34 王命に従うのが公爵令嬢の務め
ナーシャの瞳は国王を真っ直ぐ見つめている。
魔族の奴隷。それをナーシャが知っていることに動揺しているだろう国王は、二の句を告げずにいた。
なぜならナーシャが知っているということは、そこにいる魔王も知っているということになるからだ。
当然、ナーシャもわかっていて圧力をかけている。
(こんな大それたことをする日がくるなんてね)
心臓はバクバク飛び出さんばかりに音を鳴らしているし、まったく怖くないと言ったものの体は震える。
自分に力はなくとも、助けてくれる人がいる。
そう信じることしかナーシャにはできないが、その助けてくれる人を全面的に信じているからこそ、こうして立てているのだ。
沈黙を破り、声を絞り出したのはジェイロだった。
「な、なにをでたらめな……」
「でたらめなことを言い続けていたのはウェンデル小公爵のほうではありませんか。私が洗脳されているのをいいことに、こちらの意思を無視して勝手なことを」
ジェイロはつかつかと歩み寄ってきたが、ナーシャは怯まなかった。彼を兄と呼ぶこともしなかった。
たとえこのままジェイロに暴力を振るわれようと、絶対に一歩も引かない覚悟だ。
「私のギフトがテイムだとわかったあの日から、私はずっとウェンデル公爵家で軟禁生活を強いられてきました。役立たずのギフトを得るなど、公爵家の面汚しだと。結局、公爵家の者はみな私を駒としか見ていなかったのでしょう? 家族に愛されていたというのは、私の幻想でした」
認めたくなかった事実を、ナーシャは初めて本人を前にして言葉にしている。
本当は父親にも聞かせてやりたかったが、国王と兄が聞いているのなら十分だろう。
「ミラベル様の命で森に捨てられ、私はそのまま死ぬ運命でした。けれど彼に出会って、本当のギフトの力を知りました。もちろん最初は警戒されましたが……魔王城の皆さんは私自身を見てくれました。私自身を知って、優しくしてくれました。私は、ようやく本当の愛がなんなのかを知ったのです」
涙が溢れてしまわぬよう、ナーシャは叫ぶ。
「陛下、どうか目を曇らせないでください! 争いの種を生まないでくださいっ!」
こんな小娘の言い分をわかってもらえると本気で思っていたわけではない。
だが、ナーシャは言いたいことが言えて満足だった。
ただもちろん、目の前のジェイロがこのまま見逃してくれるはずもない。
怒りに震えた拳をナーシャに向かって振り上げた。
「っ、この……!」
「おっと。我が最愛に目の前で手を上げるとは。……骨も残さぬぞ」
しかし、それを許す魔王ではない。一瞬でジェイロの背後に移動したアルテムは、指一本動かすことなく、凄んだだけでジェイロの動きを止める。
ただし、アルテムの言葉は本気だ。それが伝わるからこそ、ジェイロもその場でピクリとも動けなくなったのだろう。隣で寄り添っていたミラベルもだ。
アルテムはつまらないとばかりに一つ鼻を鳴らすと、国王に視線を向けて口を開く。
「王よ。僕が怒りに任せて国を滅ぼさなかったことに感謝すべきだ。よくも我が最愛を傷つけ、同胞を奴隷にしたな……? ナーシャを見つけた瞬間、何度国を滅ぼしてやろうと思ったことか!!」
実際、アルテムを知る者はみな、彼がかなり我慢したことを褒め称えてくれるだろう。
暴力を振るわれ、ボロボロのナーシャを目にしてよく冷静でいられたものだと。
怒りを露わにしながらも、アルテムは優しい魔法でナーシャを包み込み、傷一つ残さず一瞬で完璧に治してみせた。
「証拠はすでに手中にある。奴隷にされている同胞たちも今頃、配下が助け出しているだろう」
ゆっくりと玉座へ歩み寄るアルテムを、騎士の誰も止めることができない。
どれほど忠誠を誓った近衛兵でも、魔王の威圧を前に体が震え、思うように動けないのだ。
「よもや言い逃れをする気ではあるまいな?」
今、彼らは思い知っただろう。
魔王に、魔国に手を出してはならないという本当の意味を。
脅威に怯えて暮らすのは恐ろしいことだが、そもそも敵う相手ではないのだ。
今、人間たちが平和に暮らせているのは目の前の魔王が人間の国に興味を持っていなかったからこそ。
何もしてこないことで油断し、調子にのった人間の愚かさゆえに、人間は破滅の道を辿りかねない。
国王とて、この一瞬で思い知ったはずだ。
しかし立場上、簡単に引き下がるわけにはいかない。
体を震わせながらもなんとか立ち上がり、大声で叫んだ。
「~~~っ、ウェンデル家長女ナーシャよ! そなたはまだこの国の公爵家に身をおいている。私の命に従うのだ!」
その丹力だけは立派なものだ、とナーシャは思う。
簡単に目も合わせられないほど高貴な人物だと思っていた国王が、今は憐れに見えた。
諦念の眼差しで見つめながら、ナーシャは静かな声で国王の言葉に答える。
「……どのような命でしょうか」
ナーシャが従順に見えたのだろう、国王は続けざまに唾を飛ばしながら命じた。
「魔王をテイムしているのであろう? 今すぐ魔国へ戻り、二度と我らが人間の地に足を踏み入れぬようその者に命令せよ!」
「……陛下。魔国に対する謝罪はなさらないのですか?」
そう簡単に国のトップが頭を下げられるわけがないと知っているからこその質問だった。
返事によっては、ナーシャも情けをかけるつもりで。
「なぜ我らが謝罪せねばならん!? 魔族など存在するから人間が脅かされるのだ! 悪しき存在を奴隷として扱うことのなにがおかしい! 口答えするとはそなたも立場を理解しておらぬようだ。今すぐ命に従え!」
ほんの少しだけ国王に見出した希望は、カケラも残さず消え失せる。
ナーシャは、決断した。
「……わかりました。アルテム」
「ナーシャ……?」
今にも国王に掴みかかりそうなアルテムに声をかけると、俯いたままナーシャは彼の手を取った。
戸惑う様子を見せたアルテムは、顔を上げたナーシャの表情を見て息を呑む。
そこには怒りの感情も、悲しみの感情もない、ただただ穏やかな笑みがあった。
「アルテム。貴方のテイムを……解除します」
「なっ」
しかし紡がれた言葉は予想外のものだった。
最も驚いたのは他ならぬアルテムだ。
拒否する暇などなく、アルテムとナーシャの二人が眩い光に包まれる。
あの日、あの森で、ナーシャがうっかり魔王をテイムしてしまった時のように。
光が収まり、呆然と立ち尽くすアルテムに向かってナーシャは迷わず告げた。
「では改めて命じますね。アルテム、陛下の要求を全て飲んでください」
アルテムへの信頼を込めた、とびきりの笑顔で。




