまり話さないことまで口にしていた。
……でも。
時折見せた零くんの悲しそうな表情だけが、妙に頭から離れない。
ビルから出るドアノブに手を掛けたまま、なかなか回すことができなかった。
これを開けたら何か後悔する気がした。




