第一話「幼馴染」
待ちに待った夏休み、高校二年生ともなればもうそろそろ就職や進学という時期になろうとしている……賢いやつはもっと努力をし、普通なやつは早めに努力し始め、アホは遊ぶ……そんな時期だ。
かく言う俺も、着崩した制服にツーブロック、軽めのワックスでオールバック気味に仕上げた前髪、という誰がどう見ても今や絶滅危惧種の不良という様相だ。その恰好で向かうは仲間のたまり場――――ではない。
とある理由で髪型に合わせて制服を着崩しているだけで、不良じゃない。
確かに勉強は大してできない、体格もいいし目つきもそれほどよくない気がするが、ただそれだけで、たったそれだけだ。
そんな高校二年生が夏休みに制服を着て向かう場所と言えば……たった一つしかない。
通う学校である。
……何しに行くって? 決まってるだろ、勉強だ。
俺は賢くて努力のできるやつにはなれなかったが、少なくとも努力し続けれるやつにはならなくちゃいけない。
理由は単純――俺には、隣に並ばなくちゃいけない相手がいる――
勉強道具の入った指定鞄を肩にかけ、玄関と門扉を背に歩き始めて数秒、意識せずとも視界の端に入る見慣れた隣家、その玄関前に差し掛かった時のこと、タイミング良く扉が開く音が聞こえてきた。
予想通りであったが、自然を装って立ち止まりそちらの方へ目をやれば、同じ学校の校章の入った夏用のシャツにスカート、それらを俺と違って一切着崩さず、アイロンもかけているのかパリッとしており、きっと仕事のできる女、というのは彼女のことを言うのだろうと、目を奪われる。
当然、家の前で立ち止まってそんなことをしているのだから、ばっちりと目が合ってしまう。
学校でならあまりに正反対なタイプが故に避けるところだが、幼馴染で家が隣同士、その前でくらい挨拶するのは当然だろう。
「よう」
男子特有の雑な挨拶だが、
「おはよう」
俺の姿を認めた彼女は、冬の雪解けで作られた小川のせせらぐ音と聞き間違える澄んだ声で、答えてくれた。
そうしてローファーの靴音を鳴らす彼女に、俺はいつものようにじっと待つ。特に逸らす理由もないのでその間中瞬きはしても見つめ合ったままなのだが、そのおかげで学校へ向かう朝は彼女の綺麗な瞳が良く見れる。
今日も当たり前のように綺麗だった。
夜明けに白む空を思わせる白と紺のグラデーション、そこに日の光で微かながら煌めく虹彩は、星屑を彷彿とさせ、瞳の中に小さな暁を映し出す。
不意に突き抜けるほどに綺麗なそんな目が、ぱちりと幾度か瞬く。
飽きることのない光景に釘付けだった俺もそれに釣られて瞼を落とし、意識が一瞬散漫となり、彼女の違和感に気付くことができた。
同時手足の先を含めたまさに全身の血流が速くなるのを感じる。それが心臓が飛び出るほどの高鳴りなのだと気づくのに、そう時間はかからなかった。
つまるところ、今俺の隣に並んで歩き出した彼女は、完璧ではなかった。
普段髪も服も身支度なんかは全て整えた状態で家から出てくる彼女が、今日に限って髪を纏めていなかったのだ。
初めて見た姿ではない、だが故に、だからこそ久しぶりに見たセミロングとでも言うのか、肩甲骨辺りまである彼女の黒髪に、隠れて見えないはずのうなじに、思わず見惚れてしまったのだ。
そんな彼女が、俺が夏休みでも学校に行き、自主的に勉強をする理由そのものだ。
加賀ミズキ……万年成績優秀者でスポーツも万能という文武両道の化物、新入生代表も務め、二年生になってからは生徒会長の座も狙っていると噂がある、俺が出会った中で最も優秀なやつであり、かつ俺とは対極にいる存在――――本来雲の上の存在だ。
ただたまたま幼馴染というだけで今、こうして隣に立てている。
学校では避ける、というのも俺は別に素行が悪い方ではない。けれどこうも不良っぽいのが清楚で雲の上の存在のミズキに学校で話かけていたら、あらぬ疑いを持たれる可能性があった。
(彼女自身はどうでもいい、と言うだろうが)
しかし簡単には切り捨てられない理由があった。
頭痛の種を思いながら心の中で溜息をついて歩いていると、ミズキが僅かにこちらに視線を向けているのに気付く。
なんだろう、と思い目を合わせると、凛とした表情を僅かに綻ばせたのが見える。だがそれも一瞬のことですぐに前へ向き直ってしまった。
「……? なんだよ」
目が合っておきながら、何事も無く歩き続ける彼女に問うものの、
「べつに」
先程の綻んだ表情とは真逆の、あまり抑揚の無いいつもの声での返答しか返って来なかった。
けれど頭の中に浮かぶ疑問符を払うように、再び彼女が言った。
「勉強、どう?」
「どう、って言われてもな……」
唸り、現状をどう表現するべきか考える。確かに勉強そのものは難しいは難しい、たった数問に一日をかけてしまう時もあるくらいだ……でもそもそも努力が目に見えて反映される勉強という行為を、今の今までしてこなかった自分にこそ非があるわけで、だから唸ってしまい、一瞬迷った。
「難しい。ただ自分のせいでもあるからな」
間を空けながらも、素直に口から出た言葉で答える自分が、少し憎い。こういう時にこそミズキを頼ることができれば、きっと全てが変わるかもしれないのに、頭では分かっているが、できない。
勇気が、ない。
俺は、臆病者だ。
「……教えることも、まあ、できるけど」
そんな俺を見かねたか、あるいは気まぐれか、彼女がそう言った。
俺はその提案に臆病者らしくただ『はい』とさえ答えれば、それで残りの高校生活が彩られた筈だった。
けれど気付く――――自分勝手に期待しながら、傷付くことを嫌って期待通りの答えが来るのを待っていたことに、そしてそれがあまりに男らしくないことに、自分らしくないことに。
考える、自分の求めた答えがついた釣り針に、考えなしに飛びついた先、いやもっと深く更にその先を想像し――どこかで来るであろう今考えても胸がざわざわとする結末、もしくはなんともない結末を。
故に飛ぶことを知りたくない鳥が広がり続ける大空を仰ぎ見るように、押し黙ってしまう。
誰も知らない二人だけの沈黙、額から夏の暑さか冷や汗か、正体不明な一滴が流れては落ちていった。
心の中では彼女の言葉が反芻され、耳に届く音は、歩けば歩くほどに近づいてくる駅の喧騒と、長く地中に居ながらひと夏という短い期間に命を燃やし尽くす蝉達の号哭が響き渡っていた。
受け入れても受け入れなくとも、臆病風が吹く。
「……」
ただちらと見やったところでミズキの視線はもうこちらにはない。気のせいか太陽に照らされてか、覗く右耳が朱色に染まっているようにすら見えた。
「…………いや、まだ、ひとり、で、がんばってみる、わ」
わざとにも聞こえるたどたどしさ、多分、十回熱湯が注がれた茶葉よりも酷い受け答えだったと思う。
「そっか、じゃあわからないところがあったらさ、いつでも聞いてよ」
優しい声色に彼女の方へ向き直ると、そっぽを向いていたはずの顔がこちらへ向いていて、明け方の空のような瞳が覗き込んでいた。
……いい加減慣れろよ、バカ野郎……ドキリと跳ねた心臓を宥める為に、口の中で噛み殺した上で転がす、こう日に何度も飛び跳ねられてちゃあ、流石にもたない。
不審な俺の様子には気づかないでいてくれたらしく、ミズキが浮かべた表情は、夜明けの空を強く照らし始めた太陽のような笑顔で、幼馴染からしてもいつもの元気ハツラツな笑顔にも見えるのだが、見慣れているからこそ、どこか哀色が入り混じっていることに気付く。
どうした? と聞くべきだが、余計な思考を一瞬挟んでしまったが故に、そのタイミングを逃してしまう。
「おっと、もう駅だ!」
あまり聞くことのできない、わざとらしく少しおどけた口調のミズキ、それが今までの俺を咎めるようにも皮肉っているようにも聞こえ、どこまで行っても何もできない俺自身の心に、ちくりと簡単には抜けない針が刺さる。
けどそんな俺よりもミズキの方が傷ついているだろう。仲が悪いわけでもなく、なんだったら良いはずなのに校内でご飯を食べたり、行き帰りが同じなのに並んで歩くことさえ断っているのだ。正直酷いことをしている自覚はあって、謝りたいとずっと思っている。
でもそれはできない。彼女の為にも、まだできない。
(本当にすまん)
心の中でそう謝ることしかできないまま、俺は改札からそこそこ離れた位置で立ち止まった。
「……ん、じゃあまたここでな」
少し冷たく、ここから先は超えれない壁、いや溝がある、そう思いながら彼女を見送ろうとする。
赤の他人、みたいに。
「待ってるね!」
半身だけ振り返った彼女に、あの悲しげな雰囲気は、ない。
初老、若いサラリーマン、部活をやりに行くらしい別の高校の生徒、受験勉強中らしき中学生、母親に見送られる小学校低学年、ミズキの背中が見えなくなったのをはっきりと目視し、俺は並ぶのに資格の無い肩を揺らし、歩き出した。
続きは書き終えたらまた、近日中に。




