第七章 藤堂嶺
「出来のいいブス」写真は、春日澄の手によってその実家に届けられ、そこから先方へと渡った。
あとは、写真を見た先方が「この女はちょっと・・・」と顔をしかめ、縁談がスルっと消えてゆく。それが二人の書いた筋書きだ。
が、当然のことながらもちのろん、物事というのは、まあ筋書き通り運びはしないわけである。
・
写真を送ってから四日目の昼過ぎ。庄三郎のスマホに、澄からメッセージが入った。
『大変。先方のひとが「直接会いたい」って言ってきた!』
庄三郎は、学食の、ちょっと安っぽいけどそこがいい、という――なんというか、カレーなのにカレー粉よりほんだしがいっぱい入ってそうな感じの――味のカレーを頬張りながら、送られてきたメッセージの文面を読んだ。途端に口の中のカレーの味がしなくなる。
直接会いたい、と。あの「出来のいいブス」写真を見て、直接会いたいと来た。ナニモノだ。
庄三郎は考える。
あれか? もしや、あの写真を見たからこそ会いたいと言って来たってことか? 写真だけでは判断しきれないと見たのか・・・あるいはもしや。
・・・もしや!?
え? え?
えb専の方~? うぐいすだにデッドボール常連さん? え~? 結婚が遅れてお見合いって、え~~もしやそういう~~~?
『あー? えーと・・・いつ?』
『明後日。向こうから来るって。カフェで、お茶くらいしませんかって感じで』
『ずいぶんカジュアルだな、お見合い相手にしちゃ』
『知らないわよそんなの!
ていうか来ないでよヒヒジジイ!
あの写真で終わりのはずだったのに!』
文面からでも澄の動揺が伝わってきた。何しろ三行連続で感嘆符が付いている。普段の春日澄なら、LINEのメッセージもちゃんと「春日澄」しているのだが、なんかそれどころではないらしい。
『俺に言われてもなぁ』
『言われてもなぁ、じゃないわよ。あんたの写真が通じなかったんでしょ』
『加工だぞ。通じるも通じないも何も、そりゃ先方が実物を見たいってんなら来るだろ。写真と実物が違うなんて、マッチングアプリじゃ日常茶飯事だし? お見合いの相手だってそういうのあるだろし』
『うるさい! とにかくあんたも来なさい』
『は? は? なんで俺が』
『写真を撮った人間として、責任取りなさいよ!』
それはどう責任を取るってことになるんだ?とは思うが、庄三郎はカレーの残りを掻き込みながら、『はあ、わかった』とだけ返した。
だって、気にはなったのだ。あの「出来のいいブス」を見て「会いたい」と言い出す人間は、つまりいったいどんな人間なのか。
・・・やはり、もしや、そういう・・・
あーー、いやー、そういう人がいるとは聞いたことあったけどさぁー。実際にブスと結婚したい人に会ったことなんてさぁー。なかったしなぁー。
・
言ってる間に明後日になった。
・
待ち合わせ場所は、大学から徒歩五分ほどのところにある、こぢんまりとしたカフェである。外壁はレンガ調にちょっと洒落ていて、窓際の席から桜並木が見える。葉桜になりかけの、緑がかった春の終わりの色だ。こういう場所を指定してくるあたり、先方、少なくとも場所選びのセンスはあるらしい。嫁選びのセンスは置いておくとして。
澄は案の定、「ブスメイク」を仕込んでいた。眉をわざと太く、ファンデーションの色を少し暗く、唇はくすんだローズ。なんというかもはや近頃見慣れた気もしないでもない、「春日澄、ブス版」である。
「これで大丈夫かな」
「というと?」
「化粧よ。写真の印象と実物が違いすぎるのも変だし、でも会ったらやっぱり『ないわ』って思われたいし」
「・・・なかなかぎりぎりの綱渡りだなぁ」
「なんだか近頃、人生そのものが綱渡りよ」
深いんだか浅いんだかよくわからないことを言いながら、澄は窓際の席に座った。庄三郎は「もしや、ブスの澄の方が『あるわ』って思われる可能性」について考えながらその隣に陣取る。人の癖ってやつは十人十色だしねえ。
それはそうと、なんというか、澄にとって、相手は「ヒヒジジイ」らしい。ひと回り以上も年上の、顔も知らない男。澄のイメージとしては、つまりそいつは脂ぎった中年がニチャァといやらしい笑いを浮かべてゲヒヒっと出てくる的な、そういう類いの存在であると。
庄三郎は、いまどき、お見合いの縁談を組むような家の息子、三十五歳が、そういう類の人物である確率はそうでもないんじゃないかなー、それよりやっぱりもしや・・・とか考えたりしていたが、澄の嫌悪感に水を差す権限も特に持ってはいなかったので、黙ってお冷やを啜る。
「来た、あの人かな」
澄が窓の外を見て言う。
カフェの入口のドアが開く。
入ってきた男に、特にヒヒジジイ感はなかった。
長身の、姿勢のいい男だった。見た目的にも年齢は三十代半ばに見える。髪は短めで清潔感があり、ネイビーのジャケットにインナーは白いカットソー。足元は白いスニーカー。カフェに来るにしてはちょっとだけ気を遣っている、でも気を遣いすぎてはいない感。なかなかに絶妙な塩梅。顔立ちは、この際正直に書くと、普通にいい男だった。切れ長の目に口角がわずかに上がっていて、全体的に「感じのいい兄貴」という印象である。
芸能系の仕事をしている人間の空気、というものがあるとすれば、こういう感じかもしれない。人前に出る側ではなく、人前に出る人間を「見る側」の顔をしている。つまり目がよさそう。視力が良い的な話ではない方だ。
男は店内を見回して、澄を見つけた。軽く手を上げて近づいてくる。
「春日さん? 藤堂です。はじめまして」
声は明るかった。変に低くもなく、作ったり取り繕った感じもない。
「あ・・はい。春日澄です。はじめまして」
澄の声がかすかにうわずっている。「ブスメイク」の顔で初対面の相手に挨拶するという状況のせいもあるだろうが、それ以上に、目の前の男が、ぜんぜんヒヒジジイ度が高くなかったことへの困惑のほうが、大きそうだった。
「そちらは?」
藤堂が庄三郎に視線を向ける。
「あ、えっと、この人は・・・」
「秋山です。あの・・・春日さんの写真を撮った者で」
澄が紹介しようとする前に、庄三郎が自分から名乗った。
「ああ、写真を、そうか! いやありがとう、あ座って座って」
藤堂が二人の対面に座る。
自然だった。初対面の学生を相手に、肩書きや年齢で圧をかける気配も全くない。
コーヒーが三つ運ばれてくる。藤堂はブラック。澄はカフェラテ。庄三郎はアイスコーヒー。
藤堂がブラックを頼む様子は、注文というより反射に近かった。この人は毎日たくさんの人と会って、そのたびにブラックを頼んでいそうだな。などと庄三郎は思う。
「いきなりだけど、単刀直入でいいかな?」
藤堂はカップに一口つけて、澄をまっすぐに見た。
「お見合い写真、拝見しました」
「・・・はい」
「すごい写真だったね。いろんな意味で」
藤堂は少し笑う。面白がっている笑い方だ。
「春日さん。率直に聞いてもいい?」
「どうぞ」
「あの写真、ずいぶんいじってるでしょう」
澄の肩が、びくりと動いた。
「あの写真のきみは、基礎がすごくきれいなんだ。顔の骨格輪郭の形も、目鼻口の配置のバランスもいい。肩から首にかけてのラインもとても整ってる。だけど印象だけが悪い。ちぐはぐなんだよね。見た目は一級品なのに、印象が不思議に三級品になってる」
藤堂はカップをゆっくりと回した。
「僕の仕事は、まあ釣書読んでくれてれば知ってると思うけど、人を見ることでね。オーディションの写真なんか、一日に何百枚も目を通す事もある。そうすると、写真と実物がどのくらいずれてるかって、だいたいわかるようになるんだよ。加工で盛ってる子もいれば、カメラが苦手で実物のほうが全然いい子もいる。でもね、」
藤堂はカップを置いた。
「加工で下げてる子ってのは、たぶん初めて見たんだ」
沈黙が落ちた。
澄は唇を引き結んでいた。何か少し追い詰められた子供の顔にも見える。
庄三郎は助け舟を出すべきかどうか迷う。が、結局、藤堂が先に口を開いた。
「それからね」
藤堂は澄の顔を、正面からまっすぐ見た。
「春日さん、きみ、それ自分でやってるの?」
澄がうっと息を呑む。
「ファンデの色が首と合ってないよ。わざと暗くしてるね。眉もちょっと野暮に描いてある。リップの色も、きみの肌のトーンとは合わない方向を選んでるよね、それもわざとかな」
馬鹿にした口調ではない。が、指摘はいちいち正解だ。
「失礼なことを言ってたらごめんね。でも僕が見てみたかったのは、写真のきみじゃなくて、こういうことをしようとするきみ。だから見に来たの」
この男は見えている。澄が重ねた「見せ方」の被覆を、まるで硝子越しにでも見るように透かして。
そういう目を持つ男がいる。写真家の秋山庄三郎としては、それは少し羨ましい。
「・・・はい」
澄が静かに言った。
「全部その通りです」
「だろうね」
「写真の加工も、今日のお化粧も、」
澄は少し俯いていたが、その声は震えていなかったし、細くも低くもなかった。一種の安堵のようなものさえ漂っている。いつもの涼し気でよく耳に届く澄の声に近かった。
「お見合いの話が・・・嫌で。写真の段階で断っていただこうと思って」
「うん。なるほどね。納得したよ」
藤堂はうなずくと、またコーヒーを一口飲んで、カップをソーサーに置いた。そして目の前の澄を真っすぐに見る。それからその隣の庄三郎にも一旦目をやり、また澄に視線をもどした。両手を膝の上に揃え、頭を下げる。
「ごめんね」
澄が顔を上げた。庄三郎も、え、と声が出そうになる。
「無茶な話だよね。二十の女の子に、ひと回り以上も年上の男との縁談なんて。うちの親戚筋が、春日さんのお家と昔からお付き合いがあるとかで、いつの間にか話がどんどん流れてて。僕もさ、正直困ってたんだ」
「・・・え?」
「うちの母がね、いい加減ちゃんとした人を見つけなさいって。三十五にもなって独り身でいると、変な女に捕まるわよ、って。毎回言うんだよ。電話のたびに言うの」
藤堂は苦笑した。それは嘘のない笑い方だった。
「要するにね、僕の側も押し付けられてて。この話」
庄三郎は思わず天井を仰ぐ。
ということは、つまり、この話は。
「放っておいても自然消滅してた、ってことですか」
「うん、まあ、たぶん」
藤堂は悪びれる様子もなく頷いた。
「僕が断るか、春日さんが断るか、どっちかで終わった話だったと思う。いや、どっちも断らなくても、僕がなんだかんだ忙しいんで〜ってやっているうちに、うやむやになって消える。まあそんな感じの話だったかもなぁ」
澄も庄三郎も、呆然としていた。
ヒヒジジイ(ヒヒジジイではない)は、最初から結婚する気などなかったわけだ。
変顔も、パリコレメイクも、庄三郎が実家のアトリエで天井を睨み、追憶の祖父に誓いながら一灯ライティングの逆を設計したのも、ペンタブレットのスタイラスペンを握り締め、ピクセル単位の繊細なクリエイティブワークをもってブスの彫刻に挑んだのも。全部、必要なかった。
ふは。なんだかなぁ。喜劇としてはそこそこだけど、あれこれ苦心した身としては、どうにもやるせ無い。
「・・・なんか、すみません」
澄が言う。
「はは、何が?」
「変なものを送りつけてしまって、かえってややこしい事に」
「そんなことはないよ。あんな写真はほんと、初めて見たんだ。面白かった」
・
「ところで秋山くん」
空気が弛緩したところで、藤堂が庄三郎に向き直った。その目の色がわずかに変わる。
先ほどまでの目より、少し鋭い、何かを測っているような目。
「あの写真、きみが撮ったんだよね」
「・・・まあ、はい。撮影とレタッチを」
「うん。面白いことするねぇ」
藤堂はテーブルの上で指を組んだ。
「あの加工、相当の腕がないとできないよ。素材がいいのに印象だけを落とすって、逆に言えば、素材の良さを完璧に把握していないとできない仕事だ。プロでもなかなかやれないと思う」
「・・・どうも」
「春日さんと同じ大学? 将来は写真家志望?」
「はい。いえ。その。人はあんまり撮りたくないんですけど。廃線とか、古い建物とか、そういうのを撮りたくて」
「へぇ。でも人を撮るの上手そうなのに」
「上手いっていうか・・・」
庄三郎は言い淀む。上手いというか、ひとりでに綺麗に撮れるわけだが、そんなことは言えない。
「まあ、ちょっと事情があって」
「事情。人をあんまり撮りたくない事情ね。面白いなぁ」
藤堂はにこにこしていた。にこにこしながら、しかし目の奥でなにやら計算機が回っている気配がある。気のいい男の顔の下に、プロフェッショナルの顔がちらちら見え隠れしているような。
そして、ジャケットの胸ポケットに一瞬だけ手を伸ばしかけて止めた。庄三郎にはそう見えた。
「さて、春日さん」
藤堂が再び澄に向き直る。さっきの鋭さはもう引っ込んでいる。
「縁談の件は、僕のほうから断りの連絡を入れるよ。僕から断ったほうが角が立たないと思うし。春日さんのお家にも、失礼がないようにするから」
「あ・・・本当ですか?」
「うん。もともとそのつもりだったしね。ただ、一つだけお願いがあるんだけど」
澄が身構えた。庄三郎も少しだけ背筋が伸びる。
「写真、一枚だけ撮らせてもらえないかな」
「・・・へ?」
「普通の写真。普通のきみの写真。考えてみてよ、僕の手元にあのブス加工写真だけ残るって、ちょっとどうかと思わない? 僕は今日きみに会って、ああ感じのいい子だなって思ったのに、手元の写真を見返すたびに、あのすごい悪女の顔が出てくるんだよ? 精神衛生上よくないでしょ」
藤堂はおどけたように言う。が、目の奥には笑いとは別の光が宿っている気もする。
澄は少し考えていたが、
「・・・あの、あなたがいい人だってことは分かりましたから。はい、構いません。どうぞ」
澄がそう返事をしたのは、言った通り藤堂がまともな人間だとわかったからだろう。自分のために縁談を断ってくれるという人間の、ささやかな頼みを断る理由もない。
「藤堂さんが撮られるんですか? 自撮りでいいなら」
「いや、そこはね、うん。秋山くん、君が撮ってくれない?」
そう言って藤堂は、ジャケットの内ポケットから小さなカメラを取り出して、庄三郎の方へ差した。マットブラックの、コンパクトなミラーレスだ。
「仕事柄、いつも持ち歩いてるんだよね。これで一枚お願いしていい?」
庄三郎に手渡されたそのカメラは、庄三郎が普段使っているものとはずいぶん違っていた。
ここで少し説明が必要だ。
庄三郎の普段使っているカメラは一眼レフだ。光学ファインダー、つまりレンズが捕まえた光そのものを、そのまんま覗くファインダーを使って構え、シャッターを切ると、重いクイックリターンミラーがバタンと跳ね上がってその光が記録される。そういう一眼レフだ。レンズは、祖父が晩年に使っていたものと同じマウント。操作系は、全部手に染みついている。
藤堂の取り出したカメラはミラーレスだった。ややこしい名のミラーは存在しない。いやその前に、メーカーが違う、ダイヤルの位置が違う。メニュー画面がまるっきり違う。
「ああ、えっと・・・」
庄三郎はカメラを受け取って、おそるおそるファインダーを覗いた。|電子ファインダー《Electronic View Finder》。小さなTV画面越しに世界を覗き見るような、普段とは違うどうしようもないタイムラグと違和感がある。
露出補正を探す。あった。が、回す方向がいつもと逆な気がする。カフェの窓際の、外光の混ざった光に合わせ、色温度も調整しようとメニューを辿ったが、階層構造がまるで違う。見知らぬ土地の電車の路線図を見たような並びだった。たぶんこれだろう、と思うところをいじる。
「大丈夫?」
藤堂が声をかける。
「あ、はい。ちょっと・・・操作確認してます」
澄は窓際の柔らかい光の中に座っていた。ブスメイクのままだが、さっきまでの会話で幾分肩の力が抜けた顔をしている。窓からの外の光が半逆光気味に差して、悪くないタイミングだ。
カメラを構え、ファインダーに澄を捉える。フォーカスは合っている、・・・たぶん。露出も・・・たぶん大丈夫。ヨシ!
シャッターを切った。
音は軽かった。いつもの、重いミラーが撥ねるバシャリッはなく、軽いチャキッという音。
さてと背面モニターを確認した庄三郎は、思わず声を上げた。
「暗っ」
えらく暗い写真が撮れていた。
露出補正を間違えていた。やはりプラスマイナスが逆だったのだ。色温度の設定の方もどこかで間違えたらしく、全体にうっすら青緑がかっている。結果として、顔色の悪い、何とも冴えない女の子が、薄暗い画面の中に収まっていた。
ある意味大変素直な、「ブス写真」だった。機材が違うとはいえ、これまで己の腕と祖父の血を総動員して撮れなかった代物が、操作ミスひとつであっさり撮れるとは。Oh、it's 冴えない彼女の写し方。ありがとうございます丸戸先生。
「どれどれ」
藤堂が背面モニターを覗き込んで、ぷっと吹き出す。
「これ、きみたちが頑張って作ったブス加工写真より酷いんじゃない?」
「わぁ、すんません、撮り直し撮り直し!」
庄三郎は慌てて設定を見直した。露出補正を修正し、色温度も選び直す。今度は背面モニターでプレビューしながら慎重に。
「よし・・・もう一枚いきます」
シャッターを切った。
今度はきちんとした明るさの、自然な色味の写真が撮れていた。窓からの外の光がちょうど、澄の髪の輪郭を描く柔らかなリムライトになって、肩の力の少し抜けた、ちょっとホッとした表情の澄が写っている。ブスメイクはそのままのはずだが、写真の中の澄は、ほんのりと品がある、素敵に綺麗なお嬢さんだった。
「うん、いいね。ありがとう」
藤堂はモニターの写真を見て、満足げに頷く。
「いい写真だ。こっちのきみのほうが、ずっといいよ」
澄は少し照れたように目を逸らした。
「じゃあ、今日は楽しかったです。春日さんも秋山くんも、ありがとう」
藤堂は立ち上がって、さっと伝票を取った。
「縁談の件は、僕のほうで。心配しないで」
そう言って、ふと何かを思い出したように、ジャケットの胸ポケットに手を入れる。今度は止めなかった。
「一応、渡しておくよ」
白地にネイビーの文字で「藤堂嶺」とある名刺、会社名と肩書が記されている。芸能系のプロダクションと思しき社名。肩書は代表取締役。
「何かあったらいつでも連絡してください。春日さんも、秋山くんもね」
二枚の名刺をテーブルに置いて、軽く手を上げ、藤堂嶺はカフェを出て行く。
ドアの向こうに消えていく背中は、やはり感じのいい姿だった。
・
テーブルには、コーヒーカップの残りと、二枚の名刺。
澄と庄三郎は、しばらく黙っていた。
先に口を開いたのは澄。
「・・・ヒヒジジイじゃなかった」
「だなぁ」
庄三郎はそう相槌を打ちながら、b専の人、ってわけでもなかったみたいだなぁ。などともちらちら思っていた。
「全然ジジイじゃなかった」
「年齢的にもジジイじゃないだろ、三十五は」
「うるさい。気分的なものなの!」
澄は少し拗ねたような顔をしたが、その表情はすぐに、問いへと切り替わった。
「ねえ」
「ん?」
「さっきの写真。一枚目」
「ああ、失敗したやつ」
「なんで前はあれをさっさと撮ってくれなかったのよ」
庄三郎は、ストローを咥えたまま止まる。
澄が言っているのは、あの暗い写真のことだ。露出を間違え、色温度を間違え、結果として「素直にブス」が撮れてしまった一枚。
あれだけ苦労したのだ。変顔をさせて、パリコレメイクをさせて、祖父の一灯ライティングの逆を設計して、それでもブスに撮れなくて、ピクセル単位のレタッチまでやって。なのに。
他人のカメラで、ただ操作を間違えただけで、あっさりとブスが撮れた。
「・・・」
庄三郎の頭の中で、歯車が回り始める。
あの一枚目。それは確かに純粋な操作ミスだ。藤堂のカメラは勝手が違ったから間違えた。
だが。
いつもの庄三郎ならどうだっただろう。条件がどんなに悪くても、被写体の良い瞬間を、良い光を、勝手に掬い取ってしまうあの状態なら。操作ミスを犯しても、きっと手が、指が、「正解」を選んでしまうのではないか。いやそもそも、あの状態で|ミスすることなど出来るのか《・・・・・・・・・・・・》? あの日、蛍光灯の下で、ホラーライティングで、ピンぼけで、何をどうやっても「きれいに」撮れてしまったのは、意識の外で勝手に正解を選ぶ手のせいだったはずだ。
あのカメラの時は・・・ そうはならなかった。
そして、二枚目はちゃんと綺麗に撮れた。普通に綺麗な写真が。でもその「きれい」は、どういう「きれい」だったのか。
庄三郎の脳裏に、いつも手にしている一眼レフカメラの姿が浮かぶ。そして澄を撮った、銀色のフードの付いた、大きな眼玉そのもののようなレンズも。
祖父から譲り受けた、ポートレート用のレンズ、庄三郎の持っている交換レンズの中で、一番ポートレートを撮るのに適している、あのレンズ。
庄三郎は溶けかけたアイスコーヒーの氷を、ストローでからからと回した。
「ねえ、聞いてるの?」
「・・・ああ。いや」
「なんであの時は撮ってくれなかったのか、って聞いてるの」
「あれはたまたまミスをして撮れたんだ。慣れないカメラだったから。それで・・・」
それは嘘ではないのだが、それだけではない何かが、庄三郎の中でじわりと形を成していく。
アイスコーヒーを飲み干し、庄三郎は席を立った。
テーブルの名刺を一枚取って、ジーンズの後ろポケットに突っ込む。もう一枚は澄が取った。
カフェを出て、大学に向かって歩きながら、庄三郎は考えていた。
いつものカメラじゃなかった。いつものレンズじゃなかった。
だから、いつもほどの綺麗にはならなかった・・・?
その答えは、もう少し先の話になる。




