第零話「夢」
明晰夢、たまに見るその夢だけを、夢の中で夢だと理解していた……なぜなら実際に起こったことを、一人称ではなく三人称として俯瞰していたからだ。
きっとこの夢を見ているのはトラウマだとかそんなのではない。俺の中で大きな転機となった出来事だったからだろう。
そんな明晰夢は褪せることなく新緑と変わらないままの記憶を呼び起こしながら、幼い自分と一人の女の子を眺めているところから始まる。
ランドセルを背負って仲良く並んで歩いているような、そんな微笑ましい夢なら良かったが、二人の幼い子供達は、大人に比べれば可愛いしかない言い争いをしていて……いや、少し違うな。俺はなんでか半べそかいてて、蚊の鳴くような声で弱く反論していただけだった。
どんな言葉をかけていたかはもう覚えていない。夢の中でも耳を澄まして漸く何か声が聞こえる程度だ。
けれど、この夢の、始まりと言えるその言葉だけは、空を衝く青さの如くはっきりと聞こえた。
『みっちゃんなんてもういいっ! ぜっこうするっ!』
俺の弱気な態度に痺れを切らしたのだろう――――幼心にはあまりに鋭利なその言葉に怒りよりも悲しく、ただ呆然とする夢の中の俺、だが走り去っていく女の子の背中をただ見送るようなことはしなかった。
『まって!』
伸ばした手、膨れる肺、張り上げた声、いつもみたいに話したくて、いつもみたいに肩を並べたくて、切望という燃料をくべて振り上げた片腕で、追いつこうと縋る。
しかし昼を過ぎた頃、街はまだ雑踏の中だ。大人たちの陰も路肩に放られた自転車や標識を掲げる棒すらも障害物になり、前を行く小さな赤いランドセルを覆い隠し、幾度も見失わせる。
そうして幾つかの横断歩道に差し掛かった時のこと――――覆ることのない事実が、脳裏にこびりついた悲鳴と共にやって来る。
かつての俺はその悲鳴に一瞬面食らったが、足を止めることはしない。
ただまっすぐ、彼女の背を追ってひたすらに走っており……その悲鳴の出所なんてものを気にしてる暇もなかった。それどころか眼前の横断歩道は左手側が大通り、右手側はビルが建っていて見通しが悪く、異変という異変が見えなかったのだ。
――いや、知らなかったからこそ間に合ったのかもしれない……
人の波を超えたことで不意に視界が晴れ、しかと女の子の背を捉えた。
だが追いつけたと安堵する暇もなく、横断歩道を渡り切ったかどうかのところ、つまりまだ女の子が道路上で立ったままなことに気づく。
更に進めば、女の子は俺から見て視認性の悪い右側面を注視している――表情は横顔だけだった、それでも何かを覚悟したように目を瞑っていた。
――――そこから先、今でも思い出せる感覚、とっくに歩行者用の信号機は赤で、自分が動いたところで何ができるかわからなかった。
でも、それでも足は止まらない。
器が満ち、溢れて、滴り、それがまた力になり、未だ理解はできてないが、感覚としては分かるそれを推進力に、進む。
――絶対にそんなことはない。言い切れる。けれど重かった足取りは羽ばたけるほどに軽く、一歩一歩が白昼夢が如くふわふわし始めていて、やがて光よりも早くなったと勘違いしたその瞬間、俺の手は女の子の小さな手を――
頭痛とは違った脈動する痛みが左こめかみ辺りに走り、目が覚める。
「いてぇ……」
口をついた言葉と共に、気づけば手が痛みのあった場所を撫でていた。傷痕はあれどもう痛むはずがないそこを。
『ミツヤ! 今日は補習だか自習だか行くんじゃないの!?』
ふと、母のそんな焦りと怒りが入り混じった声が聞こえ、寝惚け眼もいいところの俺は数秒、一体何がある日なのか、思考を駆け巡らせた。そして徐々にはっきりとする頭に、鼓動の速さと血流の早さが加わり、額から玉のような汗が流れていく。
「いまなんッ!?」
目覚ましをかけたはずのスマホに手をかけたタイミングで、単調な音を鳴らし始めた。
――時刻は七時――
隣に住む彼女もまだ、出ていない。




